クロードの方から便りが来ることは滅多になく、エリアーナが送った手紙に返事が来るだけだ。彼女が何もせずにいれば、文通はとうに途絶えていただろう。
──もしも、あなたが結婚していたら。
いつでも的確な言葉と優しさをくれるあなたなら、きっと素敵な旦那様でしょう。もしも子どもがいたら、面倒見の良い優しいお父様……奥様も、きっと幸せね。
勝手に想像を膨らませてしまう自分がおかしくて、エリアーナはふと微笑んだ。
もしも……もしも。
クロードのようにアレクシスがひと言でも労りの言葉をかけてくれたなら。ままならないこの日々にも、ひとかけらの希望が持てたかもしれないのに。
──私は、役に立たない無能嫁。いらないお飾りの妻でしかない……。
沈みそうになる気持ちをどうにか押し上げ、エリアーナは人差し指を高く掲げる。
虚空が白い光に包まれ、一羽の白い鳩が光の中から姿を現した。
鳩は静かに羽ばたきながら部屋の天井をくるりと一周し、ひとひらの雪のようにエリアーナの指先へと舞い降りる。
「来てくれてありがとう、ポッポ」
丸い頭をそっと撫でたあと、鳩の足につけられた銀筒に丸めた手紙を丁寧に収める。
異空間を移動できる魔法鳩は、魔法省が民間に提供する生活魔法のひとつ。多くの情報を送れないものの、相手の元へ直接届くため、急ぎの伝達に重宝されている。
「お願い。クロードに届けて……」
鳩は窓辺を一周すると、光の輪の中へと飛び込んで消えていった。
*
それから数時間後。
眠気にまどろみながらベッドに入ろうとしていたとき、再び虚空に光の輪が浮かび、白い鳩が舞い戻った。
エリアーナは慌てて寝具を飛びだし、胸の高鳴りを抑えながら銀筒の蓋を開ける。
中には、小さな白い紙に整然と綴られたブルーブラックの文字列が。どこか清々《すがすが》しさを感じさせる筆致だった。
その内容を目で追いながら、エリアーナのアーモンド型の瞳がそっと震える。
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親愛なるエリー
君の夫は、よほどの愚か者なのだろう。
目の前にある大切なものを見つめながらも、その手を差し伸べることすらできない、、、
そんな情けない男が、君を悲しませている。
けれどどうか、もう少しだけ彼に時間を与えてはくれないだろうか。君を傷つけたことに気づきながらも、なお愚かに立ちすくむ彼に。
君の幸せを心から願うこのクロードの、せめてもの我が儘だ。
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エリアーナは小さな手紙を胸元にそっと抱きしめると、目を閉じて静かに息を吐いた。
白鳩が運んできた、たった数行の便り。
そこに綴られていたのは、優しさと、なぜか切なさを帯びた懇願だった。
──どうして……?
クロードの言葉は、まるでアレクシスを庇っているように思える。 彼のような人が、あんな冷たい旦那様の肩を持つなんて。
『君を傷つけたことに気づきながらも、なお愚かに立ちすくむ彼に。』
まるで、クロードはアレクシスの心の奥底まで知っているかのように思えて。
──まさか……ね。そんなはず、ないのに。
不意に、胸の奥がちくりと痛んだ。
一瞬、期待してしまった自分がいることに気づいて、エリアーナは、ふ、と苦笑した。
「……それでも、私」
小さな声で呟きながら便箋をそっと引き寄せる。
たとえ冷たくされても、拒まれても。
心のどこかではまだ……アレクシスを待っている自分がいる。
* * *
宵闇はすでに深く、黒々とした木々の影が風に騒めく音とともに地面へと落ちている。
書卓に座って窓の外を眺めながら、アレクシスは小さく息をついた。
雪のような美しい鳩は異空間へと消え、愛する人の元へと向かったはずだ。
──安っぽい綺麗事を並べたところで、この想いが届くことはないだろう。
「アレクシス」
背後に人の気配。
だが彼は振り向かない。
「またお手紙?」
首筋に回された白い腕から、甘ったるい香水の匂いが立ちのぼる。
この匂いにはいつまでも慣れることがない。
眉をひそめるが、その仕草を見せることなく、ただ黙っていた。
「あなたが書卓にいるあいだはとっても寂しいわ。心が遠くへ行ってしまうみたいで……」
ねぇ、と身を寄せるのは、豊かなプラチナブロンドをゆるやかに結った美しい女性。豊満な胸を強調する薄手の夜着に身を包み、猫のように甘えた声でアレクシスの耳元に囁く。
「ねぇったら、聞いてるの? 今夜は不機嫌なのね。さっき届いた手紙のせい?」
その声色には、かすかな棘が混じっていた。
けれど応えず、惑わされる事なく。アレクシスは無言でスツールを立ち上がる。
「……湯浴みをしてくる」
浴室に入ると、力が抜けた。
流れ落ちる水滴を頭上に浴びながら、秀麗な面輪を両手で覆い、そのまま乱暴に濡れ髪を掻き上げる。
──愛おしいと、思えば思うほどに。
ああ、なんで。
なんで俺は……あんなふうにしかできないのだろう?
これまで幾度となく綴られた「平気です」「寂しくないわ」「私は元気です」。
真に受けていたわけじゃない。
だからこそ、何度も確かめずにはいられなかった。
「エリー……ッ……」
──離縁したいと言われても仕方がない。
手紙に綴られていた無機質な文字が、鳥の囀りのような愛らしい声となって脳内に響いた。
『エリーは今でも旦那様をお慕いしています。だからこそ、旦那様と顔を合わせるのが辛いのです』
──それでも君は、こんな俺を慕ってくれているのか?
『嫌われている……そう感じるたびに、胸が張り裂けそうに痛むのです』
浴室の壁に両肘を突き、込み上げてくる自分への苛立ちを堪えながら、震える手で濡れ髪を抱え込む。
──嫌うはずがない……!
今すぐエリアーナの元へ駆けつけたい。
八年越しに美しく成長した、あの華奢な身体を全力で抱き締めて、声高に愛していると叫びたかった。
だが、それが叶わぬことも、アレクシスは痛いほど知っている。
拳を壁に打ちつけ、固く握りしめる。
背中を伝い落ちる水音のなか、絞り出すように呟いた。
「事情が……あるんだ」
脳裏に蘇る、あの《声》が──。
見えない鎖となり、アレクシスをその身体ごときつく絡めとる。
『いずれエリアーナの夫となる貴方に、幼いエリアーナ自身もまだ知らない大切な事を、今のうちに伝えておかねばなりません。エリアーナの母としての、最後の責務です。』
茫然と水浸しの床を見つめながら、心の底で呟いた。
──すまない、エリアーナ。
今は君を避ける事しかできない俺を、どうか許してくれ……。