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教場の窓際の席で、エリアーナは物憂げに頬杖をつき、心ここにあらずといったふうに窓の外を眺めていた。
いよいよ明日、アレクシスとの結婚生活が終わるかも知れないというのに。目に映るのは、一点の曇りもない晴れやかな青空だけ。
長く伸ばした灰紫の髪は目立たぬよう、後頭部に小さく結っている。変装用の黒縁眼鏡のおかげで、レンズの奥のアメジストの瞳は本来の輝きを抑えられていた。
仕上げは、マーロン叔母さんと暮らしていた頃のくたびれた茶色いワンピース。
ジークベルト侯爵家の嫁とは到底思えぬ、地味な風貌の生徒──エリアーナ・アビス・ジークベルト、通称
明日の休日、いよいよルルが提案した『離縁作戦』を決行する。
── 失敗しても成功しても、どのみち『離縁確定』ってこと!
ルルはそう意気込んでいたけれど、うまくいくのだろうか。
「あと半日、何事もなく過ごせますように」
この魔法学校は、いつ何が起きてもおかしくない魔窟。
街の人々が恐れる悪魔付きや魔導士ですら、この場では日常の風景に溶け込んでいる。
昼休みの鐘の音が鳴り響くと同時に、生徒たちが席を立ちはじめた。
ロッカジオヴィネ学園は、由緒ある古城を学舎として使用している。歴史の重みを感じさせる佇まいは壮麗で、敷地の中央に堂々と聳える煉瓦造りの時計塔は、学園のシンボルだ。
こんなに天気の良い日には、その下の広々とした中庭で昼食をとる生徒も多い。
窓の外に悠然と流れる白い雲を眺めていると、
「エリーっ、ご飯行こーっ!」
聴き慣れた声がして、編み込んだ赤毛を肩に垂らした女生徒が笑顔で駆け寄ってきた。
エリアーナの数少ない友人のひとり、アン・レオノールだ。
「午後を乗り切る気力と体力を養う大事な《お昼休み》に、そんなに深いため息ついてどうしたの?」
おもむろに頬を寄せてきたアンは、歌うように囁いた。
「怖〜いお義母様に叱られた? それとも旦那様の愛人に意地悪されたとか〜?」
「しいっ」
エリアーナは慌てて人差し指を唇にあてる。
「ちがうの。ルルがね、『離縁計画』を立ててくれたんだけど……うまくいくか自信がなくて」
「りえんけいかく〜〜〜!?」
アンの大声に、教場に残っていた生徒たちが一斉にこちらを振り向いた。エリアーナは丸眼鏡の奥の瞳を慌てて伏せる。
「アン……!」
「ごめん、びっくらこいて……つい」
アンは舌を出してえへへと笑う。
エリアーナが学園で唯一心を許せる友人だ。
「そりゃあ離縁したくもなるよ。だって酷い話じゃない? エリーに偽名を使わせて、嫁を通わせてることを隠そうとしてるなんてさ!」
「お義母様はとてもプライドが高い方なの。私のこと、侯爵家の恥さらしだと思っていらっしゃるから……」
「周囲だけじゃなく息子にまで黙ってるなんて、秘密主義も異常レベルだよね」
エリアーナが侯爵家子息の妻であることを知るのは、学園長とアンだけだった。
義母のロザンヌは、一縷の希望を抱いてエリアーナをこの魔術学園に通わせている。
だが『王の眼』の異能が開花しそうな気配は、今のところまったくなかった。
──異能の開花どころか、魔力すら持たない『落ちこぼれ』。体裁を気にされるお義母様にとって、私は……やっぱり恥ずべき存在なんだわ。
「離縁計画かぁ……! こりゃ長くなりそうな話ね? 詳細を聞く前に、まずはダイニングルームで腹ごしらえ。栄養補給の時間は限られてるんだからっ!」
戦闘体制を整え、拳を握りしめたアンは、キリッとした笑顔で踵を返した。
「今日こそ『
*
ダイニングルームのカウンター前には、すでに長蛇の列ができていた。
勇み足のアンに続いてエリアーナも最後尾に並ぶ。
列の
「うわぁ、なんかメニュー増えてる!『月卵のクリームパイ』だって」
「俺はやっぱ、肉一択だな」
「『星屑のパン』って?」
「えっと……魔法窯の内部で星屑の粉を練り込んだ生地を焼き上げ、パンの表面に光る銀の霧が漂う。ふんわりとしてて、口の中で霧みたいにとろける食感が自慢……食べる者の心を静める効果もあるんだってさ」
負けじとエリアーナも、巨大な黒板に書き込まれたメニューと睨めっこする。
魔術学園ならではの不思議な料理の数々はどれも魅力的で、しぼみかけていた食欲がむくむくと蘇ってくる。
「焔薔薇のグリル肉、焔薔薇の……グリル肉……!」
アンは教場を出てからというもの、呪文のようにそればかり繰り返していた。
「アン、それってそんなに美味しいの?」
エリアーナが黒板の一角に目を向けると、丁寧な料理の説明が一品ごとに添えられていた。
『魔法窯の内部に「焔薔薇(炎の属性を持つ魔法植物)」の花びらを敷き詰めて焼き上げるジビエ肉。焼いている最中、肉のまわりを薔薇の炎が舞い、芳醇な香りが移る。皮はカリッと、中はとろけるほどジューシー。 食べた者に一時的な火耐性を与える。』
ただの肉料理ではない。
魔法と薔薇と炎の饗宴──それがアンの狙う「焔薔薇のグリル肉」だ。
「ふふ〜ん、あの匂いだよ? 今学期いちばん人気のメニューなんだから! 美味しいに決まってるってば……って、まだ一度も食べたことないけども!」
「数量限定だもんね。今日はまだ残ってるのかな」
「売り切れてないだけで奇跡だよぅ!」
アンは両手を口元にあて、涙目になって体をくねらせている……。
カウンターの奥には広々とした厨房エリアが広がり、注文越しにトック・ブッランシュをかぶった
──みんな立派な帽子をかぶってるけど、どう見ても白いネズミなのよね。
ふわふわの愛らしい姿に、エリアーナもつい見入ってしまう。
魔法窯から青白くひかる炎が立ち昇る様子、雪ねずみたちがちょこまかと動き回って魔法調理を施す様は、いくら眺めても飽きることがない。
「……焔薔薇、の」
唐突に、アンの
どうしたのだろうと見やると、アンの視線はエリアーナの後方に向けられたまま固まっていた。
「あなたたちも、ジビエ目当て?」
その声に、アンの背筋がぴんと伸びた。
空気が、一瞬で変わる。
ゆっくりと振り返ると、ローズレッドの瞳がこちらを見下ろしていた。いつものように、取り巻きの女生徒二人を従えて。
「ジゼル……」
アンがぐっと言葉を詰まらせて、下を向いたまま口を閉ざす。
同時にエリアーナも、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じた。