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第7話・アルマとエリアーナ


 * * *



 クロードからの返事が届いた次の日の早朝。

 エリアーナは屋敷の裏庭の、木々の生い茂る森の中にいた。


 裏庭と言えども、ジークベルト家の敷地は広大で、森と呼ぶにふさわしい自然が残されている。

 手入れの行き届いた菜園を抜けた先にあるその場所は、真っ直ぐな朝日が木立の隙間から差し込んで、静謐な空気に包まれていた。


「はあ、はあ……」


 軽く息を弾ませながら、エリアーナは沢の水音を頼りに歩を進める。石畳の敷かれた小径が木立の間を縫うように続いており、迷うことはない。

 やがて石畳がふいに途切れ、小さな沢が朝陽を受けてきらめいていた。


 エリアーナは無表情のまま、ワンピースの裾をたくし上げ、靴を脱いで沢の水にそっと素足を沈める。


「冷たい……っ」


 ぶるりと身体を震わせ、奥歯を噛み締めて気持ちを奮い立たせた。


 ──今日こそ、見つけなければ。


 目を閉じて、胸の前でそっと組んだ指先に祈りを込めるエリアーナ。


 左手の薬指が

 そこにあったものを失ってから、どれほどの時間が過ぎただろうか。


 両手を冷たい水に沈め、小さな岩をひとつずつどけてゆく。

 灰色の砂がふわりと舞い、水の中で静かに広がっては、沈んでいく。


「ぁ……!」


 水底で何かが光ったように見えた。

 けれど、それはただの青黒い石。


 ──もう何度目の空振りだろう。


 赤くかじかんだ指先。足元の感覚も薄れていく。

 それでも、諦める事はできななかった。


「なぁに? 水の中で探し物でも?」


 背後から聞こえた声に、エリアーナはびくりと肩を震わせる。


 ──アルマ様……!


「……どうして、ここに」


 沢の水音に紛れるような声。

 けれど、彼女の声だけは絶対に聞き違えようがない。


「菜園で薬草の手入れをしていたら、あなたの姿がちらっと見えたのよ。朝っぱらからこんな鬱蒼とした森に入ろうとしてるんだもの、気になって。つい、ね?」


 ──嘘だ、とエリアーナの心が訴えている。

 アルマはいつだって、エリアーナの動向を監視しているのだから。


 彼女はジークベルト家の有能な専属医師であり、エリアーナの夫アレクシスの愛人だ。

 今朝は長いブロンドの半分を後頭部にまとめ、残りの髪を片方に寄せて豊満な胸の上に垂らしている。


「夫に相手にされない不憫な無能妻が、腹いせに誰かと密会でもしてるのかと思ったの。もしそうなら、ジークベルト家の一員として見過ごすわけにはいかないもの」


 涼やかな笑みを湛えながら、アルマがゆっくりと歩み寄ってくる。優雅な物言いに潜む毒を、エリアーナはもう知っていた。


「違います、そんなこと……っ」


 かすれそうな声で否定する。

 アルマに背を向けたまま、震える指先をなおも水へと沈める。


「ふふっ、その様子じゃ密会ではなさそうね。でも、誰かと会っていたほうがまだ見えたかもしれないわ?」


 唇に指を当て、小首をかしげるアルマ。

 芝居がかったその姿に、嘲笑が滲む。


「けなげに何かを探してるみたいだけど……ああ、《あれ》のことかしら?」


 エリアーナの指がぴたりと止まった。


「そう……だったのね。冷たい水に手を突っ込んで探してるなんて、本当に涙ぐましいわ」


 その声色には、あからさまな侮蔑と悪意が込められていた。


「この間、私が《《うっかり》この辺に放げた《あれ》。まだ探してたの? 熱心ね」


 エリアーナの唇が、わずかに震える。


「でも、もう見つからないと思うわ。この辺りには、光り物好きのカラスが巣を作ってるらしいの。キラキラしたものを見ると、咥えてどこかに持っていっちゃうんですって」


 喉の奥でくすくすと笑う。


「水の中ばかりじゃなくて、鴉の巣を探してみたら? ああ……でも。嘴で目を突かれたり、足を滑らせて崖から落ちたりしないようにね?」


 言葉は優美な響きを纏いながら、刃のように冷酷だった。


 ──どうして、こんなに酷いことを笑いながら言えるの?


 エリアーナは黙っていた。

 この女が、どれほど狡猾な仮面を被っているのかを、すでに知っていたから。


 アルマが攻撃的な態度をあからさまにするのはエリアーナだけ。アレクシスの前では勿論、ジークベルト侯爵や奥方の前では粛々としていて、礼節のある聡明な女性を装っているのだから。


「アルマ様……ここは冷えます。もうお帰りください」


 震える声で告げると、アルマは唇を綻ばせた。


「そうね、アレクも私の帰りを待っているわ。ベッドの中で……」


 艶めいた声で囁いたその瞬間、アルマの表情が豹変した。

 眉根をきつく寄せ、苦々しげにエリアーナを睨め付ける。


「……本っ当に。邪魔者あんたさえいなければ、私たちはとっくに夫婦になれていたのに!」


 冷たい怒りを孕んだその声は、刺すように鋭い。


「いつまで粘るつもりなの? 能無しのあんたはアレクの荷物でしかない。ジークベルト家にもアレクにも、何の価値もない。ただの穀潰しよ」


 唇を噛み、ぐっと堪える。


「……っ」


 ──何も、言い返せない……!


 アルマが言う事は何一つ間違ってはいない。

 反論の余地はなく、エリアーナは唇を震わせながら言葉を詰まらせるしかなかった。


「いい加減、無能を認めて……離縁しろよ」


 ──離縁。

 その言葉が、はっきりとした現実味を帯びて、胸に突き刺さった。


「邪魔者は消えなきゃいけないのよ。アレクとさっさと離縁して、彼の人生から……消えて」


 そう言い残してアルマは踵を返し、衣擦れの音をさせながら森を去って行った。


「…………」


 残されたエリアーナは唇を噛み締め、深く息をつく。

 水面の煌めきがやけに眩しく映った。


 ──あのとき、しっかり断っていれば。


 左手の薬指にあるはずだった指輪。

 アレクシスから贈られた、唯一の結婚の証。

 アレキサンドライトの石が嵌め込まれた、あおく煌めく美しい指輪。


『見せてよ?』


 アルマがそう言って手を差し伸べたあの日。

 強く拒めなかった自分が、今でも悔しくてたまらない。


 指輪は、高く放物線を描きながら、森の奥へ──・・・

 ポチャリ、という水音とともに、消えていった。


『虫がついていたのよ』


 嘲るように眉を顰めながら、アルマは悪びれる様子もなかった。


 ──夢ならいいのに。


 けれど、左手を何度かざして見つめても、そこに輝きは戻らない。 指は、ただ《軽い》ままだ。


「……必ず見つけて。旦那様に、お返ししなくては」


 かじかんだ指先にほうっと息を吹きかけて、もう一度、水底を見つめる。


 碧く煌めく、あの光を探して──。





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