※このエピソードでは「自死(自殺)」について扱います。
筆者には、自殺願望がある。一方で、自殺未遂のようなものを起こしたことはない。強いて言うならば、睡眠薬を多めに飲んだくらいであろうか。
本当に肉体の生命維持活動を停止させるという自死とは、ちょっと違う形で、筆者は擬似的な自死を行なっている。
一つは、経済的自死。
お金を無駄遣いすることで、経済的に追い詰められようとする擬似的な自死だ。
もう一つは、記憶的自死。
自分にとって大切なものを、捨てることによる、擬似的自死だ。
どちらも、やってみるとスッキリする。
あるいは、経済的自死も、記憶的自死も、大切なものを失おうという企てなのだから、取り返しのつかない行為といえば行為であり、それゆえに自分を否定することによるカタルシスが得られる。
いずれにせよ、どちらも、本当に肉体的に死亡するよりはずっとマシだと筆者には思える。
擬似的自死では、お金の無駄遣いや、大切なものの破棄など、のちのち後悔することになる場合もある。
ただ、後悔できるだけ、肉体的自死よりも、ずっとはるかにマシなのだ。
肉体的に自死してしまっては後悔すら出来ない。
まあ、成人の場合、憂さをはらすのはアルコールと相場が決まっているかもしれないが、ヤケ食いでも喫煙でも、ちょっとずつ自分を傷つけたらいいさ。(リスカはやめといたほうがいい)
それでなくても、人間は刻一刻と寿命が縮んでいるのだ。
ちょっとばかり、身体に悪いことをする。これも擬似的な自死だ。
まあ、筆者も、無責任に「生きろ」とは言えない。ただ、これだけは伝えたい。
死ぬまでは生きようとしてほしい。
筆者に目標があるとすれば、
仮に、筆者が肉体的に自死したとしても、能動的に死ぬのは、きっと本意でないはずだ。
受動的な死を待ち望んでいる。
死ぬまで死なないってだけの人生はこれからも続く。どのくらい続くんだろ?短いかな?長いかな?
ベタな言葉で締めくくる。