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第2話・夢


 * * *




 ──アレクシスさまが、私を『可愛い』だなんて。

 そんなはずありません……っ!



「そんなはず……ありません……」


 ゆっくりと目を開けたエリアーナは、まどろみの中で何度も同じ言葉を呟いていたことを知る。

 朝日の眩しさに、やっと現実に引き戻された。


「………夢……?」


 それも、とてもリアルな。

 現実に起こった出来事にもとづくものに間違いなさそうだけれど……あの日あの時、木から落ちたエリアーナを受け止めてくれたのは、夫のアレクシス。


 だけど、夢の中で見たような優しい眼差しだったかどうか。

 今ではもうほとんど覚えていないのだった。


 眠い目をこすりながら絹織りの天蓋をめくって起き上がる。エリアーナひとりが眠るには、この寝台はあまりに大きすぎる。

 実家のこじんまりしたベッドに慣れているので落ち着かず、広々とした寝具の端っこのほうを遠慮がちに使っていた。


 二本の細い足をそろっと床に下ろす。

 部屋ばきを探してうつむけば、腰まである緩やかにウエーブがかった灰紫色の長い髪がさらさらと膝に落ちた。


 ──きっと自分に都合のいい夢を見たのね。


 名ばかりの夫であるアレクシス・ジークベルトの、まるで鉄仮面のように動かぬ顔面から優しい言葉が発せられるところなど想像すらできやしない。

 それどころか顔を合わせるたびに向けられる、あの冷やかな視線を思い出して身震いしてしまう。


 無表情で冷淡な夫、アレクシスが。

 エリアーナに笑顔を投げかけ、労わりの言葉をくれたかどうかなんて、今となってはもうどちらでもいいのだった。


「ちゃんと起きなきゃ……遅れちゃう」


 当時は十歳の幼かったエリアーナの瞳に、鮮烈な紅い記憶を残した婚約の日から八年が経った。

 八年ぶりに会ったと言うのに、婚礼式の日ですらアレクシスはエリアーナと目を合わせようともしなかった。


 エリアーナは、世に言う『お飾りの妻』である。


 夫のアレクシス・ジークベルトにはお屋敷の離れに住まわせているアルマという名の愛人がいて、結婚から二ヶ月目を迎える今日までただの一度も──結婚初夜でさえ──エリアーナの寝室を訪れたことはない。


 ジークベルト侯爵家で始まる新しい日々への不安と心細さに追い討ちをかけたのは、婚礼の日にアルマが放った言葉だった。


「アレクほどの人が、あなたなんかを認める筈がないでしょう?」


 心ではわかっていた。それでも……アルマの意地悪な言葉を否定して欲しくて。

 縋るように見つめても、アレクシスは悲しみがこもった目でエリアーナを一瞥しただけだった。


 ──あれは異能が発現しなかった私への、失望の眼差しだ。


 アルマが何を言おうが咎められないと知ってから、アルマは屋敷で顔を合わせるごとにエリアーナに侮蔑の言葉を浴びせるようになった。


「私はちゃぁんと貢献してる。だって侯爵家専属の医者だもの……! だけどあなたは期待外れの無能嫁。ああ……なんて惨めなんでしょう! というか、あなた。いる意味ないんじゃない? 私だったら潔く離縁してお屋敷を去るわね?」


 父も母もすでに他界している。

 アビス一族に頼れる親戚はなく、エリアーナにはもう帰る場所がない。


 国王陛下に仕える先代の『王の』であった母が存命の頃、次期『王の』となりうるエリアーナの異能とそれを見越したジークベルト侯爵家との婚約を結んだ事だけが、両親が遺した唯一の遺産──それなのに。


 ──私の異能は十八歳の成人を迎えた今も発現していない。このままじゃ、ジークベルト侯爵家が期待していた『王の』を継ぐ者にはなれない。


『僕の大切な婚約者エリアーナが、怪我をしなくて良かった』

 夢の中で紡がれた言葉が頭の中でぐるぐる回る。


 ── 遠いあの日、旦那様が「大切だ」とおっしゃったのは……私じゃなく『アビス一族が継承するの異能』のことだったのですね。旦那様が冷たいのは、私に期待していた異能『王の』が発現しなかったから。今の私は侯爵家にとって何の利益をもたらさない『無能嫁』でしかない……。


 重く沈みそうになる気持ちをすくい上げ、夜着のままバルコニーに面した窓の前でうんと伸びをした。

 眩しいほどの陽光を浴びれば、身体中の細胞という細胞が目を覚ます。


 ──旦那様に愛人がいても、お飾りでも。

 私は『みじめで孤独な妻』ではないはずよ……?


 胸の奥底から込み上げてくる寂しさと不安を押しやりながら、そう思おうと努力した。


 呼びかければいつでもが妖精の里からやってくる。

 それに何よりエリアーナには、他の誰よりもエリアーナを理解し心から信頼できる友人──『クロード・ロジエ』がいるのだから。


『エリー、元気にしている? 寂しくはないか?』

 時々届く手紙にはいつも、エリアーナを案じる優しい文字が綴られている。


「親愛なるクロード。私は今日も……元気です。少しも寂しくなんかないわ」


 胸の前で両手を組んでアメジストの目を閉じ、手紙を綴るようにつぶやいてみる。


 少しも寂しくないなんて、平気だなんて、強がりだ。

 それでも……夫のアレクシスに優しくされるなんて『叶わぬ夢』を見てしまった自分への、精一杯の抵抗なのだった。


(だーかーらー。アレクシスとなんかさっさと離縁しなよ! 白い結婚ってやつでしょ? 今ならまだ間に合うって!)


 どこからともなく耳に届いた《声》が、エリアーナの肩で軽やかに跳ねた。


「ルルっ、聞いていたの?!」



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