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第9話・悩ましいほど不器用な愛を(1)


 * * *



「アレクシス!」


 王宮の回廊は閑散としていた。

 人気のないがらんどうの空間に、若い男の澄んだ声と小走りの靴音が響く。


 俯きがちだった顔を上げれば、天井まで伸びる格子窓から差し込む陽光の眩しさに、アレクシスは思わず目を眇めた。

 光の中で、エリアーナの横顔が一瞬脳裏に浮かぶ。あのぎこちなくも柔らかな微笑みが、今は遠い。


「なんだ、お前か、カイン」

「何だはないだろう。人がせっかく心配して声をかけてやったのに。おいおいどうした? 朝からずっと浮かない顔してるじゃないか。書記官のかわい子ちゃんたちが心配してたぞ?」


 カインと呼ばれた青年は、アレクシスと同じ宮廷管轄の特異魔法省に出仕する補佐官の一人だ。

 アレクシスとは気心の知れた古くからの友人でもある。


「誰にでも惜しげなくキラースマイルを投げ散らす『白薔薇の騎士様』が、女の子に挨拶されても口角をほんのちょっと上げるだけだなんて。そりゃあ心配にもなりますよ、君の心友としてはね」


 カインの燃えるような赤髪から覗く金色の瞳が、弄ぶように微笑んだ。


「おい。その妙な呼び方はよせと、何度言ったら」


 アレクシスと同じく長身のカインを、彼の鍛え抜かれた体躯が更に大きく見せている。

 アレクシスを清廉な『白い薔薇』に例えるなら、カインは情熱を秘めた『真紅の薔薇』だ。


「心友はいいが、余計な心配をする暇があるなら仕事しろ。君が手を抜いたぶんの書類を押し付けられるこっちの身にもなってくれ」


 歩みを止めず、片手の紙束をひらひらと揺らす。それは書類というより、一冊の本のようだった。


「そうカリカリ目くじら立てなさんなって。仕事の借りはいつか返すよ」

「ふっ、口先だけの男が言うことなど初めから期待してないがな」


 カインは唇を尖らせるが、アレクシスは至って涼しい顔をしている。けれどその瞳の奥には、時折見せる彼の妻への執着が潜んでいることを、カインは見逃さなかった。


 ちょうど二人が廊下の角を曲がったとき、息を切らした若いメイドと鉢合わせになった。


「きゃぁっ」

「……おっと!」


 当人の代わりに声を出したのはカインだ。

 驚いて顔を上げたメイドは、アレクシスを見上げて目をぱちくりと丸くする。

 そして見惚れたように頬を赤らめると、慌てて一歩下がり、腰が折れそうなほどに何度もお辞儀を繰り返した。


「もっ、申し訳ありません……ジークベルト宰相補佐官様っっ!」


 正しくは、特異魔法省宰相補佐官だ。

 メイドのお仕着せは真新しく、彼女がまだ新人だとわかる。


「ぶつかると危ないだろう。幾ら急いでいても、走らない方がいい」


 アレクシスは眉をひそめ、強い口調で諭すように言った。

 だがその声には、彼女に怪我がなかったことにホッとした色が、ごく微かに混じる。


 泣き出しそうな顔で幾度も頭を下げたメイドが去り、再び歩みを進めるも、アレクシスは眉間に皺を寄せたままだ。

 そんな彼の秀麗な面輪を、カインがまじまじと覗き込む。


「ほ〜〜ら! 今日のアレク、やっぱおかしいって。何なんだ? あのアルマとか言う喧嘩でもしたか」


 いつもは王城内の些細な出来事など気にも留めないアレクシスだ。

 キラースマイルはともかく、爽やかな笑顔を絶やさぬ事で知られる彼の仏頂面は珍しい。


「……殴られたいのか」


「ふはは、冗談だよ。──けど、お前がそんな顔をしてるってことは、エリアーナちゃん絡みか?」


 アレクシスは歩みを止め、俯きがちだった視線を上げた。

 その青灰の瞳に、かすかな痛みと迷いが混じる。


「ほらビンゴ! 愛人……いや、同居人を隠れ蓑にする色男の落ち込みの原因は、ヤンデレなほど溺愛してる奥さん。つまりはエリアーナちゃんだ。アレクが彼女以外の事で悩むなんか滅多に無いからな。どうした、あの可愛い顔でキスでもせがまれたか? ウン?」


 茶化すように揶揄いながら笑顔を向けたカインだが、すぐ真顔にならざるをえなかった。

 アレクシスが、まるで深淵に落ちたような暗い表情をしていたからだ。


「……『離縁』、したいって」


 形の良い唇からぼそりと絞り出された言葉。

 その瞬間、抱えていた書類がわずかに揺れ、紙の端を握る指が白くなる。

 表情のない面差しに隠れてはいるが、長年の友であるカインには、アレクシスが本気で動揺しているとわかる。


「エリーが……離縁したいと言ってる。俺と顔を合わせるのが辛いと。……無理もない、侯爵家側の勝手な言い分で、エリーをジークベルト家に縛り付けているのだから」


「はぁ?!」


 冗談にもならんな、とカインは小さく微笑って額に手をあてる。その微笑みには、アレクシスの不器用な愛情を知るがゆえの、複雑な感情が滲んでいた。


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