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第6話 クロード・ロジエの秘密(2)


 クロードの方から便りが来ることは滅多になく、エリアーナが送った手紙に返事が来るだけだ。エリアーナが何もせずにいれば、文通はとうに断ち切れていただろう。


 ──もしもあなたが結婚していたら。

 いつでも的確な言葉と優しさを投げてくれる素敵な旦那様でしょう。

 もしもあなたに子供がいたら、面倒見の良いとっても優しいお父様……奥様も、お幸せね。


 もしも……もしも。

 クロードのように、アレクシスがひと言でも労りの言葉をかけてくれたなら。ままならないこの日々に、ほんの一欠片ひとかけらでも、希望が持てたかも知れないのに。


 ──私は、無能嫁。いらないお飾りの妻でしかない……。


 沈みそうになる気持ちをどうにか押し上げて、エリアーナが人差し指を高く掲げれ

ば──虚空が白い光に包まれる。

 光の中でパタパタと羽音がしたかと思えば、一羽の白い鳩が光の中から現れた。


 鳩は静かに羽ばたきを繰り返しながら部屋の天井をくるりと一周する。そしてひとひらの雪が落ちるように、エリアーナの指先にひらりと舞い降りた。


「来てくれて有難う、ポッポ」


 丸い頭を指先で撫でたあと、鳩の足に付けられた銀筒の中に丸めた手紙を丁寧に収めた。


 異空間を瞬時に移動できる魔法鳩は、魔法省が民間に提供する生活魔法の一つだ。多くの情報を送れないものの、直接相手の元へと飛ぶため、急ぎの伝達時などに重宝されている。


「お願い。クロードに届けて……」


 華奢な指先を飛び立った鳩は再び部屋の天井を一周してから、煌めく光の輪の中へと消えていった。



 それから数時間が経ち、眠気にまどろむエリアーナがベッドに入ろうとしていたとき。

 虚空に現れた光の輪をくぐって白い鳩が舞い戻った。

 慌てて寝具を飛びだし、はやる気持ちをおさえながら指先で筒の蓋を開ける。


 小さな白い紙に整然と綴られた、ブルーブラックの文字の羅列が清々《すがすが》しい。


 届けられた手紙に目を通したエリアーナは、長いまつ毛に縁取られたアーモンド型の大きな瞳を震わせた。




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 親愛なるエリー

 エリーの夫はよほど愚かな男に違いない。目の前にある大切なものに気付いていながら、手を伸ばす事をいつまでもためらっているのだから。


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 *




 窓の外の宵闇はすでに深く、黒々とした木々の影を騒めきとともに地に落とす。

 書卓に向き合うアレクシスは、ふ……と小さな溜め息をついた。


 雪のように白く美しい鳩は異空間へと消え、アレクシスの愛する人の元へと飛んでいった。


 ──安っぽい綺麗事を並べたところで、この想いは届かぬだろう。


「アレクシス」


 背後に人の気配を感じるが、振り向きはしない。


「またお手紙?」


 首筋に回された白い手首から、甘ったるい香水の匂いがたちのぼる。

 隠そうともせず形の良い眉を顰めた。この匂いにはいつまでも慣れることがない。


「あなたが書卓にいるあいだはとっても寂しいわ。あなたの心が、手紙の送り手に向いてしまうんですもの」


 ねぇ……と両腕に力を込めるのは、豊かなプラチナブロンドを緩やかに結えた美しい女性。豊満な胸を強調するような薄い夜着に身を包み、猫のように甘えた声色が耳元でく。


「ねぇったら、聞いてるの? 今夜は不機嫌なのね。さっき届いた手紙のせい?」


 問いかけに応えることはなく、首筋に回された細い両腕に惑わされることもなく。アレクシスは無言でスツールを立ち上がる。


「……湯浴みをしてくる」



 浴室に入ると、力が抜けた。

 流れ落ちる水滴を頭上に浴びながら、秀麗な面輪を両手で覆い、そのまま乱暴に濡れ髪を掻き上げる。


 愛おしいと、思えば思うほどに。


 ──ああ、なんで。

 なんで俺は……あんなふうにしかできないのだろう?


 エリアーナはやはり傷ついていた。

 これまで幾度となく綴られた「平気です」「寂しくないわ」「私は元気です」。

 真に受けていたわけじゃない。だから何度も同じ事を問いかけた。


「ああ、エリー……ッ……」


 手紙に綴られていた無機質な文字が、鳥の囀りのような愛らしい声となって誰もいない浴室に響いた。


『エリーは今でも旦那様をお慕いしています

 だからこそ、旦那様と顔を合わせるのが辛いのです』


 ──それでも君は、こんな俺を慕っていると言ってくれるのか……?


『嫌われている……そう感じるたびに、胸が張り裂けそうに痛むのです』


 浴室の壁に両肘を突き、込み上げてくる自分への苛立ちを堪えながら濡れ髪の後頭部を両手で抱え込む。


 ──嫌うはずがない……!


 叶うものならば今すぐエリアーナの元へ飛んで行きたい。

 八年の時を経て美しく成長した、あの華奢な身体を全力で抱き締めて、声高に愛していると伝えたい。

 溢れる想いを拳に込めて壁に打ちつけ、固く握りしめる。

 項垂れた背を伝い落ちる水音のなか、絞り出すように呟いた。


「できない事情が……あるんだ」


 脳裏に幾度となく過ぎる《声》が──。

 見えない枷となり、アレクシスをその身体ごときつく絡めとる。


『いずれエリアーナの夫となる貴方に、幼いエリアーナ自身もまだ知らない大切な事を伝えておかねばなりません。エリアーナの母としての、最期の責務です。』


 茫然と水浸しの床を見つめながら、心の中でつぶやいた──・・・


 ──すまない、エリアーナ。

 今は君を避ける事しかできない俺を、許してくれ……







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