挙式から数週間が経った。純白のウェディングドレスに包まれた自分を思い返すと、エリザベス・グリーンは今でも不思議な気分に襲われる。穏やかな陽射しの中、王都にある大聖堂の長い回廊を歩き、誓いの言葉を交わしたあの日。あまりにも形式的な雰囲気に、肝心の新郎であるアレクサンダー・クロフトの胸中がまったく読めず、ただ呆然としていた記憶が鮮明によみがえる。
それでも、あの時はまだ「政略結婚など、これが普通なのだろう」と自分を納得させていた。だが実際にクロフト家へ嫁ぎ、夫婦として過ごすようになってからも、アレクサンダーは相変わらず冷徹な印象を覆すことはない。むしろ、彼の不在が多すぎて、“夫婦として過ごす”という感覚すら希薄だった。
――一体、彼はいつ屋敷にいるのだろう。――
そう思わずにいられないほど、アレクサンダーは頻繁に屋敷を留守にした。今朝も早くに馬車で出かけ、戻りは夜更けか、あるいは翌日になるかもしれない。
エリザベスの知る限り、クロフト公爵家の領地は広大で、複数の地方に散らばっているという。各地に領主代理を置きつつも、アレクサンダーは自ら領地を巡回し、現地の状況を細かく把握しようとするらしい。そのため毎日のように外出しており、屋敷に泊まらないことも珍しくない。
はじめのうちは「出張中だから」とアレクサンダーの秘書が説明してくれるのだが、エリザベスにしてみれば、あまりにも情報が少なすぎる。通常、領地管理というのは執務室で書類を取りまとめ、使者や代理人を派遣して済ませる貴族がほとんどだ。そんな中、アレクサンダーの積極的すぎる行動力は、むしろ異様に思えた。
しかし当のアレクサンダーは、彼女と顔を合わせる短い時間でさえ、「領地の視察がある」「商人との交渉がある」とだけ言い残し、まるで義務を果たすかのように去っていく。その横顔からはわずかな疲労こそ感じられるが、「結婚したばかりの新妻を顧みよう」という様子はまるでない。
エリザベスは胸の奥で微かな失望を抱きながらも、これまでの人生で見せてきた強い意志を失うことはなかった。伯爵家の苦しい財政事情を知り尽くし、いくつもの修羅場を潜り抜けた経験から、多少のことで挫けるような人間ではない。
むしろ彼女は、この“理解不能な夫”をなんとか理解しようと試みはじめる。政略結婚と割り切ってはいても、完全に拒絶し合うのではなく、せめて同じ家に暮らす者として手が届く範囲の努力はしたい。――それがエリザベスの考えだった。
そんなある朝、エリザベスはいつものように礼儀作法の整ったドレス姿で、執事からの報告を聞いていた。アレクサンダー不在の間も、クロフト家には多くの要件が舞い込み、夫人となったエリザベスが対応せざるを得ないことが少なくない。
今日も領民が屋敷へ陳情に来ているらしく、執事のファーレンは「公爵様がご不在ですので、代わりにご夫人にお目通りいただければ」と頭を下げる。
「わかりました。私でよければ話を伺いましょう」
エリザベスは微笑みながら答えた。伯爵家で暮らしていた頃から、彼女は領民の訴えを聞くことに慣れている。たとえ相手が初対面であろうと、相手が話しやすいよう心配りを欠かさないのが彼女のやり方だ。
サロンには、粗末な衣服を身に着けた老人が不安そうな面持ちで座っていた。見るからに農民風の出で立ちだが、クロフト家の領地は広大であるため、こうして直接訴えに来ることは珍しい。
「はじめまして。私はクロフト公爵家の……ええと、エリザベスと申します」
言い慣れない“クロフト”の姓を名乗ることに、まだ若干の戸惑いを覚える。だが、老人はエリザベスの名乗りに安堵したように、「奥方様……」と、か細い声で言葉を続ける。
要件は、領内の灌漑設備が壊れたため修理費を援助してほしい、というものだった。先日降った大雨によって水路の一部が崩れてしまい、放置すれば作物の育成に重大な影響が出るという。
エリザベスは真剣に話を聞き、できるだけ詳しく状況を尋ねた。どの程度の規模で、どのような資材が必要なのか。領民たちはどこまで自分たちで補修可能なのか。クロフト家の役人は現地調査に行ったのか――。
答えを聞いていくうちに、エリザベスは気づいた。アレクサンダーは既に現地へ視察に行き、簡易的な応急処置を命じていたらしい。しかし雨の被害は想像以上に大きく、従来の予算では全てを補いきれないというわけだ。
「公爵様からは“しかるべき補助金を手配する”とのお言葉をいただいたのですが、詳しい話を聞けないまま、お忙しそうにどこかへ行かれてしまいまして……。私たちも、どうしていいやら」
老人は申し訳なさそうに頭を下げる。
「そうだったのですね」
エリザベスは、すぐに状況を理解した。アレクサンダーは口約束だけ先に与え、あとは書類で処理すれば済むと考えていたのかもしれない。だが、現場の人々は直接的な指示を待っている。そこがすれ違いを生んでいるようだ。
「では、私が責任をもって書類をまとめ、閣下の決裁を仰ぎますね。きっと公爵様も、貴方たちを見捨てることはありませんから」
エリザベスがそう告げると、老人は涙ぐみながらお礼を述べた。まだ夫婦としての会話がほとんどなくとも、アレクサンダーが領民を切り捨てるような男ではないと、彼女はなんとなく確信していたのだ。
その理由は、婚姻前にわずかに耳にした噂にある。アレクサンダーは徹底した管理と冷徹な交渉術で有名だが、“自らの領民を豊かにする”という信条を持っているという話を聞いたことがあった。領民が困窮すれば税を得ることもできないため、彼らの生活を安定させることが最終的に自分の利益になる、と考えているのだろう。
確かにそれは単なる打算かもしれない。けれど、単純な打算ですら、実際に行動して領地を巡回し、必要な整備を怠らない姿勢は評価できる。少なくとも“領民を厄介払いする”などという冷酷さとは違う。
(やっぱり仕事熱心なのね……。でも、不器用というか、一人で全部抱え込みすぎているんじゃないかしら)
エリザベスは屋敷に戻ってから、早速関連書類を探し出し、必要事項をまとめ始めた。こうした作業は苦ではない。伯爵家で財務を切り盛りしていた経験は十分にあるし、それを通じて培った実務能力が自分の強みだと自負している。
真夜中近くになって書類が完成すると、使用人たちは「奥方様、もうお休みにならないと……」と声をかけてくる。エリザベスは「ありがとう、でももう少しだけ」と言って微笑み、机上の書類を手に取った。
どうせ夫は今日も戻ってこない。であれば、帰宅したときにすぐ確認してもらえるよう、まとめておこうと思ったのだ。
翌朝。夜が明けて少しした頃、エリザベスは自室でうとうとしていた。あまり眠れなかったせいで、浅い眠りに陥っていたのだ。
すると廊下の方で、「公爵様がお戻りになりました」という声が聞こえた。まだ朝食の支度が整う前の早い時間だ。彼は夜明け前に帰ってきたのだろうか。
エリザベスは急いで身支度を整え、執務室へ向かった。アレクサンダーがそこにいるかもしれないと思ったからだ。扉を開けると、まさに彼が机に書類を広げ、疲れた表情で目を通しているところだった。
「おはようございます、閣下」
自然と敬称が出てしまうが、夫婦の間で「閣下」はいかがなものか――と、頭のどこかで思う。それでも、アレクサンダーがまるで気にしていない様子なので、とりあえず使い続けていた。
「……ああ」
アレクサンダーは一瞬だけ顔を上げ、エリザベスを見やる。相変わらずの冷ややかな視線。しかし、その瞳の奥にわずかな疲れがにじんでいるように見えた。
「少し、お話ししたいことがあるのですが」
エリザベスがそう切り出すと、アレクサンダーはため息混じりに書類を机へ置いた。
「いいだろう、簡潔に頼む。これから休みたいところだ」
昨夜はほとんど眠らずに移動していたのかもしれない。くっきりと目の下にクマがある。そんな状態でも仕事をやめないあたり、確かに仕事熱心すぎるほどの男だと痛感する。
エリザベスは昨日まとめた水路修理の件について手短に説明し、書類を差し出した。アレクサンダーは黙ってそれに目を通し、ところどころ確認しながら頷いている。
「ふむ……。思ったより被害が大きいな。これはもう少し金を回す必要があるか。財務担当には何か言ったのか」
「いいえ、まだです。閣下の許可をいただければ、すぐに手配させます」
エリザベスがそう返すと、アレクサンダーはどこか納得した様子で印鑑を押した。そこには何の迷いもなかった。
「助かる。おかげで考えがまとまった」
珍しく率直な礼の言葉が出たことに、エリザベスは内心少し驚く。やはり彼にとって領民の問題は最優先であり、他人の助力を素直に認めるだけの柔軟さはあるらしい。
「私はその……、今後もこうした問題があれば、お手伝いしてよろしいでしょうか。私、以前から領地の財務管理にも携わっていた経験がありますので」
ほんの少し勇気を出して申し出ると、アレクサンダーは一瞬目を細めた。否定されるかと身構えたが、彼は静かに首を縦に振る。
「好きにすればいい。ただし、領民の面倒をすべて見るのは大変だぞ。俺は体がいくつあっても足りないと思っているくらいだ」
言葉こそ素っ気ないが、それは事実上の了承だ。エリザベスは胸の奥で安堵し、微笑を浮かべる。自分にできることがあれば、やっていきたい。この結婚が味気ないものであっても、せめて自分がクロフト家にいる理由を見出したかった。
「ですが、ここまで休みもとらずに外を駆け回っているのは、さすがに負担が大きいのではないですか? 休息を取られた方が――」
エリザベスが優しい口調でそう促すと、アレクサンダーはわずかに額に皺を寄せる。
「心配はいらない。忙しいのは今に始まったことではない」
彼は言い捨てるように言って立ち上がった。まるで「これ以上は干渉するな」と言わんばかりだ。しかし、そう拒絶しながらも、どこか彼の態度には陰りがあるように見える。
(本当は誰かの助けが欲しいのでは……? でも自分から言い出せない不器用な人なのかもしれない)
エリザベスはそう感じ、ほんの少しだけ彼に対する見方が変わり始めていた。
同じ頃、かつてエリザベスの婚約者だった貴族レオナルド・ハーキンスは、王都の一角にある自分の邸宅で不敵な笑みを浮かべていた。
「エリザベス・グリーンが、クロフト公爵と政略結婚をした……? ふん、あの女もようやく自分の価値を弁えて、“最善”を選んだわけだ」
ワイングラスを傾けながら、彼は投げやりな口調で呟く。もともとレオナルドはエリザベスに求婚し、一度は婚約を取り付けていた時期があったのだが、グリーン家の財政状況が悪化すると共に自身の損得を考え、あっさりと破棄したという経緯がある。
エリザベスの父・ロベルト伯爵も一応は反発したものの、レオナルド側が契約上の抜け道を巧みに突きつけ、ゴリ押しで破談へ持ち込んだ。今思えば、エリザベスや家の事情をまったく顧みない彼の態度は、まさに“自己中心”そのものだった。
しかしレオナルドは、今さらになってエリザベスが大貴族のクロフト家に嫁いだと聞くや、「グリーン家ごときがそんな大きな後ろ盾を得るなど許せない」と思うようになった。かつて自分のものだったはずの“所有物”が、より巨大な存在に奪われたような屈辱感――レオナルドはそんな歪んだ感情を抱いていた。
「とはいえ、所詮は政略結婚。あの冷徹な公爵が、一介の伯爵令嬢を愛するなどあり得ない。すぐに破綻するに決まっているさ」
レオナルドは鼻で笑う。クロフト公爵の冷酷な評判を知っているつもりだし、エリザベスはともかく、“生意気な女”程度の認識しかない。あのまっすぐな性格が、冷徹な公爵に通じるとは思えないのだ。
「それどころか、下手をすれば形だけの妻として冷遇され、いずれ捨てられるかもしれない。はは、そんな展開も面白いじゃないか」
しかし、ただ眺めているだけではつまらない。もっと確実に彼女を失墜させるよう仕向けたい――そう考えるのがレオナルドの性分だ。
彼はワイングラスを置くと、側近の男を呼び寄せた。
「エリザベス……いや、いまはクロフト公爵夫人か。あの女がもし“公爵家に相応しくない振る舞い”をしたという噂が立てば、どうなると思う?」
「……そりゃあ、公爵夫妻の名誉は地に落ちますが。クロフト公爵に睨まれるのは、あまりに危険では?」
「リスクはあるが、面白い賭けでもある。ほんの少しの噂を流すだけさ。公爵が留守の間に、あの女が男を引き込んでいたとかね……。ささいな嘘でも、火のないところに煙を起こすのは簡単だ」
レオナルドは薄笑いを浮かべる。彼は“エリザベス・グリーン”という女性の強さを理解していない。むしろ、あのまっすぐな意思表示が自分に歯向かったと解釈し、潜在的に敵意を燃やしているのだ。
「まぁ、ゆるりと楽しませてもらうさ。いつかクロフト公爵家から追い出され、泣き崩れるあの女の姿が目に浮かぶ」
歪んだ欲望と自己顕示欲を満足させるため、レオナルドは徐々に暗躍を始めたのだった。
一方その頃、エリザベスはクロフト公爵家での生活を少しずつ軌道に乗せはじめていた。領民の訴えを聞き、財務担当と連携を取り、時には使用人の悩みごとまで耳を傾ける。伯爵家では当たり前にしてきたことだが、それらを公爵家のスケールで行うとなれば、やはり規模が違う。
とはいえ、アレクサンダーほど無茶はしない。むしろ使用人を適切に動かして、必要な情報を集約し、円滑に処理する仕組みを作る――エリザベスはそれを粛々と進めていた。
いつしか、公爵家の中ではエリザベスに対して「公爵様の留守をしっかり支えてくださっている」と感謝の声が広まっていく。特に長年アレクサンダーに仕えてきた家臣の中には、「公爵様の負担が少し軽くなったのでは」と安堵する者も出てきた。
そうした家臣たちが口にする言葉から、エリザベスは“もう一つの真実”に気づくことになる。
「公爵様は、昔から休みという休みを取ったことがないんですよ。とにかく領地が広いため、代理人を置いても信用しきれず、結局自分で動いてしまう。だからいつも不在がちで、城(本邸)には人がいなくなる」
「それに、公爵様は基本的に妥協を許さない方です。家臣たちの提案も丁寧に聞くのですが、最終的にはご自身の納得がいくまで調べ尽くそうとされる。現場の状況すら、実際に見て確認しないと承諾しないのです。そんなご性格ゆえに、人付き合いが不器用と誤解されがちです」
語り手の老騎士や執事らは、皆口を揃えてアレクサンダーへの“絶大な信頼”を表す。彼らは慕っているのだ。確かに厳しく冷たい面があるかもしれないが、決して裏切らない主君だと知っているからこそ、忠誠を尽くすのだろう。
(なるほど……。あの冷たいと思っていた瞳も、本当はすべてを見極めようとする真面目さの表れだったのね)
エリザベスは心の中で呟き、自分が抱いていたイメージとのギャップに驚く。初対面のときは確かに冷酷に見えた。だが実際は、冷酷というよりも“人との距離の取り方が下手で、しかも仕事に没頭しすぎる”男なのかもしれない。
もし彼がもっと周囲に甘えたり、助力を受け入れたりできるタイプだったら、ここまで無理をする必要はないはず。それをしないのは、不器用ゆえの“責任感”の強さでもあるのだろう。
そのように理解を深めていくにつれ、エリザベスはいつしかアレクサンダーに対する見方を変えつつあった。距離感を取り違えていた夫を、少しずつ近くに感じ始めている自分に気づく。
とはいえ、当のアレクサンダー本人は未だに素っ気ない態度を崩さない。エリザベスが協力していることには感謝こそしているようだが、肝心の夫婦間の会話は極端に少ないままだ。
そんなある日の夕刻。エリザベスが書庫で古い行政文書を探していると、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。見ればアレクサンダーが血相を変えて、慌てた様子でこちらへやってくるではないか。
「エリザベス、ここにいたのか」
彼は息を切らし、まるで何かから逃げてきたかのように立ち止まった。その姿は、いつもの冷静沈着な姿からは想像もつかない。
「どうなさったのです? そんなに息を切らして」
エリザベスが心配そうに声をかけると、アレクサンダーは周囲を見回し、近くに誰もいないことを確認してから、低い声で呟いた。
「……少し話がある。部屋を移そう」
そして彼はエリザベスの手首を軽く引き、書庫の隣の応接室へ滑り込んだ。中に入ると扉を閉め、誰にも聞かれないように音を下げる。
「実は……変な噂が流れている。『クロフト公爵夫人は、夫の留守中に他の男と密会を重ねている』というありもしない話だ」
そう切り出した瞬間、エリザベスは驚きのあまり言葉を失った。もちろん彼女には全く身に覚えのないことだ。
「わ、私が……そんなことを? それは一体、誰が……」
「正体はまだ確定していないが、どうやらレオナルド・ハーキンスが絡んでいるらしいという情報がある。君の元婚約者だったという男だ」
レオナルドの名を聞いたとたん、エリザベスは胸の奥に冷たいものが走るのを感じた。かつての婚約破棄の顛末は、彼女にとっても嫌な思い出だ。しかし、今さらこんな嫌がらせをしてくるなんて――。
「でも……どうしてそんなくだらない噂に、閣下が慌てるのです? デマだと分かっているのなら、気にする必要はないと思うのですが」
そう問うエリザベスに、アレクサンダーは表情を硬くしたまま答える。
「俺が気にしているのは、噂そのものではない。レオナルドの狙いが何であれ、君を巻き込んで足場を崩そうとしている可能性がある。そうなれば、君自身や君の家族が危険にさらされるかもしれない」
「危険……?」
「……君が想像する以上に、貴族社会の裏の争いは苛烈だ。特に、領地や権力をめぐる利害がぶつかるときには、手段を選ばない輩がいる。レオナルドもそうした暗部の一端に繋がっている可能性がある」
アレクサンダーの声には、不安と焦りが入り混じっているようだった。いつもは冷静な彼が、どうしてこんなにも動揺しているのか――。
その疑問に答えるように、アレクサンダーは続ける。
「正直に言おう。この結婚は、俺が“君を守るため”に望んだ面が大きい。グリーン伯爵家の財政難を救うためというのも確かだが、それ以上に君が貴族社会の陰謀に巻き込まれるのを防ぎたかったんだ」
「……え……?」
思わずエリザベスは息をのむ。アレクサンダーが、自分を守ろうとしていた? しかし、どうしてそこまで彼女を気にかけるのだろう。出会ったときは政略的な側面しか感じなかったのに。
アレクサンダーは少しだけ視線を落とし、続ける。
「君の評判は、王都でも聞いていた。『領民思いの、美しく賢い伯爵令嬢』だとな。だが同時に、君の家が経済的に困窮していることも知っていた。そこを狙って近づく輩がいるかもしれない。いや、実際にいた……レオナルドのようにな」
昔、アレクサンダーはグリーン伯爵家周辺の動きを調べていたらしい。当時、エリザベスを巡って奇妙な金の動きや、複数の貴族間の噂が飛び交っていたのを知り、いずれ彼女が危険にさらされるかもしれないと感じたという。
「君が苦しむ姿を、なぜか想像したくなかった。……それで、君を自分の妻として迎え入れれば、少なくとも安易に手出しはされないだろうと考えた。それが結果的に政略的な形になったとしても」
言い終える頃には、アレクサンダーの声はかすかに震えていた。彼の漆黒の瞳が揺れている。
(この人は……本当は、不器用なだけで優しいんだ)
エリザベスは胸が熱くなった。自分を巻き込んでしまったという負い目からか、彼はいつも毅然とした態度で“冷酷な夫”を演じていたのかもしれない。あるいは、仕事に没頭することで、この感情をやり過ごそうとしていたのか。
「……ありがとう、ございます」
声を詰まらせながら、エリザベスは感謝の言葉を口にした。自分のために、こんなにも奔走してくれていた人がいる――その事実が、胸に温かい光を灯す。
「礼なんて要らない。俺はただ、君が困らないようにしたかっただけだ」
アレクサンダーはそっぽを向くようにして言う。その頬には少し赤みが差しているように見えるのは、気のせいだろうか。
(本当に不器用な人……)
今まで「夫婦なのに心が通じ合わない」と感じていたが、実は違ったのだ。アレクサンダーは最初からエリザベスを守りたいと思っていた。その方法が回りくどく、彼の真意が伝わりにくかっただけ。
そう理解した途端、エリザベスの中にあった淋しさや不信感は、急速に消え去っていく。そして代わりに生まれてきたのは、彼への尊敬と、ほんの少しの愛しさに似た感情だった。
「でも、その……余計な噂が広がらないようにするには、どうすればいいのでしょう。レオナルドが仕掛けてくるのなら、私も黙っているわけにはいきませんが」
エリザベスは気を取り直して、前向きに考え始める。レオナルドの陰湿な噂流しを食い止めなければならない。伯爵家を護るためにも、自分自身を守るためにも。
アレクサンダーは少し考え込んだ後、静かに口を開いた。
「正攻法でいけば、レオナルドの不正行為を掴んで処罰するのが一番だ。だが、彼は巧妙に立ち回っている。証拠を集めるには時間がかかる。それまで君を危険にさらしたくない」
「私にも手伝わせてください。私がただ守られているだけでは、きっとまたレオナルドのような人が出てきてしまうと思うんです」
エリザベスの瞳は力強い意志を宿していた。それを見たアレクサンダーは、驚いたように一瞬目を見張る。だがすぐに、その瞳にはわずかに安堵の色が浮かんだ。
「……分かった。だが、無理だけはするな。君が怪我をしたり、傷ついたりするのは望まない」
最後の言葉に、エリザベスの胸は甘酸っぱく締めつけられる。口調は乱暴でも、その本心は優しさそのものだと感じ取れたからだ。
「はい。私も、閣下に迷惑をかけないよう、心して動きます」
短い会話の中で、二人の関係はこれまでにないほど近づいたように思えた。エリザベスは胸を高鳴らせながら、アレクサンダーの横顔を見つめる。
アレクサンダーはそっと顔を背け、扉に手をかけた。けれど部屋を出る直前、まるで何か思い出したかのようにエリザベスを振り返る。
「……すまない。結婚してから、まともに話す機会を作れなくて。君に不安を与えていたかもしれない」
先ほどまでの慌ただしい態度は消え、静かなトーンだった。その瞳はどこか後ろめたさを含んでいるようにも見える。
エリザベスは首を横に振った。
「いいえ、私こそ勝手に誤解していました。でも……今日のお話を聞けて、少し安心しました」
そう微笑むと、アレクサンダーも小さくうなずき、ドアを開けて部屋を出て行った。彼の背中には、いつもとは違う穏やかな空気が漂っている。
(この人は本当は優しいのだと分かった。あとは、どうすればその優しさをもっと引き出してあげられるのだろう――)
エリザベスはそう思いながら、そっと胸に手を当てる。夫を“冷徹な男”だと決めつけてしまったのは間違いだった。今はまだ距離があるが、その距離が少しずつ縮まっていけばいい――そう願わずにはいられなかった。
そして、レオナルドの存在が二人に新たな問題を突きつけている以上、エリザベスもただ守られるだけではいられない。自分が彼を助け、共に困難を乗り越えるためには、もっとアレクサンダーとの信頼関係を築かなくてはならないだろう。
「……この結婚が、ただの政略では終わらないようにしたい」
静かな部屋の中、エリザベスは思わずそう呟いた。あの不器用な優しさに触れてしまった今、彼女の心はもう揺れ始めている。今までは家のためと割り切ってきた結婚に、ほんの少しではあるが、“想い”という新たな意味を見出し始めたのだ。
その夜、エリザベスは再び水路の修復関連の書類に目を通しながらも、気づけばふとアレクサンダーのことを考えていた。家臣たちに慕われ、責任を背負い込みすぎるほどの仕事人間。だが、本質は誰よりも人を大切にする優しさを持っている――そんな彼だからこそ、レオナルドのような危険から自分を守ろうと考えてくれたのだろう。
“私はあなたを支えたい”――その気持ちは少しずつ強くなっている。だが、彼がそれを素直に受け入れてくれる日は来るのか。エリザベスは明かりを落とした寝室で、そんな想いを胸に抱えながら、いつもより少しだけ穏やかな眠りについた。
こうして二人は、まだお互いの心を完全には理解し切れていないものの、“偽りの政略結婚”から一歩踏み出し始めた。
アレクサンダーの不器用な優しさは、確かにエリザベスの胸に温かい灯を点し、彼女もまたその灯を大切に育んでいきたいと願う。
一方、レオナルドの影はじわじわと二人の周囲に忍び寄っていた。いつどんな形でエリザベスを貶める計画を発動させるのか――まだ不透明ながらも、その不穏な予感は確実に存在し、次なる火種となろうとしている。
穏やかに眠るエリザベスの耳には届かないが、夜の闇のどこかで、レオナルドの薄ら寒い笑い声が響いているかもしれない。
そして、この結婚の真の意味が開花するのは、まだ少し先のこと。彼女がアレクサンダーに惹かれはじめるほどに、貴族社会の闇もまた、深く大きく口を開けようとしていた。
――偽りだったはずの政略結婚が、真実の愛へと変わる日はやって来るのだろうか。エリザベスとアレクサンダーの思いが交差し始めたとき、運命は静かに、しかし確実に動き出す――。