伊坂幸太郎『ペッパーズ・ゴースト』(朝日新聞出版)より P.255-
> 「俺は、今まで真面目に生きてきた。普段の生活でも、たとえばゴミの分別も守ったし、選挙にも毎回行った。誰もいない小さな十字路の歩行者信号も守っていたよ。うちの息子も同じだった。真面目さだけが取柄でやってきたんだ。なのに突然、事件に巻き込まれて家族は死んでしまったわけだ。真面目に生きてきた結果、待っていたのは、この孤独とやりきれなさだよ」
>(中略)
>「あの本に書いてあっただろ。抵抗しないやつ、あまりにも我慢強いやつ、なんでも耐えるやつ。そういった人間には吐き気を催す、と。あ、俺のことだな、と思ったよ。あの本の表現を借りれば、あまりにも譲歩しすぎたんだ。真面目に、周りに迷惑をかけずに生きていればそれでいい、と思い込んでいた。
引用終わり
「あの本に書いてあっただろ」の「あの本」とは、ニーチェの『ツァラトゥストラ』のことです。
筆者は伊坂を引用していますが、伊坂もまたニーチェを引用している。
『人生論』で伊坂を引用するのは二度目だと思いますが、一度目の時も確か伊坂がトルストイを引用しているのを筆者が引用したと記憶しています。
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よく通り魔なんかが現れると、「何の罪もない一般人を狙った」などという表現がありますが、理不尽というのは急にやって来る。
この表現に引っかかりを覚えるのは、「多少罪のある人だったら狙って構わないのか?」という点です。
いま、SNSによる炎上・バッシングのムーブメントがあります。ちょっとでも落ち度があれば、全方位から叩くという風潮。
ただ、筆者は問いたい。
叩いている側の人たちは、普段さぞ立派な生活を送っているのでしょうね、と。
赤信号も無視しない、一時停止の標識を守る、一方通行逆走しない、自転車で歩道を走らない、電車でお年寄りの方に席を譲る。
特にSNSでは自身の身の上は伏せることが出来ますから、筆者としては「自分のことは棚にあげて、何言ってんじゃ!!」という感じです。人間、なにかしらの迷惑はかけて、かけられてもいますからね。お互い様です。
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『ペッパーズ・ゴースト』に戻りますが、誰かに迷惑をかけようが、かけまいが、ある日突然理不尽はやって来る。だったら、それまではある程度自分勝手に生きたほうが割に合うということです。それは、申し訳なさそうに生きていても理不尽は、自分勝手に生きているほうと同じ確率で襲ってくるわけですから。
これには、個々人の性格の問題も多分に含まれる。基本的には、やっぱり親の躾(しつけ)によって性格が形成されると思っています。
筆者はどちらかというと、親が「他人に迷惑かけるな」系なので、もともと他人に迷惑かけないように、みたいな生き方だったんですけれども、さすがに、これだけ世の中が混沌としている状況で、他人のことなんか気にしてても仕方ないなと思っています。
それは、公共の福祉に反するの(犯罪)はよくないと思いますよ。でも、じゃあお行儀よくしていたところで、情けは人のためならず自分に返ってくるかと思いきや、恩を仇で返されることなんか日常茶飯事なわけですから。
ある日、突然に、理不尽がいつ何時誰に襲ってくるかは、わかりません。そんな時に、「自分は真面目に生きてきたのに・・・」という思いがあると損ですよ。「まあ、多少ヤンチャしてきたし、しっぺ返しが来たか」のほうがまだ納得が行くと思う。
もちろん、どのように生きるかは個々人の自由ですけれども、筆者は警察に捕まらない程度には迷惑をかけていこう、と心に決めています。(ただ、やっぱり、元々の性格ってそんなに変えることできなくて、あまりにも横柄な振る舞いって実は出来ないんですけどね)。