魔物の死体を踏み越えて、俺は進んだ。
どこへ向かうかもわからないまま、ただ直感だけを頼りに。
喉の渇きは耐えがたい。腹も鳴っている。右肩の打撲は《自己治癒》によって徐々に回復していたが、疲労は溜まりっぱなしだった。
だが——
俺の足は止まらなかった。
この世界で生き延びるためには、ただ生きているだけじゃ足りない。
生き抜くためには、次の“安全地帯”を見つけなきゃならない。
そうしてしばらく歩くと、森の密度が少しずつ薄れ、風が広がった。
木々の向こうに、開けた地形が広がっていた。
その中央に、小さな村が見えた。
「……あれは……人間の、村?」
ほこりっぽい土の道に沿って、石造りの建物が並んでいる。
小さな畑と、薪を割る老爺、井戸端で笑う女たち。
馬車がゆっくりと進み、その脇で子どもたちが遊んでいた。
——間違いない。人が“生きている”匂いがする。
「助かった……!」
安堵の息を吐く。
しかし、その瞬間、俺の心にもう一つの感情が芽生えた。
この世界で、俺は“人間”として見られるのか?
服装も違う。言語も違うかもしれない。下手すれば、俺は“異物”と見なされる可能性すらある。
それでも、立ち止まるわけにはいかない。
村の入り口に近づくと、木製の柵の前に一人の青年が立っていた。
革鎧を身にまとい、腰には剣。鋭い目で俺を睨んでいる。
「……おい、そこの男。止まれ。」
日本語じゃない。だが、なぜか意味がわかった。
これも“システム”による翻訳か?それとも魂ごと適応されてるのか?
俺は両手を上げ、ゆっくりと口を開いた。
「俺は旅の者だ。怪しい者じゃない。水と……できれば、何か食べ物を分けてくれ。」
男はしばらく俺を睨んでいたが、やがて鼻を鳴らして柵を開いた。
「……死にかけた顔だな。運が良ければ、この村の“ギルド”で雇ってもらえるかもな。」
——ギルド?
ファンタジーRPGではおなじみの、それだろうか?
とにかく、話は通じる。人間として扱ってくれるだけで御の字だ。
俺は深く頭を下げ、青年の案内で村へと足を踏み入れた。
*
村の名前は《ミルダ》というらしい。
人口は300人程度の小さな村で、魔物の
つまり、俺がいたあの場所は、魔物の縄張りのど真ん中だったらしい。
「よく生きてたな、お前……普通なら丸裸でコボルドの群れに放り込まれたら、三分もたねえぞ。」
村の宿屋でパンとスープを口に運びながら、俺は青年に経緯を話した。
もちろん“日本から来た”とか“車に轢かれた”なんてことは言っていない。
「気がついたら森の中だった。武器も服も、たぶん……どこかの遺体から剥がしたんだと思う。」
そう言うと、青年は肩をすくめた。
「お前のような流れ者は珍しくねえよ。まあ、命があるだけマシってやつさ。」
彼の名前はライナス。元冒険者で、今は村の門番をしているらしい。
そして彼は俺に、一つの提案をしてきた。
「お前、ギルドに登録してみる気はあるか?」
「ギルド……?」
「ああ。狩人ギルドってやつだ。魔物を狩って、素材を売って、生計を立てる職業だ。
コボルドを倒せるくらいなら、最低ランクのFでも通るかもしれねえ。」
「……やってみる。」
俺は即答した。
戦うことに抵抗があるわけじゃない。
それに、あの時の戦いで得た《進化スキル》の存在が、俺の背中を押していた。
俺は、まだ強くなれる。
そしてきっと、この世界で——生き抜ける。
*
ギルドは村の中央、井戸の近くにある木造の建物だった。
入口には“Guild”の文字があり、扉の中からは熱気と歓声、武器の音が漏れ出していた。
まるで、ゲームの世界そのままだ。
中に入ると、カウンターの奥に赤髪の女性が座っていた。
「いらっしゃいませ。新人の方?」
「……ああ。ギルドに登録したい。」
彼女は俺を一瞥し、薄く笑った。
「見たところ、あなた……装備がちょっと心配だけど、まあ問題ないわ。こちらへどうぞ。」
そうして、俺は一枚の羊皮紙に記入することになった。
【名前:ユウキ・ハル】
【種族:人間】
【出身:不明】
【現在のレベル:2】
【習得スキル:自己治癒】
「……スキル持ち? へえ、意外とやるじゃない。」
「戦って、身についた。」
嘘は言っていない。
彼女は満足げに頷くと、俺の登録証を作ってくれた。
「これで、あなたは正式にFランクのギルドメンバーよ。最初の依頼は……そうね、《牙ネズミ》の駆除あたりから始めてみる?」
俺はその紙を手に取り、ゆっくりと頷いた。
これは——
俺にとって、最初の“仕事”だ。
この世界で生きるための、最初の一歩。
それがどれだけ小さくても、進まなければ始まらない。
俺は、登録証と依頼用紙を胸ポケットにしまい、背筋を伸ばして言った。
「やってやるよ。」
*
その日の夜、ライナスの紹介で宿屋の裏にある空き部屋を借りることができた。
ベッドの硬さは半端じゃないし、毛布も獣臭かった。
それでも俺は、これまでで一番深く、長く眠れた気がした。
夜中、夢も見ずに、俺は静かにこう呟いた。
「——俺は、ここで生きる。」
それは、誰に誓うでもない、
自分自身への宣言だった。