トイレの個室で、スマートフォンをいじる人のために、混雑が発生するという話がたまにある。
多数の個室がある場合はスマートフォンをいじろうが構わないけれども、一つや二つしか個室がない場合に、スマートフォンをいじるというのは筆者にとって理解しかねる行動だ。
筆者は、とにかく、一つや二つしか個室がない場合、(他人を待たせたくない。というのは、裏を返せば、逆の立場の場合、自分も待ちたくない)という理由から、出来るだけ急いで用を足し、外に出るようにしている。
ともあれ、大きなシネマコンプレックスの平日の昼間なんかだと、十〜二十あるような個室がガランガランなので、そんな時は多少は・・・(
筆者は男性である。
女性用トイレを利用される方には想像が難しいかもしれないが、男性用トイレには女性用トイレと違って個室の他に、立ったまま用を足す小便器がある。
筆者が、意識するようになったのはほんのここ一、二年のあいだであると認識しているが、この小便器で用を足すあいだも、スマホを触りっぱなしという男性が存在する(どうだろう?女性用トイレを普段利用される方はこの気持ち、共感できるのだろうか?)
なんとなくのイメージで語るが、個室で腰を落ち着けた、よし、スマホだ。
↑これはまだ理解できる。
小便を足すあいだくらいも、スマホを触ることを我慢出来ないのだろうか?
筆者の認識が統計学上
現代人のスマホ依存は、思った以上に深刻なようだ。
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『人生論』でも触れたかもしれないが、人間の脳は処理できる情報の量に限界がある。
人間は、SNSなどで、限界以上の情報を処理しているので、認知機能が低下しやすい、とする説がある。
この点に関して、断っておかなければならないのは、スマホに合わせて人間の脳も進化する可能性があると思える点だ。
「環境の変化に適応できない種は
これを当てはめれば、スマホに合わせて、人間の脳も進化する。脳が進化できない人々は淘汰される、ということになるだろうか(ちょっと怖い言い方ですね。スミマセン)。
スマホ認知症という言葉も存在するが・・・
もちろん、筆者もスマートフォンを全面的に否定するものではない。
ただ、「生活を豊かにするのは、道具ではなく道具の使い方である」と我々日本人は『ドラえもん』を見て、さんざん学んでいるはずだ。
スマートフォンも使い方次第。
※
さて。これから語るのは、理想論である。現実的な話ではない。
スマートフォンによって、人々は容易に場所を超えて繋がることが出来る。
街中を歩いていると、始終スマホで通話しながら歩いている人がいる。
正直、筆者は始終スマホで連絡を取り合いたい人間がこの世に存在しないので、そういう人は羨ましい。
一方で、そんなに始終通話したい相手と同じ空間にいられないのは、可哀想だとも思える。
当然、仕事や家事、子育てなどの理由により、我々は繋がっていたい人と同じ空間にいることが難しい場合がある。
しかし、本当であれば、繋がっていたい人と同じ空間にいられることこそが理想だと思える。そうすることにより、スマホも必要なくなる。
筆者の主張からは、現実的なあらゆる問題が欠落しており、理想論にすぎない。机上の空論だ。
ただ、繋がっていたい人と同じ空間にいられない社会というのは、きわめて機能不全で、ディストピア的だと筆者の目には映る。
まあ、現実的に同じ空間にいられないのなら、せめて通話で繋がることが出来るというのは、多くの人にとって救いになっているのかもしれません。
始終、通話したい相手。そんな相手は、筆者も欲している。
残念ながら、スマホは死者の世界とは交信できない。死者の世界にならば、そんな相手がいるのだけれどね。
しかし、AI(人工知能)によって、死者と対話出来るなんていう話もある。
まあ、なんというか、我々生きている人間は納得の出来るように生きるより他ない。本当に、死者と対話など出来ないことは分かっていても、死者と対話できたような心持ちになるだけで、もしかしたら必要十分なのかもしれません。
話がとっちらかったけれど(いつもか)、スマホという存在による救いと危険性の両面をお伝えできたら幸いだ。
物心ついた時からスマホというものがこの世にあった、「デジタルネイティブ」の世代の方々はまた違った見解をお持ちかもしれない。
筆者の場合、物心ついた頃はスマホが存在せず、大学生時代にスマホデビューした人間なので、スマホの良い面・悪い面をより指摘しやすいのかもしれない。