ルシアナの領地経営は順調に進んだ。
英雄ケルスと、呪法を学んだ村民たちにより作られた呪法薬が、新種の魔法薬として配布された。
ルシアナも一緒に呪法薬の製法を学び、ある程度の種類の呪法薬を作ることができるようになった。
そして、問題の小麦であるが、収穫できるようになったときには墓守の黴の影響を受けていたと思われる斑点もなくなり、普通の小麦と何ら変わらない感じに成長した。
そのため、小麦の収穫、呪法薬、そして狩った魔物の販売で好景気に沸いていた。
ただ一人、ルシアナを除いて。
「はぁ……領地経営としてお兄様を支えるために派遣されてきたというのに、この損害」
味覚改変の呪法薬は一律ヴォーカス公爵領が買い取り、各街や村に配布されることになった。
その金額は魔法薬としては安めの設定にしているが、しかし普通の薬としては高価である。
しかも、ルシアナの頼みで、他領の貧しい村にまで無償で提供することにした。
もちろん、取れるところからはしっかり取ったけれど、それでも収支でいえばマイナスの方が多い。
「損失……お兄様、ごめんなさい……」
「領民のために使ったお金なので、カイト様もきっとわかってくださいますよ」
マリアがそう言ってルシアナを慰める。
だが、それで彼女の心が晴れることはなかった。
「わかってもらうのと、借りが帳消しになるのとでは理由が違います。本来、お兄様の立場でしたら魔法薬は無償とはいかないまでも利益度外視での徴発、そして他領の村へもお金を取り立てることは可能でした。どちらも私の我儘で頼んだのです。それは私の借りです」
「後悔なさってるんですか?」
「いいえ、後悔はしていません。たとえあの事件の前に転生しても私はきっと同じ選択肢を選んだでしょう」
「……転生?」
「いえ、過去に戻っても――という意味です」
うっかり転生について喋ってしまったが、マリアは、まさかルシアナが一度死んで、過去にタイムリープしたなどとは思いもしていないようだ。
「それで、お嬢様。出発の準備はできているのですか?」
「出発?」
「忘れたんですか?」
「忘れた? そういえば、昨日の夕方からの記憶がありません。それと、何故でしょう、頭が痛いです」
「二日酔いですよ」
「ふつ……かよい?」
頭が痛い原因はそれなのかと思った。
同時に、お酒で記憶を失っているのなら、早速、練習の成果が役に立つと思った。
前世の記憶を一部失っているのではないかと思っていたルシアナは、過去の記憶を呼び戻す呪法薬と同時に、短期間の記憶を取り戻す聖魔法の修得にも成功していた。
もっとも、その魔法は、つまりは過去の記憶を呼び戻す魔法を修得し損ねたときに覚えた失敗作ではあるのだが、こういう時に役に立つ。
『リコール!』
魔法を唱えると、記憶が段々と蘇ってくる。
古い記憶からではなく、新しい記憶から順番に。
最初に思い出したのは、村人と全員で聖歌を熱唱しているシーンだった。
「え? 私なんで歌ってるんですか? しかも、え? 凄い魔力使ってる……」
体から光のオーラが溢れていた。
八歳の頃、儀式として神に捧げた賛美歌を改良したものだ。
「思い出したのですか? お酒を飲んで調子に乗ったお嬢様が歌っていましたよ」
ルシアナが転生して間もなくの頃、モーズ侯爵領に行く途中の宿場町で、豊作を願う祈りを神官の代わりに捧げたことがあった。
その祈りというのが賛美歌であり、しかも宿場町は青年団たちの村のすぐ近く。
最初は、祈りを捧げた聖女と言われる女性とルシアナが結びつかなかった青年団たちだったが、噂の聖女の見た目と年齢、そしてルシアナの魔法を目の当たりにした青年団たちは、その聖女がルシアナだと信じて疑わなかったらしい。
それを昨日確認し、酔っ払っているルシアナに確認したところ、彼女はYESともNOとも言わずに歌い出したのだ。
失敗したとは思うが、聖女であると明言していないだけまだマシか。
(私、こんなにお酒が弱かったんだ……)
そして、記憶はさらに遡っていき、宴会が行われた理由がはっきりと蘇った。
カイトから手紙が届いた。
アーノル公爵が領主町に帰ってくるから、ルシアナも戻って出迎えるようにと。
それに伴い、この村での仕事は終わりになると。
それを村人に話したら、ルシアナを送り出すための宴会が行われたのだ。
その村人の行為を無碍にするわけにもいかず、注がれたお酒を飲んでいったせいで、あのような醜態――村人たちからしたら奇跡の御業――を晒してしまったようだ。
「って、えっ!? これから領主町に戻るんですかっ!? 私、何の準備もしていませんっ!」
「はぁ、やっぱりですか。お嬢様の衣服やその他の準備は済ませていますから、お嬢様は魔法薬関連の整理をお願いします。さすがに器具等は私にもどう扱ったらいいかわかりませんので」
「わかりました! 直ぐに済ませます!」
そう言ってルシアナは急ぎ、仕事を終えたのだった。
そして一時間後。
キールが操る迎えの馬車が来た。
ルシアナはそれに乗ろうとして気付いた。
村人全員がルシアナを見送るために集まっていることに。
「ルシアナ様、お勤めご苦労様でした。村人一同、あなた様から受けた恩は忘れません」
新村長となったケルスが村人を代表して言い、そして村人たちが頭を下げる。
彼らの感謝の気持ちが上辺だけのものではないことは、その気持ちを向けられているルシアナにはよくわかった。
ルシアナがシアと同一人物であると明かしたのは森の民の族長とケルスの二人だけなのだが、恐らく村人たちはシアの正体がルシアナだと気付いているのだろう。
扇で顔を隠すにも限度がある。
いくら鈍感な人間でも気付くなと言うほうが無理がある。
そして、とうにバレていることはルシアナも気付いていた。
そもそも、正体がバレていないと思うのなら、そもそも昨日の宴会には参加しなかっただろうし、なによりここ最近は悪役令嬢として振舞うことが減っていた。
「私もあなた方と過ごした時間はとても掛け替えのないものでした。よい休暇になりました。また村を訪れることがありましたら、よろしくお願いします」
ルシアナがそう言って頭を下げ、馬車に乗り込む。
「お嬢様、すっかり大人気ですね。もう悪役令嬢はお辞めになりますか?」
「いいえ、悪役令嬢は明日から頑張るわ」
そして、ルシアナは思った。
本当に忙しい日々だったし、大問題を引き起こした領地経営だったけれど、悪役令嬢としてではなく、ありのままのルシアナで人々と接することができたこの一カ月は、本当に休暇だったのだと。
「あと半年の後に始まるターゼニカでの学園生活では、悪役令嬢の方が何かと便利ですから、それに向けてリハビリが必要だもの!」