クロフト公爵家に嫁いでしばらく経ったある日、エリザベスは王都の社交界における大きな晩餐会へ招待されることになった。主催は現宰相の親族にあたる公爵夫人で、貴族たちが一堂に会する華やかな場だ。アレクサンダーも招かれているが、彼は領地の視察が長引いており、出席が遅れるという連絡が入っていた。
エリザベスはそのことを少し寂しく思いながらも、公爵夫人としての務めを果たすため、精一杯の装いで会場へ向かう。深い緑のドレスは、クロフト家の紋章を想起させる刺繍があしらわれており、落ち着きと気品を兼ね備えたデザインだった。メイドのステラや侍女が入念に仕上げてくれた髪型も相まって、エリザベスは美しく、そして堂々とした姿を保っている。
会場となる邸宅はきらびやかで、玄関から奥へ伸びる回廊には、多くの貴族が思い思いの衣装に身を包んでいた。きらめく装飾品や香水の甘い香りが混ざり合い、まさに社交界の華やかさを象徴するような空間である。
エリザベスが招待状を示すと、案内係の使用人たちは慣れた様子で彼女を出迎え、「クロフト公爵夫人がお着きです」と場内に告げた。その瞬間、周囲の視線が一斉に集まる。
「噂のクロフト公爵夫人……」
「とてもお美しい方ね。しかも聡明だとか」
そういったひそひそ話が、距離を置きながら飛び交っていた。エリザベスは僅かな緊張を覚えつつも、微笑みを絶やさずに一礼し、まずは主催者である公爵夫人へ挨拶に向かう。
その晩餐会は、表向きには貴族たちの親睦を深める目的で開かれていたが、実際には政治的な駆け引きや情報交換の場としての意味合いが強い。エリザベスは以前、伯爵家にいた頃はあまり積極的に社交界へ出られる立場ではなかった。しかし今は公爵夫人である。単なる装飾品扱いではなく、必要な会話をこなし、家の威光を示す役割を果たさねばならない。
もっとも、クロフト公爵家というだけで、多くの人間が自然と一目置いてくる。アレクサンダーの名が放つ影響力は絶大だ。エリザベスに直接近寄ってくる者は少なく、遠巻きに様子を伺うような雰囲気があった。
(やはり閣下の評判は、こういう場では“冷徹な貴族”“無敗の交渉人”といった類のものが先行するのね……)
エリザベスは少し苦笑しながら、用意されていた小さなソファーに腰掛ける。姿勢を崩すわけにはいかないが、立ちっぱなしも疲れる。侍女が持ってきた冷たい飲み物に口をつけながら、まもなく始まる晩餐の席を待つ。
アレクサンダーは遅れると聞いているが、どのタイミングで現れるのかは分からない。彼の秘書もはっきりとした時刻を把握していないようで、「公爵様は別の商人との面談を終えた後、駆けつける予定」とだけ伝えられていた。
やがて会場の奥から、見慣れぬ青年が姿を現した。浅黄色の髪をなびかせ、高価な生地のジャケットを着こなしながらも、どこか嫌味な笑みを湛えている。
エリザベスは、すぐに彼の名を思い出す。――レオナルド・ハーキンス。かつて自分の婚約者でありながら、伯爵家の危機が深刻化するとともに一方的に破談を押しつけてきた相手である。
「おや……こんなところで会うとは。ご無沙汰しているよ、エリザベス……いや、クロフト公爵夫人と呼ぶべきだったかな」
レオナルドは傲慢とも取れる態度で微笑み、エリザベスの正面に立ち止まる。彼の目には奇妙な光が宿り、まるで何か狙いを秘めているようだ。
エリザベスは内心で不快感が沸き上がるのを感じたが、貴族としての礼儀を守り、静かに頭を下げる。
「お久しぶりです、レオナルド様。お元気そうで何よりです」
それだけを述べると、もう関わりたくはないという意思を示すように少し視線を外す。しかし、彼はまるでその態度を楽しむかのように口元を歪める。
「君がクロフト公爵に嫁いだと聞いた時には、驚いたよ。まさかあの冷酷公爵が、グリーン家の“お荷物”を引き取るとはねぇ」
「……」
挑発的な言葉を投げかけながら、レオナルドはあからさまにエリザベスを値踏みするような視線を送る。周囲には貴族たちがちらほらいるが、あえて聞こえるように大きめの声で話しているらしい。
「いや、失礼。『お荷物』だなんて言い過ぎたかな。ただ……そうだね、政略結婚というのはお互いの利害の一致に過ぎない。実際、クロフト公爵も“財政難の伯爵家を救う代わりに嫁を得る”という計算だったのだろう? それを愛だなんて勘違いしていないだろうね?」
聞くに堪えない台詞だが、エリザベスは冷静さを保とうと必死だった。感情を表に出すほど、相手の思う壺になるのは目に見えている。彼はわざと煽っているのだ。
「……私たち夫婦の形は、私たち本人が決めることです。あなたに口を出される筋合いはないわ」
「へぇ、言うじゃないか。だけど、どれほど強がったところで、所詮は形だけの結婚だろう? あの公爵殿は家のことばかりで君を顧みないそうじゃないか。あちこちで領民の世話を焼きながら、君を放り出していると噂になっているよ」
レオナルドの言葉は、確かにエリザベス自身の不安を突くものであった。アレクサンダーが忙殺され、じっくりと夫婦として過ごす時間がほとんどないのは事実だからだ。だが、だからといって“愛がない”などとは限らない――彼の不器用な優しさをエリザベスは知っている。
「それでも、私は私の意思で結婚を選びました。たとえ周囲がどう言おうと、私が納得できればそれで十分です」
毅然とした口調で言い放つエリザベスに、レオナルドは嘲笑を深める。
「ハハ、そうか。確かに君は意志の強い女だった。だが、その強さが仇になる時が来るかもしれないね。ま、自分の身の程を知らずに、冷酷公爵に寄り添うというのなら、それもまた道化としての生き様だろうさ」
周囲の貴族たちは、レオナルドの悪意ある言葉に気づきながらも、どこか見て見ぬふりをしている。クロフト公爵家と関わって火の粉を浴びたくない気持ちや、レオナルドとの直接の争いを避けたい気持ちがあるのだろう。
――それでも、さすがにこれは目に余る。エリザベスが静かに怒りをこらえていると、背後から一人の若い侯爵夫人が声をかけてきた。
「レオナルド様、さすがにそれは失礼ではなくて? クロフト公爵夫人に対して、あまりにも酷いお言葉ですわ」
かすかに肩を震わせる侯爵夫人を横目に、レオナルドは無表情のまま肩をすくめる。
「何が酷い? 俺はただの事実を言っているだけだ。――グリーン家が破産しかけていたのはみんな知っていることだし、クロフト公爵がそれを救ったのも事実。しかし、それを“愛”と呼ぶのはあまりにも滑稽だろう?」
大勢の視線が集まる中、レオナルドはさらに声を張り上げる。
「これは“利害のための契約”に過ぎない。偽りの結婚なのさ」
その時、会場の奥から低く鋭い声が響いた。
「――偽りの結婚、だと?」
振り返った視線の先にいたのは、黒い礼服を身にまとったアレクサンダー・クロフトその人だった。遅れると聞いていたはずが、いつの間にか会場へ到着していたらしい。彼は沈黙のうちに状況を把握したのか、厳しい表情でレオナルドを睨みつけている。
彼の出現に、周囲は一瞬にして静まり返った。まるで凍りついたように人々が動きを止める。アレクサンダーの放つ威圧感は、普段にも増して強大だった。
レオナルドも明らかに怯んだ様子を見せるが、それでも後には引けないのか、弱々しい笑みを張りつける。
「おや、公爵殿。ずいぶんと遅かったようだが、やはりこの場に来るのだな。ちょうどいい、聞かせてもらおうじゃないか。あなたにとって、この結婚はどういうものだったのかな?」
アレクサンダーは返答せずに、静かに歩を進める。階下の一角からレオナルドをまっすぐに見据え、その冷酷なほど整った顔立ちを歪ませずに、怒気をはらんだ声を放った。
「――さっき、お前は“偽りの結婚だ”と言ったな」
それは問いかけではなく、まるで宣告のようだった。レオナルドはギクリと身を強張らせる。
「な、何を……そうだ、実際に公爵殿がどう思っていようと、これは利害の一致に過ぎないのではないか? 僕はただ事実を――」
レオナルドが動揺を見せ始めたところで、アレクサンダーはさらに一歩踏み込んだ。その瞳は恐ろしいほど暗く深く、凍てつく闇を感じさせる。
「――ならば、もう一度言ってみろ。俺の妻との結婚が“偽り”だと?」
あまりに低く重い声に、レオナルドは言葉を失う。周囲の貴族たちは息を呑んで二人のやりとりを見守る。まるで戦場のような緊張が走る。
アレクサンダーは視線をレオナルドからエリザベスへと移し、その表情を柔らかいものへ変えた。
「――エリザベス」
冷たい口調のまま名前を呼ばれたエリザベスは、思わず胸が高鳴る。彼が公衆の面前で自分を呼びかけるなど、今までなかったことだ。
そして次の瞬間、アレクサンダーははっきりとした口調で言い放った。
「私にとって、お前は何よりも大切な存在だ」
その言葉は静まり返った大広間に、はっきりと響き渡る。エリザベスは信じられない思いでアレクサンダーを見つめた。彼はこんなにも多くの人の前で、まるで誓いの言葉のように“最上の大切さ”を宣言している。
周囲も「まさかクロフト公爵がこんな言葉を口にするなんて……」と息を呑んだままだ。レオナルドは見る見るうちに顔が真っ赤になり、動揺を隠せない。
「な、何を……今さらそんな芝居を……」
苛立ちからか、レオナルドが叫ぶように言葉を吐き出すが、アレクサンダーは容赦しない。次の瞬間、彼は紙束を取り出し、ぱらりと広げてみせた。
「……レオナルド・ハーキンス。貴様が裏で行っている違法な金融取引の証拠だ。貴族間の貸金規定を犯し、利息を不当に吊り上げ、多くの借主を破滅寸前まで追いやっている。その金で、お前は私の妻に絡む嫌がらせや噂の拡散を買収してきた……そうだな?」
その一言が会場を再び凍りつかせる。レオナルドが大量の借金をさばき、不当な利益を得ていたという疑惑は、以前から一部で囁かれていた。しかし、誰も彼を公に告発するだけの確証を得られなかったのだ。
だが、クロフト公爵――アレクサンダーがこうして証拠を握っているということは、もはや逃げようがない。
「そ、それは……でたらめだ! そのような文書、捏造の可能性だってある!」
レオナルドは必死に否定するが、アレクサンダーは冷笑を浮かべ、手元の書類を人々に見せつけるように掲げた。
「捏造? では、これらの借用書に記された署名は誰のものだ? 印章も含めて、お前の邸宅の家令が作成に加担している。彼はすでに私の部下が保護しており、事情聴取に応じる姿勢を示しているよ。そこにいる弁務官殿と一緒にな」
視線を送られた先に立っていたのは、王都の法務を司る弁務官だ。彼は憂いを帯びた表情のまま、「間違いない。私も確認した」と小さく頷く。
「お前が隠れて貯めた金を、一部は私の妻への嫌がらせ工作に回している証拠もある。妄言を流布する連中や情報屋に報酬を払い、あたかもエリザベスが“夫の留守に男を連れ込んでいる”と噂をばら撒いたな? さきほど自分の口からも、似たような話をしていただろう」
アレクサンダーの淡々とした追及に、レオナルドの顔から血の気が失せていく。彼は必死に弁解しようとするが、周囲の視線がどんどん厳しくなるのを感じ、次第に言葉も出なくなる。
「……くっ……」
声にならない叫びを飲み込むように、レオナルドはその場で足を震わせている。
「あまりにも卑劣な手段だ。私の妻を貶めるだけでなく、多くの借主を苦しめてきた罪は重い。お前のやったことは、いずれ王都全体で裁かれるだろう。私の調査が進めば、もう逃げ場はないと思え」
静かながらも凄絶な怒りのこもったアレクサンダーの言葉に、レオナルドは尻込みしながら後ずさりをする。彼の支配してきた“嘘と隠蔽”の幕が、ここで断ち切られようとしているのだ。
「そ、そんな……俺は、ただ……」
レオナルドは視線を彷徨わせ、助けを求めるように周囲を見回すが、誰も手を差し伸べる者はいない。今やレオナルドの背後につくことで得られる利益よりも、アレクサンダーを敵に回すリスクの方が圧倒的に大きいのは明白だからだ。
かくしてレオナルドは絶体絶命に陥る。王都の弁務官がいる以上、早急に捜査が始まり、違法貸付と噂拡散の買収工作が暴かれれば、貴族としての地位を失う可能性が高い。
「……お前は、今日この場で公に糾弾されるほど愚かではないと思っていたが、見込み違いだったな。自分から大きな場で騒ぎを起こし、私を呼び出すとは……馬鹿な真似をしたものだ」
吐き捨てるように言ったアレクサンダーの声には、一片の同情もない。あるのは怒りと嘲り、そして“妻を侮辱された”ことに対する報復心だ。
エリザベスはそんなアレクサンダーの横顔を見つめながら、胸が熱くなるのを感じていた。彼はいつも不器用で、なかなか自分の感情を表に出さない。でも、この場ではっきりと「お前は私にとって何よりも大切だ」と言ってくれた。
(冷徹なだけの貴族なんかじゃない。彼は誇り高く、そして深い愛情を持って私を護ってくれたんだ……)
数多くの使用人や家臣、領民たちが慕う理由もよく分かる。表向きは厳しくとも、その根底にあるのは“人を裏切らない”誇りと誠意なのだ。
しばしの沈黙の後、レオナルドは顔を真っ青にしながら踵を返し、逃げるように会場を出ていった。もはやこれ以上、取り繕うことはできないし、一刻も早く場を離れる以外にどうしようもなかったのだろう。
その場には嫌な空気が漂うが、周囲の貴族たちは急速にアレクサンダーとエリザベスに歩み寄り、当たり障りのない賛辞や心配の言葉を述べ始める。レオナルドが失墜した今、誰もが“クロフト公爵夫妻”との関係をこじらせたくないという腹づもりだ。
そんな喧騒の中、アレクサンダーはエリザベスのそばに立ち、そっと彼女の手を取った。周囲の視線を浴びる中で、エリザベスは戸惑いながらも、その手の温もりに応えるように指を絡める。
「……すまなかったな。嫌な思いをさせてしまった」
彼の声は以前よりもだいぶ穏やかだ。しかし、憤りや悔しさがまだ残っているのか、瞳は少し硬い。
エリザベスは首を振り、微笑みを返す。
「いえ、私は大丈夫です。それより……先ほど言ってくださった言葉、あれは……」
自分にとって何より大切だ――と、あの一言。公の場でそんな宣言をするだなんて、アレクサンダーの性格からすれば相当の決意がないと口にしないはずだ。
するとアレクサンダーはほんの少しだけ息を呑んだように見え、照れ隠しのように視線を逸らす。
「本心だ。……私の妻に対して、利害だけの関係だなんて思っていない。最初からそうだったわけではないが、今ははっきり言える……お前は私の誇りであり、守るべき存在だ」
思わずエリザベスの胸が熱くなった。その言葉を聞いた瞬間、今まで感じてきた孤独や不安、そして自身が政略結婚のための“駒”にすぎないのではという悲しみが、一気に解き放たれるようだった。
周囲の人々が遠巻きに二人の様子を見守っているのを感じる。だが、エリザベスはアレクサンダーの横顔をしっかりと見つめ、微笑んだ。
「ありがとうございます。あなたが私を守ると言ってくれるなら、私もあなたを支えます。……ずっと、そう思っていました」
言葉に出して初めて感じる、この満ち足りた想い。初対面のときは冷たい印象しかなく、挙式後もしばらくは戸惑い続けた相手が、今は自分にとってかけがえのない人になりつつあるのだ。
そんなエリザベスの心情を察したのか、アレクサンダーは軽く喉を鳴らし、もう一度だけ手を強く握り返す。そして、周囲の貴族たちに向き直った。
「これ以上の騒ぎは望まないが……皆も聞いたとおりだ。私と妻の結婚を“偽り”などと言う者がいれば、今後一切容赦はしない。覚えておいてくれ」
冷静かつ威圧感のある宣言に、貴族たちは一斉にかしこまりの姿勢を示す。中には必死に微笑んで「とんでもない、誤解されるような話を聞かされたこちらこそが被害者で」などと弁解する者もいるが、アレクサンダーはそれを黙殺した。
ほどなくして、主催者である公爵夫人があらためて晩餐会の開始を告げる。先ほどの騒動によって場の空気は重くなりかけていたが、当主側が取り繕うように演奏家を呼び入れ、優雅な音楽を流し始めた。
アレクサンダーとエリザベスは、まるで流れに乗るようにしてテーブルへ案内される。二人にかかる視線は多いが、そのほとんどが好奇と恐れ、そして少しの羨望が入り混じったものだった。
着席してからしばらくは、当たり障りのない会話が続く。王国の近況や、領地間で行われる交易の話題、さらにはクロフト公爵家の新たな事業について――。アレクサンダーは最低限の愛想を見せながらも、基本的には素っ気なく応じる。しかし、時折エリザベスが口を開くと、ちゃんと彼女の言葉に耳を傾ける様子が見てとれた。
(いつもこんなふうに傍にいてくれたら、どれほど心強いだろう……)
エリザベスはちらりとアレクサンダーを横目で見つつ、少し切ない気持ちにもなる。彼は多忙な男だ。なかなかこうして一緒に社交の場へ来る機会も少ない。しかし、今日のように目の前で彼の存在を感じられると、その距離が大きく縮まったように思えて嬉しい。
やがてディナーも終盤に差し掛かった頃、アレクサンダーはエリザベスへ耳打ちするようにささやいた。
「……人が多すぎて疲れたな。少し中庭を散策しないか?」
その不器用な誘い方に、エリザベスはくすりと微笑む。どうやら彼にしては珍しく“落ち着ける場所へ移動したい”という意思表示らしい。
「はい。わたしも外の空気を吸いたいと思っていました」
そう答えると、二人は席を立ち、まるで自然に行動しているよう装いながら晩餐会の会場を後にする。
邸宅の中庭は夜の闇に包まれていたが、多くのかがり火やランタンが設置され、幻想的な光景を作り出していた。噴水の水音が涼しげで、夜風が頬をなでる。屋内の人混みや喧騒が嘘のような静けさが広がっていた。
アレクサンダーは先ほどまでの険しい表情を少し緩め、エリザベスと二人きりで石畳を歩く。すると、彼は小さく息をつき、ぼそりと呟いた。
「……先ほどは、あんな公衆の面前でああいう言い方をして、気を悪くしなかったか?」
エリザベスは首を横に振る。むしろ嬉しかった。今まで彼が見せなかった感情を、はっきりと言葉にしてくれたのだから。
「いいえ。むしろ、私にとっては大きな励みになりました。――あなたが“私が大切な存在だ”と公言してくださったのですから」
照れながらも率直に伝えると、アレクサンダーはほんの少し口の端を上げる。
「レオナルドのような男に、好き放題言われるのは不愉快だったからな。……最初は、家の情勢を守るためとはいえ、政略で決めた結婚だったことは事実だ。だが、今はもう“偽り”と呼ばれるのは我慢ならない」
その言葉に、エリザベスの胸はじんと熱くなる。彼の本音が、確かにそこにあると感じられるからだ。
「私も、同じ気持ちです。最初は家のためだけに嫁いだと思っていました。でも、あなたを知るうちに、本当に大切だと思える存在になった。……私にとっても、あなたは唯一無二の相手です」
昼間はあまり素直になれないエリザベスも、夜の静かな空気に背中を押されるようにして心の内を明かす。アレクサンダーは少し驚いたように瞬きをするが、やがて柔和な笑みを浮かべる。
「そう言ってくれるなら、私も報われる。……ありがとう」
普段は滅多に人前で感謝の言葉を言わない男が、こうして正面から“ありがとう”と言う。それだけでエリザベスは胸がいっぱいになり、言葉も出なくなる。
しばしの沈黙が続く。中庭には風が吹き、草花が揺れる音がするだけだ。二人は隣り合って噴水の縁に腰掛け、星空を仰ぐ。
アレクサンダーがほのかに微笑んだ。その横顔は、まだどこかぎこちないけれど、確かに愛情の光を宿しているように見える。
(やっと“夫婦”らしくなってきたのかもしれない)
エリザベスはそう感じ、そっと彼の袖を握る。するとアレクサンダーは、まるで躊躇うように一瞬固まった後、控えめにエリザベスの手を重ねてくれた。
夜も更け、晩餐会は終わりに近づく。レオナルドの件で騒然となったが、それ以外は平穏に終幕を迎えそうだった。
当主の公爵夫人が「お開き」の言葉を告げたとき、エリザベスとアレクサンダーは既に邸宅の外に用意された馬車へ向かっていた。用事を一通り終えたため、ひと足早く退出するのだ。
レオナルドの姿はもう会場にないが、あれだけ公の場で罪を暴かれた以上、遅かれ早かれ捜査の手が伸び、貴族社会からの追放は免れないだろう。あの傲慢な男が今後どうなるか、あまり想像したくもないが、少なくともエリザベスに害をなす手段は失われるはずだ。
一方、夫妻としての地位は、これでさらに盤石になったとも言える。アレクサンダーは王都の弁務官とも連携を強めることで、クロフト家に対する不当な干渉を防ごうとしているようだ。
馬車に乗り込む直前、エリザベスはささやかな疑問を口にした。
「あなたは、いつからレオナルドの不正を掴んでいたのですか?」
「実は、かなり前から部下を使って調べていた。だが決定打が足りなくてな。……あいつが馬鹿な真似をして、わざわざ自分から公の場で騒動を起こしてくれたおかげで、証拠を揃える時間ができたというわけだ」
アレクサンダーは苦笑しながら答える。その裏で必死に動いてくれていた人々――彼の家臣や弁務官も協力したのだろう。エリザベスは、あらためてアレクサンダーの周囲にいる者たちの忠誠心と実務能力に感謝する。
「あなたは本当に、私のことを想って動いてくれたのですね……」
エリザベスの言葉に、アレクサンダーは少し黙る。ここで“当たり前だ”などと言うほど素直にはなれない性格なのか、微妙に表情をこわばらせる。
しかし、次の瞬間、彼は意を決したようにエリザベスを見つめ返した。
「お前を守りたいと思うのは、私にとって当然のことだ。……まだ上手く言葉にできないが、これからも、私はお前の力になりたい」
最初は利害の一致。けれど、今はもう違う――そういう思いが、アレクサンダーの目には確かに宿っている。エリザベスはその瞳をまっすぐ受け止め、小さく微笑む。
「ありがとうございます。私も、あなたの側にいて支えたい。どんなに忙しくても、あなたが帰ってくる場所を整えておきたいんです」
自然と口をついて出た言葉に、アレクサンダーは驚いたように瞬きをする。それから小さく息をついて、かすかに微笑みを浮かべる。
「……ならば頼む。私は不器用だからな」
そのまま馬車の扉を開け、エリザベスを先に乗せる。彼が馬車に乗り込むと、御者が手綱を鳴らしてゆっくりと発進させた。大きく揺れる馬車の中で、エリザベスは窓から外の風景を見つめる。
夜風が冷たいが、心は不思議なほど温かい。あれほど“愛のない政略結婚”だと感じていた日々が嘘のようだ。
こうしてレオナルドの計略は崩壊し、彼は貴族社会からの追放を余儀なくされた。違法な貸付の罪は重く、調査が進むにつれて彼が王都の闇市や地下組織とも取引していた事実が明るみに出た。それらが一挙に暴かれれば、もはや彼が堂々と貴族として振る舞う余地などない。
レオナルドはかろうじて国外逃亡を試みようとするが、行く先々でクロフト家の関係者に阻まれ、いずれ手酷い報いを受けるだろうと噂されている。彼に従っていた取り巻きたちも、いまや蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、だれも助力しようとはしなかった。
ざまあ――そう言わんばかりの結末だが、エリザベスはただ、再び自分を害する者が出てこないように願うのみだった。アレクサンダーの徹底した行動のおかげで大きな結果を出せたが、負う責務も増えたはずだ。
一方、エリザベスがレオナルドの一件で“夫人としての力”を発揮した噂は、貴族社会に広がり始めていた。クロフト公爵だけが強いのではなく、その妻であるエリザベスもまた非常に有能である――という認知が生まれつつあるのだ。
とはいえ、それらの評価をエリザベス自身があまり気にすることはない。彼女にとって大切なのは、日々の中でアレクサンダーとの絆を深め、クロフト家を、そして領民たちを支えていくこと。以前から変わらぬ信条が胸のうちにあるだけで、それを忠実に実践しているに過ぎない。
事件から数日後の夕方。エリザベスは執務室で領地からの報告書に目を通していた。穀物の収穫が好調な地域があれば、逆に不作で苦しむ地域もある。彼女はそれらを照合し、互いの地域同士で融通できるよう調整案を作っている最中だった。
しばらくして扉がノックされ、アレクサンダーが姿を現す。いつもより少し早めの帰宅だ。
「ただいま。……領民の報告書か?」
「はい。穀物の流通について、もう少しスムーズに回せないか検討していました。もしよければ後ほどチェックをお願いしたいのですが……」
エリザベスは書類を差し出しながら微笑む。アレクサンダーは頷き、少し疲れた様子ながら椅子に腰を下ろす。そして、ふと書類ではなくエリザベスの顔を見つめる。
「……なんでしょう?」
彼の瞳に小さな笑みが浮かんでいるのを見て、エリザベスは不思議に思う。
「いや、お前がここまで熱心に動いてくれるのが、嬉しいと感じたんだ。今までは、俺一人で何とかしようとしてばかりだったからな」
その言葉に、エリザベスは少しだけ照れくさくなる。まだ夫婦らしい会話に不慣れな彼だが、こうして正直に思いを口にしてくれるのは悪い気がしない。
「私でよければ、いくらでも助けになります。あなたの領地、あなたのやり方を知るためにも、こうして書類を確認するのは私の務めですし……何より、あなたが頑張りすぎて倒れてしまっては困ります」
最後に冗談めかして微笑むと、アレクサンダーは苦笑を返す。
「そうだな。私も、ようやく人に頼ることを覚え始めたかもしれない」
彼の声はどこか柔らかで、以前にはなかった穏やかな空気が漂っている。レオナルドとの一件を経て、アレクサンダーも覚悟を新たにしたのだろう――自分には、頼るべき“妻”がいるのだと。
そのまま二人は顔を見合わせ、小さな笑みを交わす。
政略結婚から始まった関係は、いつしか互いを守り合う固い絆へと変わりつつあった。もちろん、夫婦としての課題や先行きの不安はまだ残っている。アレクサンダーが抱える領地の問題も多く、一朝一夕で解決できるわけではない。
だが、そばに寄り添うエリザベスの存在は、彼を孤独な闇から救い出す光となるだろう。それに気づいたからこそ、彼はあの公衆の面前で「お前は何よりも大切だ」と言葉にしたのだ。
エリザベスも、そんな彼の真っ直ぐな思いを受け止めている。この先、どんな困難があろうと、二人で乗り越えていけるという確信が、確かに胸の内を満たしている。
そして、広い書斎の机に向かい合ったまま、二人はささやかな未来の話を始める。どの地方にいつ視察へ行くのか、どんな形で領民を支援していくのか、そしてどのくらいのタイミングで互いに休息を取れるのか――。
こうして「夫婦」として具体的な予定を立てること自体が、エリザベスにとっては幸せな時間だった。アレクサンダーも決して笑顔を絶やさないわけではないが、以前よりは柔らかな表情が増えてきたのを感じる。
(いつか……本当に、心からの笑顔を見せてくれる日が来るかしら)
そう思うと、エリザベスは軽く胸が高鳴る。彼が心を開き、自分の苦しみや喜びをすべて共有してくれる日が来るかもしれない。そうなったときこそ、この結婚は真の意味で“愛”に満ちたものだと言えるのではないだろうか。
いずれにせよ、“偽りの婚約”と揶揄された時期はとうに過ぎ去った。現在の二人は、互いに必要とし合うパートナーへと変わり始めている。
レオナルドを追い詰めた“ざまあ”の瞬間は、エリザベスの心に痛快さをもたらすと同時に、アレクサンダーの愛情深い一面を確信させる出来事でもあった。
この先、まだ何が起こるかは分からない。貴族社会の裏には、他にもレオナルドのような野心家が潜んでいるかもしれない。それでも、エリザベスはもはや躊躇しない。夫と共に歩み、夫と共に戦う意志を固めているのだから。
部屋の窓の向こうには、夜の闇が広がっている。しかし、その闇すらもはや脅威にはならない――二人で立ち向かう覚悟があるのだから。
エリザベスは書類を一段落させると、アレクサンダーの方へ向き直り、少しだけ笑顔を浮かべた。
「お疲れのところ、手伝っていただいてありがとうございます。……明日も朝早いのですよね? 今夜はちゃんと休んでくださいね」
彼は微かに苦笑しながら、「分かった」と答える。
二人の間に漂う空気は、かつての冷たさとは打って変わって暖かい。控えめながら、お互いを思いやる言葉が行き交うのが、何よりの証拠だ。
“偽り”が崩れ、“ざまあ”が訪れ、そして“夫婦”としての第一歩を本当の意味で踏み出したエリザベスとアレクサンダー。
――その未来には、まだ多くの困難が待ち受けているかもしれないが、少なくとも今は揺るぎない支え合いがそこにある。
深夜、アレクサンダーと別れた後、エリザベスは自室で一人、今日の出来事を思い返した。
レオナルドの策謀が、あの場で一気に崩れ去る瞬間。それを痛快と感じると同時に、彼女はこうも思う――ああなってしまったのは、レオナルド自身の傲慢と欲望の末路だと。
かつて一度は婚約した相手なのだから、まったくの他人事とは思えない部分もある。だが、彼の歪みきった行動は、ついに破滅を迎えた。これは必然と言えるだろう。
(もう、彼に悩まされることはない。私たちは前に進むのみ……)
そんなふうに思い、そっと目を閉じると、不思議なほどすぐに睡魔が訪れてきた。穏やかな、安らぎに満ちた眠りだ。
エリザベスの夢の中で、アレクサンダーは彼女の手を引いてどこかへ歩んでいる。はっきりとした場所は分からないが、遠くまで続く道を二人で並んで歩く光景が浮かんだ。何かを語り合い、時々微笑み合う――そんな未来図が、彼女の心を温かく包み込む。
その夢がいつか現実になるならば、こんなに幸せなことはない。エリザベスはアレクサンダーへの感謝と愛おしさを胸に抱いたまま、静かに夜を過ごした。
こうして、“偽りの結婚”にまつわるレオナルドの嫌がらせは終わりを告げ、新たに芽生えた二人の絆が、貴族社会の荒波に立ち向かう力となっていく。
レオナルドが捨て台詞のように言った“利害のためのもの”という言葉は、もはや過去の残響にすぎない。これから先、エリザベスとアレクサンダーがどのような未来を築いていくのか――それは彼ら自身にも分からない。だが、互いに手を取り合って進むと決意した事実は、何よりも確かな一歩だ。
そして、この夜が明ければ、二人はまた新しい朝を迎える。貴族の義務を果たしながら、同時に夫婦としての距離を近づけていく日々。まるで長い道のりを一歩ずつ踏みしめるように、彼らは歩み続けるだろう。
――政略結婚という偽りの幕を破り、真の思いを手にした二人。その絆がさらに深まるとき、誰もが目を見張る奇跡が生まれるかもしれない。いま、ざまあの幕開けの先に、確かな愛の物語が紡がれ始めている――。