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第50話 「色白いですね」


 筆者は日焼けしにくい体質なので、よく色白いろじろだと言われる。

 小学生の時は、学校の先生から「四森は日に焼けてないから、家で勉強してたんだな。えらい」と言われたけれど、全然ぜんぜん外で遊んではいた。

 女性の方からも(筆者は男性)、「色が白くてうらやましい」と言われることがある。(他にめるところがないのかもしれない)


 実は、筆者としては肌の色具合について言及げんきゅうされるのは良い気分がしない。


 そもそも、昨今さっこんではルッキズムという言葉もあるけれど、人の外見がいけんについて言及げんきゅうするのはきわめてセンシティブだ。友人同士や家族同士、そういった関係性があるのならばまだ良いけれど、あまりよく知らない者同士での外見の話はきわめてセンシティブだと筆者はとらえている。


 「色が白い」というのが、褒め言葉だった時代もあった。

 「美白びはく」などとうたわれ、それは良いことであるかのような風潮ふうちょうがあった。



 少し話は変わるが、筆者が小学生くらいの頃はまだ、色鉛筆いろえんぴつやクレヨンなんかで「肌色はだいろ」という色があった。現在は同じ色のことを「うすだいだい」や「ペールオレンジ」と言うようだ。

 「肌色」といっても、人種じんしゅによって該当がいとうする色が違うので、きわめて差別的さべつてき概念がいねんだったと思う。

 当時の人々に補足ほそくするのならば、「日本人の肌の色」ということになるのだろうか。


 しかし、これにも注意が必要だ。現在、親が外国出身などの理由でアフリカ系などの日本人も多数存在する。

 今の学校ではどうか知らないけれども、筆者が小学生くらいの頃は、おそらく肌の色を理由にイジメられることもあったと思う。

 日本人=古来こらいよりの日本人種、というわけではなく、日本国籍を有すれば立派な日本人だ。そして、日本は二重国籍を認めていないので、もちろん、彼女ら彼らなりのルーツへの思いはあるかもしれないが、日本人としてほこりを持って生きていると思う。

 もちろん、前回の参院選さんいんせんでも焦点しょうてんになった、日本国籍を持たない外国人の人権じんけんの問題もある。これに関して、現実的な様々な問題や、対立する議論があるらしいので、深く言及することはける。



 今、小学生の方々に、「肌色などという色があった」ことは信じてもらえないかもしれない。

 それくらい、多様性たようせいに目を向けた教育がなされていると信じたい。

 ただ、筆者(30代)の世代は、やっぱり、アフリカ系の方を見かけると「あ、外国人」と一瞬思ってしまう。これは、アップデートしなければならないと思いつつ、なかなかり固まった頭に柔軟性じゅうなんせいを与えるのが難しい。



 外国人の話でいうと、以前日本では外国人のことを英語で「alien(エイリアン)」と呼称こしょうするのが一般的だった。

 ところが、若い世代はピンと来ないかもしれないが、『エイリアン』というアメリカ映画が世界中で大ヒットしたため、「エイリアン」という言葉に「恐ろしい化け物」という認識にんしきが広まったことから、「foreigner(フォーリナー)」にあらためたとする話を聞いたことがある。


 日本という島国(長らく鎖国さこくをしていた)で、やはり外国人(のような容姿ようし)に奇異きいの目を向けてしまうことはありそうだ。



 そこらへんは、大陸で地続きとなっているアメリカなんかとは価値観の違いがあるだろう。

 それこそ、トランプ大統領が排外はいがい政策せいさくを打ち出しているけれど、そもそもアメリカ人が住んでいる場所はネイティブアメリカンの土地であったわけで・・・



 ネイティブアメリカンに関して言うと、以前は「インディアン」という呼称が一般的だった。

 大航海時代だいこうかいじだいにコロンブスが船に乗ってアメリカ大陸に着いたときに、そこを「インド」だと思い込み、そこに住む人たちをインド人(インディアン)と言い始めた、というのがザックリした説明になるだろうか。


 現在、ドジャース大谷翔平選手の活躍が注目を集めいてるMLB(大リーグ)の中に、クリーブランド・ガーディアンズというチームがある。もともとは、クリーブランド・インディアンスというチーム名だったのだが、改名をしたのだ。


 これに関してトランプ大統領が、ガーディアンズをインディアンスの名前に戻すよう要請ようせいしているという報道を目にした。


 「インディアン」という言葉に差別的な意図があるかどうかは争いがある。

 ネイティブアメリカンはインド人ではないため、正確性に欠くという側面はあるかもしれない。

 ただ、ネイティブアメリカンのことをアメリカ人は長らくインディアンと呼んでいた。そして、それはインド人のことを指しているわけではなく、ネイティブアメリカンのことを指しているのだ。


 例えば、アメリカ映画の西部劇(ウエスタン)で「インディアン」という言葉が台詞にあるとする。

 これを日本語字幕にした時に、「ネイティブアメリカン」と翻訳したことが議論を呼んだことがあった。

 これに関していうと、西部劇の時代に「ネイティブアメリカン」という呼び名は一般的ではないはずなので、行きすぎたポリティカリー・コレクトネスなのなもしれない。


 トランプ大統領は逆張りで「インディアン」を復活させようとしているのかもしれないけれど、「インディアン」「ネイティブアメリカン」「アメリカ先住民」は大航海時代から虐殺などとんでもない人権侵害を受けてきた経緯けいいがある。


 インディアンという言葉にはそれだけ黒い歴史の側面もあり、ネイティブアメリカンと置き換えたところで虐殺の歴史が無くなるわけではない。


 トランプ大統領は、「インディアンは誇り高き人々で、彼女ら彼らの存在をインディアンとして永劫えいごう称えるべきだ」などと言っているらしいけれども、先住民ではないアメリカ人よりも上とか下とかいう話でもないはずだ。


 同じ人間。


 ちなみに、肌の色の話でいうと、ネイティブアメリカンは肌が赤いという認識があった。どうしても、人間は目で見えることで判断しがちな側面があり、肌の色にこだわるのかもしれない。



 人気アーティストMrs.GREEN APPLE(ミセス)が『コロンブス』という楽曲を発表したときに、そのMVが問題になり一部で炎上したことがあった。

 そもそも、大航海時代のコロンブスに関して、昨今黒歴史認定する認識が広がっており、コロンブスを偉人いじんとして扱ってはいけないらしい。

 この騒動で、筆者ははじめてそのことを知った。

 筆者もまだまだアップデートが足りないのだ・・・



 なお、肌の色の話に戻るけれども、以前大晦日おおみそかの名物番組だった『ガキの使いやあらへんで 笑ってはいけない◯◯』で、出演者が顔を黒く塗るというシーンがあり、物議ぶつぎかもした。


 大昔のアメリカ映画『國民の創生』で、黒人差別主義者のKKK(クー・クラックス・クラン)を英雄視したことがあり、これも長らく黒歴史認定されていた。


 その映画で、まさしく、顔を黒く塗って黒人を表現したという事実がある。


 もちろん、どこまで配慮しなければならないのかについては議論があってしかるべきだ。


 歴史は繰り返すという。負の歴史はなるべく繰り返さないように、我々は過去に目を向け、よりよい未来を作り出していかなければならない。



 ハリウッドが「出演者のうち、一定程度アフリカ系アメリカ人俳優や白人以外の俳優を起用するべきだ」という指針を打ち出したときに、日本人のコメンテーターが「たとえば、歴史ものの映画で、ほんらい歴史的にはその場所にはいるはずのない人種の方を配役するのはどうなのだろう」という指摘をしていた。

 筆者に言わせると、「その時代がどうとか」と言うよりも、と考えている。

 「その場所にその時代にその人種の人はいなかった」、この指摘は正義だろうか?


 肌の色を気にすること自体に、我々は何らかの認識の欠如けつじょを抱えていると言わざるを得ない。



 まあ、とにかく、まとめると、みんな仲良くしてほしい。それが切なる願いだ。


 人間に上下などなく、肌の色で区別されるなど、もってのほか。


 人類、みな兄弟。


 さすがに、もう、偏見はやめよう(そう思いながらも、筆者も毎日、自分の中にいる差別主義者レーシストを教育していく日々を送っている)。

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