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第8話・エリアーナの決意


 * * *



 ティーカップに注がれたばかりの琥珀色の液体から、白い湯気がゆらゆらと立ち昇るのを、なんとなく見つめてしまう。


 金箔で縁取られた皿の上で、エリアーナは檸檬色の玉子をフォークの懐にすくい上げたまま手を止めた。


 ──穀潰し。


 そんな風になじられてしまっては、楽しみにしていたはずの食事もろくに喉を通らなかった。


「はぁ……っ」


 重厚なカーテンの隙間から、細長い日差しがごく僅かに差し込んでいる。

 晴天の早朝だとは思えないほど薄暗いのは、義母の趣味である年代ものの古く分厚いカーテンがせっかくの朝日を遮っているせいだ。


(あーあ、また溜め息ついてる。だから言ってるでしょ? とっとと離縁しなって!)


 隣の席に座らせているうさぎが呆れ声で訴える。

 はたから見れば、もうすぐ十八歳にもなるいい大人が縫いぐるみを連れ歩く幼児趣味だと思われかねないだろう。

 けれどエリアーナはあまり気にしていない。は、エリアーナにとってかけがえのない《家族》なのだから。


「ルルはそう言うけど……そんなに簡単じゃないのよ。離縁したいだなんて、何よりも体裁を気にされるお義母様がお許しにならないわ」


 義母のロザンヌは、嫁の異能の発現をまだ諦めていない。

 だからこそ息子のアレクシスにまで嘘をついてまで、一縷の希望を抱き、エリアーナを魔法学校に通わせているのだ。


「それに、クロードだって……」


 ── どうか、もう少しだけ彼に時間を与えてはくれないだろうか。このクロードの、せめてもの我が儘だ。


 クロードからの返事に、エリアーナが望んでいた答えはなかった。

 けれど「離縁するにはまだ早い」という彼の言葉が、心に留まっている。

 離縁とは……誰にとっても慎重にならざるを得ない、一大事なのだと。


(たかが手紙のやり取りだけで何がわかるっていうのさ。エリーの苦しみを知ってるのはこの僕だけ。それに! 離縁するための作戦、すごく良いことを思いついたんだっ)


 すっかり得意顔(?)のうさぎは、よっこらしょ、とテーブルの上によじ登る。

 ふわふわの短い二本足でトコトコ歩いて、エリアーナの目の前にちょこんと座った。


「ちょっとルルっ?! 動いているところを給仕に見られたら……」


(平気だよ。奴らはデザート持ってくるまで来ないからね)


「給仕が来なくても、侯爵様が顔を出されるかも知れないわ」


 アレクシスの実父であるジークベルト侯爵閣下は、この屋敷でただひとり、エリアーナに優しく接してくれる存在だ。


 侯爵もアレクシス同様、王宮に出仕している。

 日中顔を合わせることはほとんど無いが、数日に一度、気まぐれにふらりとダイニングルームにやってきて、エリアーナと食事を共にするのだ。


 ──にこにこしながら美味しそうに召しあがる侯爵様を見ていたら、在りし日のお父様を思い出しちゃって。なんだかホッとするのよね。


 二ヶ月前の、結婚式当日。

 エリアーナの異能が発現していない事を知っても、侯爵は義母や親戚たちのようにあからさまな落胆や暴言を口にしなかった。

 それどころか、敬虔な信仰を持つ彼は周囲の蔑視の空気に一人立ち向かい、エリアーナを守るように言葉をかけてくれたのだ。


『似合いの夫婦だと、招待客の皆が憧憬の眼差しを向けていたぞ? 儂も鼻が高かった。花も恥じらう美貌のエリアーナちゃんを妻に迎えられたのだ、息子は幸せ者だよ。異能の事なら気にせずともよい。全ては天命の導きによるものだ。焦ることはない、時を待とう』


 ──花も恥じらうだなんて、侯爵様はご冗談が過ぎますね。でも……あの時かけてくださったお言葉は、本当に救いでした。


 無駄に広い部屋の、細長いテーブルの端っこにひとりぽつんと座っていると、まるで世界に自分だけが取り残されたようで心細さが胸に迫る。


「……それで、良いことって。ルルはいったい何を思いついたの?」


 えっへん! と言わんばかりに、腕を組んだうさぎがうなづいている。


(あのね……教えるから、ちょっと耳を貸してみて?)


「ふふ、ルルが大声で叫んだって誰にも聞こえないわよ?」


 そう言いながらも、うさぎの要望を叶えてやろうと身体を寄せる。

 ごにょごにょと耳元に囁かれた言葉は、鼓膜を通らず、頭の中に直接響いてくるような感覚だった。


「そ、そんな……非常識な事っっ。私にできるかしら……?」


(出来るも出来ないも、んだよ。こののいいところは、エリーが『失敗』しても『成功』しても『離縁確定』ってことなのさ!)


「そんなに上手くいくかしら……」


 懐疑的なエリアーナは、薄く笑いながら遠い目をする。


(上手くいくよっ! アレクシスと離縁したいって、思ってるんでしょ?)


「そ、それはそう、だけど……っ」


 ──僕の可愛いエリアーナ。


 夢の中で見たアレクシスの優しい笑顔を思い出せば、薔薇色の頬が甘い熱を帯びる。


 心が揺れる。けれど──


「思っているけど……旦那様のこと、嫌いなわけじゃ、ないし……」


 嫌いなどころか、むしろ……

 もじもじと躊躇うエリアーナに、うさぎが喝を入れてくる。


(ほらほら、そんな調子じゃ迷ってる間にお婆ちゃんになっちゃうよ?! そうと決まれば、次の休みの日までに準備しよう。作戦決行だっ!)


 揚々と飛び跳ねるうさぎを横目に、エリアーナは動揺を隠せない。

 本当にを実行すべきなのだろうか?


「ねえ、ルル。やっぱり無理だわ。離縁を許してもらえたとしても、私にはもう帰る場所が無いのよ?」


(ロイズ村のマーロン叔母さんがいるじゃないか。血が繋がっていなくたって、お父上が亡くなってからずっとエリーの面倒を見てくれたし、掛け値なく優しい人じゃん。エリーが嫁いでしまうのすっごく寂しがってたし、出戻った事をむしろ喜んでくれるんじゃない?)


「マーロン叔母さん……。そうね、離縁したなんて言ったら、また心配させてしまうでしょうけれど……」


 ルルが持ちかけた提案は、大胆かつ非常識だ。


 クロードの制止も聞かずに。

 真面目で勤勉なお屋敷の使用人たちを、混乱の渦に巻き込んでまで。優しくしてくださっている侯爵様を、失望させてまで。


 ──それに、本当に離縁になってしまっても、私は後悔しないの……?


 左手の薬指も、未だ軽いままだ。

 まるでアレクシスとの未来が、初めから空っぽだった事を示すように。


『お飾りの妻が。今さら花嫁修行とは、滑稽だな』

『邪魔者は消えなきゃいけないのよ。アレクとさっさと離縁して、彼の人生から……消えて』


 鋭く跳ね上がった眉と、蔑むように見下ろす眼差し。

 繰り返し向けられた冷たいあの目が脳裏に焼き付いて離れない。

 冷酷な声と嘲笑が、心に残る迷いを少しずつ削っていく。


 ──そう……。

 私がいなくなれば、旦那様は幸せになれるのかもしれない。


 ただの穀潰しのエリアーナではなく、有能な医師であり、愛するアルマと再婚した方が。


 それだけじゃない。

 エリアーナだって、まだ十八という若さなのだ。


 ── 一度きりの長い人生だもの。私だって、お屋敷を出ることで楽になれるかも知れない。無能だ、穀潰しだなんて呼ばれずに、ただ穏やかに生きて、息をしていられる場所がきっとある。


「ルル。うまくいくかわからないけど……」


 あのアコレードの日から婚礼式の日を迎えるまで、エリアーナは彼と歩む人生に想いを馳せてきた。

 けれど──その想いは、アレクシスには届かなかった。


 離縁は……正直まだ怖い。

 人生から、アレクシスという存在を失ってしまうのが、怖い。


 ──それでも、このまま心を殺して生きるくらいなら──。


 アレクシスへの想いを断ち切るように。

 エリアーナは顔を上げ、ぐ、と奥歯を噛み締めた。


「……私、やってみる」







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