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第11話・魔窟にて〜決行前日(1)


* * *




 教場の窓際の席で、エリアーナは物憂げに頬杖をつき、心ここにあらずといったふうに窓の外を眺めていた。


 いよいよ明日、アレクシスとの結婚生活が終わるかも知れないというのに。目に映るのは、一点の曇りもない晴れやかな青空だけ。


 長く伸ばした灰紫の髪は目立たぬよう、後頭部に小さく結っている。変装用の黒縁眼鏡のおかげで、レンズの奥のアメジストの瞳は本来の輝きを抑えられていた。

 仕上げは、マーロン叔母さんと暮らしていた頃のくたびれた茶色いワンピース。


 ジークベルト侯爵家の嫁とは到底思えぬ、地味な風貌の生徒──エリアーナ・アビス・ジークベルト、通称は小さく溜息を吐いた。


 明日の休日、いよいよルルが提案した『離縁作戦』を決行する。


 ── 失敗しても成功しても、どのみち『離縁確定』ってこと!

 ルルはそう意気込んでいたけれど、うまくいくのだろうか。


「あと半日、何事もなく過ごせますように」


 この魔法学校は、いつ何が起きてもおかしくない魔窟。

 街の人々が恐れる悪魔付きや魔導士ですら、この場では日常の風景に溶け込んでいる。


 昼休みの鐘の音が鳴り響くと同時に、生徒たちが席を立ちはじめた。

 ロッカジオヴィネ学園は、由緒ある古城を学舎として使用している。歴史の重みを感じさせる佇まいは壮麗で、敷地の中央に堂々と聳える煉瓦造りの時計塔は、学園のシンボルだ。

 こんなに天気の良い日には、その下の広々とした中庭で昼食をとる生徒も多い。


 窓の外に悠然と流れる白い雲を眺めていると、


「エリーっ、ご飯行こーっ!」


 聴き慣れた声がして、編み込んだ赤毛を肩に垂らした女生徒が笑顔で駆け寄ってきた。

 エリアーナの数少ない友人のひとり、アン・レオノールだ。


「午後を乗り切る気力と体力を養う大事な《お昼休み》に、そんなに深いため息ついてどうしたの?」


 おもむろに頬を寄せてきたアンは、歌うように囁いた。


「怖〜いお義母様に叱られた? それとも旦那様の愛人に意地悪されたとか〜?」


「しいっ」

 エリアーナは慌てて人差し指を唇にあてる。


「ちがうの。ルルがね、『離縁計画』を立ててくれたんだけど……うまくいくか自信がなくて」


「りえんけいかく〜〜〜!?」


 アンの大声に、教場に残っていた生徒たちが一斉にこちらを振り向いた。エリアーナは丸眼鏡の奥の瞳を慌てて伏せる。


「アン……!」

「ごめん、びっくらこいて……つい」


 アンは舌を出してえへへと笑う。

 エリアーナが学園で唯一心を許せる友人だ。


「そりゃあ離縁したくもなるよ。だって酷い話じゃない? エリーに偽名を使わせて、嫁を通わせてることを隠そうとしてるなんてさ!」


「お義母様はとてもプライドが高い方なの。私のこと、侯爵家の恥さらしだと思っていらっしゃるから……」

「周囲だけじゃなく息子にまで黙ってるなんて、秘密主義も異常レベルだよね」


 エリアーナが侯爵家子息の妻であることを知るのは、学園長とアンだけだった。

 義母のロザンヌは、一縷の希望を抱いてエリアーナをこの魔術学園に通わせている。

 だが『王の眼』の異能が開花しそうな気配は、今のところまったくなかった。


 ──異能の開花どころか、魔力すら持たない『落ちこぼれ』。体裁を気にされるお義母様にとって、私は……やっぱり恥ずべき存在なんだわ。


「離縁計画かぁ……! こりゃ長くなりそうな話ね? 詳細を聞く前に、まずはダイニングルームで腹ごしらえ。栄養補給の時間は限られてるんだからっ!」


 戦闘体制を整え、拳を握りしめたアンは、キリッとした笑顔で踵を返した。


「今日こそ『焔薔薇ほむらばらのグリル肉』を勝ち取るんだから〜〜!」




 *




 ダイニングルームのカウンター前には、すでに長蛇の列ができていた。

 勇み足のアンに続いてエリアーナも最後尾に並ぶ。

 列の直中ただなかにいる生徒たちは、黒板に書かれたメニューの物色に忙しい。


「うわぁ、なんかメニュー増えてる!『月卵のクリームパイ』だって」

「俺はやっぱ、肉一択だな」

「『星屑のパン』って?」

「えっと……魔法窯の内部で星屑の粉を練り込んだ生地を焼き上げ、パンの表面に光る銀の霧が漂う。ふんわりとしてて、口の中で霧みたいにとろける食感が自慢……食べる者の心を静める効果もあるんだってさ」


 負けじとエリアーナも、巨大な黒板に書き込まれたメニューと睨めっこする。

 魔術学園ならではの不思議な料理の数々はどれも魅力的で、しぼみかけていた食欲がむくむくと蘇ってくる。


「焔薔薇のグリル肉、焔薔薇の……グリル肉……!」


 アンは教場を出てからというもの、呪文のようにそればかり繰り返していた。


「アン、それってそんなに美味しいの?」


 エリアーナが黒板の一角に目を向けると、丁寧な料理の説明が一品ごとに添えられていた。


『魔法窯の内部に「焔薔薇(炎の属性を持つ魔法植物)」の花びらを敷き詰めて焼き上げるジビエ肉。焼いている最中、肉のまわりを薔薇の炎が舞い、芳醇な香りが移る。皮はカリッと、中はとろけるほどジューシー。 食べた者に一時的な火耐性を与える。』


 ただの肉料理ではない。

 魔法と薔薇と炎の饗宴──それがアンの狙う「焔薔薇のグリル肉」だ。


「ふふ〜ん、あの匂いだよ? 今学期いちばん人気のメニューなんだから! 美味しいに決まってるってば……って、まだ一度も食べたことないけども!」

「数量限定だもんね。今日はまだ残ってるのかな」

「売り切れてないだけで奇跡だよぅ!」


 アンは両手を口元にあて、涙目になって体をくねらせている……。


 カウンターの奥には広々とした厨房エリアが広がり、注文越しにトック・ブッランシュをかぶったたちの華麗なる調理風景を眺めることができる。


 ──みんな立派な帽子をかぶってるけど、どう見ても白いネズミなのよね。


 ふわふわの愛らしい姿に、エリアーナもつい見入ってしまう。

 魔法窯から青白くひかる炎が立ち昇る様子、雪ねずみたちがちょこまかと動き回って魔法調理を施す様は、いくら眺めても飽きることがない。


「……焔薔薇、の」


 唐突に、アンのが止まった。

 どうしたのだろうと見やると、アンの視線はエリアーナの後方に向けられたまま固まっていた。


「あなたたちも、ジビエ目当て?」


 その声に、アンの背筋がぴんと伸びた。

 空気が、一瞬で変わる。


 ゆっくりと振り返ると、ローズレッドの瞳がこちらを見下ろしていた。いつものように、取り巻きの女生徒二人を従えて。


「ジゼル……」


 アンがぐっと言葉を詰まらせて、下を向いたまま口を閉ざす。

 同時にエリアーナも、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じた。


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