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クロードからの返事が届いた次の日の早朝。
エリアーナは屋敷の裏庭の、木々の生い茂る森の中にいた。
裏庭と言えども、ジークベルト家の敷地は広大で、森と呼ぶにふさわしい自然が残されている。
手入れの行き届いた菜園を抜けた先にあるその場所は、真っ直ぐな朝日が木立の隙間から差し込んで、静謐な空気に包まれていた。
「はあ、はあ……」
軽く息を弾ませながら、エリアーナは沢の水音を頼りに歩を進める。石畳の敷かれた小径が木立の間を縫うように続いており、迷うことはない。
やがて石畳がふいに途切れ、小さな沢が朝陽を受けてきらめいていた。
エリアーナは無表情のまま、ワンピースの裾をたくし上げ、靴を脱いで沢の水にそっと素足を沈める。
「冷たい……っ」
ぶるりと身体を震わせ、奥歯を噛み締めて気持ちを奮い立たせた。
──今日こそ、見つけなければ。
目を閉じて、胸の前でそっと組んだ指先に祈りを込めるエリアーナ。
左手の薬指が
そこにあったものを失ってから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
両手を冷たい水に沈め、小さな岩をひとつずつどけてゆく。
灰色の砂がふわりと舞い、水の中で静かに広がっては、沈んでいく。
「ぁ……!」
水底で何かが光ったように見えた。
けれど、それはただの青黒い石。
──もう何度目の空振りだろう。
赤くかじかんだ指先。足元の感覚も薄れていく。
それでも、諦める事はできななかった。
「なぁに? 水の中で探し物でも?」
背後から聞こえた声に、エリアーナはびくりと肩を震わせる。
──アルマ様……!
「……どうして、ここに」
沢の水音に紛れるような声。
けれど、彼女の声だけは絶対に聞き違えようがない。
「菜園で薬草の手入れをしていたら、あなたの姿がちらっと見えたのよ。朝っぱらからこんな鬱蒼とした森に入ろうとしてるんだもの、気になって。つい、ね?」
──嘘だ、とエリアーナの心が訴えている。
アルマはいつだって、エリアーナの動向を監視しているのだから。
彼女はジークベルト家の有能な専属医師であり、エリアーナの夫アレクシスの愛人だ。
今朝は長いブロンドの半分を後頭部にまとめ、残りの髪を片方に寄せて豊満な胸の上に垂らしている。
「夫に相手にされない不憫な無能妻が、腹いせに誰かと密会でもしてるのかと思ったの。もしそうなら、ジークベルト家の一員として見過ごすわけにはいかないもの」
涼やかな笑みを湛えながら、アルマがゆっくりと歩み寄ってくる。優雅な物言いに潜む毒を、エリアーナはもう知っていた。
「違います、そんなこと……っ」
かすれそうな声で否定する。
アルマに背を向けたまま、震える指先をなおも水へと沈める。
「ふふっ、その様子じゃ密会ではなさそうね。でも、誰かと会っていたほうがまだ
唇に指を当て、小首をかしげるアルマ。
芝居がかったその姿に、嘲笑が滲む。
「けなげに何かを探してるみたいだけど……ああ、《あれ》のことかしら?」
エリアーナの指がぴたりと止まった。
「そう……だったのね。冷たい水に手を突っ込んで探してるなんて、本当に涙ぐましいわ」
その声色には、あからさまな侮蔑と悪意が込められていた。
「この間、私が《《うっかり》この辺に放げた《あれ》。まだ探してたの? 熱心ね」
エリアーナの唇が、わずかに震える。
「でも、もう見つからないと思うわ。この辺りには、光り物好きの
喉の奥でくすくすと笑う。
「水の中ばかりじゃなくて、鴉の巣を探してみたら? ああ……でも。嘴で目を突かれたり、足を滑らせて崖から落ちたりしないようにね?」
言葉は優美な響きを纏いながら、刃のように冷酷だった。
──どうして、こんなに酷いことを笑いながら言えるの?
エリアーナは黙っていた。
この女が、どれほど狡猾な仮面を被っているのかを、すでに知っていたから。
アルマが攻撃的な態度をあからさまにするのはエリアーナだけ。アレクシスの前では勿論、ジークベルト侯爵や奥方の前では粛々としていて、礼節のある聡明な女性を装っているのだから。
「アルマ様……ここは冷えます。もうお帰りください」
震える声で告げると、アルマは唇を綻ばせた。
「そうね、アレクも私の帰りを待っているわ。ベッドの中で……」
艶めいた声で囁いたその瞬間、アルマの表情が豹変した。
眉根をきつく寄せ、苦々しげにエリアーナを睨め付ける。
「……本っ当に。
冷たい怒りを孕んだその声は、刺すように鋭い。
「いつまで粘るつもりなの? 能無しのあんたはアレクの荷物でしかない。ジークベルト家にもアレクにも、何の価値もない。ただの穀潰しよ」
唇を噛み、ぐっと堪える。
「……っ」
──何も、言い返せない……!
アルマが言う事は何一つ間違ってはいない。
反論の余地はなく、エリアーナは唇を震わせながら言葉を詰まらせるしかなかった。
「いい加減、無能を認めて……離縁しろよ」
──離縁。
その言葉が、はっきりとした現実味を帯びて、胸に突き刺さった。
「邪魔者は消えなきゃいけないのよ。アレクとさっさと離縁して、彼の人生から……消えて」
そう言い残してアルマは踵を返し、衣擦れの音をさせながら森を去って行った。
「…………」
残されたエリアーナは唇を噛み締め、深く息をつく。
水面の煌めきがやけに眩しく映った。
──あのとき、しっかり断っていれば。
左手の薬指にあるはずだった指輪。
アレクシスから贈られた、唯一の結婚の証。
アレキサンドライトの石が嵌め込まれた、
『見せてよ?』
アルマがそう言って手を差し伸べたあの日。
強く拒めなかった自分が、今でも悔しくてたまらない。
指輪は、高く放物線を描きながら、森の奥へ──・・・
ポチャリ、という水音とともに、消えていった。
『虫がついていたのよ』
嘲るように眉を顰めながら、アルマは悪びれる様子もなかった。
──夢ならいいのに。
けれど、左手を何度かざして見つめても、そこに輝きは戻らない。 指は、ただ《軽い》ままだ。
「……必ず見つけて。旦那様に、お返ししなくては」
かじかんだ指先にほうっと息を吹きかけて、もう一度、水底を見つめる。
碧く煌めく、あの光を探して──。