ルシアナが王立魔法学院ターゼニカに入学して一週間が過ぎた。
「シア、今朝は機嫌がいいな。何かあったのか?」
「いいえ、特に何もありませんよ」
ポレットに尋ねられてルシアナはそう言ったが機嫌がいいのは事実だ。
ようやくルシアナとして全ての授業免除試験を突破したのだった。悪役令嬢を目指すと決めたその日から、この時のためにルシアナとして部屋にいたときはずっと勉強をし続けた。
そうでなくても、幼い頃から侍従長のステラに与えられた膨大な課題をこなしていたから、基礎学力は整っていたが、それでも授業免除試験の難易度は非常に高い。
特定の教科だけならまだしも、全教科となるとかなり苦労を重ねる結果になった。
その努力もようやく報われた。
これからはルシアナは表向きは引きこもって悪役令嬢として活躍できる舞踏会や茶会にだけ出席して、授業はシアとしてのんびり受けることができる。
そう思って気分が高揚していた。
ただ――とルシアナは隣にいるポレットを見る。
少し憂鬱そうな顔をしている。
「ポレットさんは随分と……その、辛そうですね」
「あぁ……座学というのはどうも性分に合わなくてな……」
ポレットは苦笑してそう言った。
授業態度はとても真面目なのだが、そもそも勉学に励む経験がないのだろう。
黒板に書かれた文字を板書しているが、それに集中して授業の内容が耳に入ってきていない様子だ。
「アリアはその点、要領よくやってるな」
「そんなことないよ。ついていくのがやっとだよ」
アリアはそう言って自分の頭を撫でるけれど、ポレットの言う通りアリアはルシアナから見ても要領よくやっているように見えた。
教会の神父様の中には、子どもたちに文字や数字を教える人もいる。
きっと、アリアはそこで基礎的な学問を学んでいたのだろうとルシアナは思っていた。
その証拠に、彼女はペンの持ち方やノートの取り方なんかもかなり慣れているようだった。
ノートが学生に支給されるようになったのはここ数年のことで地方都市ではまだ普及していないはずだけど、ヒューズ伯爵領は学問に力を注いでいる。
ルシアナと同じように聖の単一属性を持つアリアには特別待遇で勉強を学ばせていたのかもしれない。
「でも、次の授業は実技だよね? だったらポレットも楽しみじゃないの?」
「実技といっても薬学だから、やはり門外漢だ。とはいえ、座学よりはやる気が出るのは確かだな」
ポレットはそう言って、黒板に残っている文字を必死になって書き写していた。
「あ、私、授業前に用事があるんだった。先に行ってるね」
アリアはそう言って走るように出て行った。
ルシアナはポレットがノートを取り終わるのを待ち、一緒に薬学の教室に向かった。
薬学についてはいろいろと勉強しているけれど、学院で学べば新たな気付きもあるかもしれないとルシアナはこちらでも上機嫌だった。
薬学の講義を受ける貴族は少ない。
というのも貴族が自らポーション薬を作る慣習はないからだ。
そういえば、知り合いに一人だけポーション作りに躍起になっている貴族がいたなとある貴族のことを思い出す。
結構な期間、冒険者ギルドに訪れてはルシアナのことを師と仰ぎ、ポーション作りの基礎を叩きこまれた。
しかし、最近は姿を見せなくなった。
手紙が届いたのだが、攻撃魔法の修行もせずにポーション作りにばかり夢中になっていることに憤りを感じた彼の父親が王都から実家に呼び戻したのだとか。
それでも、ポーション作りを頑張っているらしい。
最近は、ギリギリ売り物になるレベルのポーションが王都の冒険者ギルドに届けられていた。
独学でポーション作りを続けているらしい。
薬学の講義を受ける工房に辿り着いた。
随分と小さい工房だ。
学院の予算はほとんど貴族のために使われる。貴族があまり講義を受けない薬学講義のために予算はあまり回されないのだろう。
「ポーションは軍の補給物の中でも最重要物資だというのにな……」
「仕方ありませんよ。ポーションを作るのは薬師ギルドだっていうのが世間一般の認識ですから。薬師ギルドでも研究機関はありますから、こちらに予算を回すくらいなら、薬師ギルドに予算を回そうって思うのでしょう」
かくいうルシアナも前世では薬学の講義を学ぼうと思わなかった。
他の講義をまともに受けていたかと言われたら、結果は否だが。
講義の部屋は長テーブルを囲むような席になっている。まるで食卓のようだ。
集まっていたのはほとんど奨学生だったが、その中で一人、貴族らしい服装を着ている男性がいた。
アリアと何か話していたが、彼はルシアナを見つけると満面の笑顔で手を振って近付いてきた。
「師匠! 師匠ではございませんか! このような場所で会えるとはなんたる僥倖!」
そう言ってルシアナの方に近付いてくる短い髪の細身の男。
だが、その細い体に筋肉が詰まっているのは服の上からもわかるほどに身体が鍛えられている。
一瞬誰かわからなかったが、ルシアナのことを師匠と呼ぶのは一人しかいない。
「もしかして、ジーニアス様ですか?」
ルシアナの問いに、彼は笑顔で頷いた。