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第13話・無能嫁は離縁がしたい


 * * *



「いくわよ……ルルっ」


 まだ暗いうちから起き出して、手早く着替えを済ませたエリアーナは、気持ちを震い立たせるようにワンピースの袖をまくった。


 今日は土曜日。

 作戦の実行を決めてから二度目の休日がやってきた。


 義理の両親が昨夜から友人宅に泊まっており、屋敷に戻るのは夕刻になるはず。

 アレクシスも休日は愛人と離れにこもるのが常だ。


 真新しいエプロンは、いつか夫のために料理を作るかもしれないと持参していたもの。その右側のポケットにはが入っている。


(ねぇ……エリー! チャンスは一度きり。準備はばんたん? 思い残すことはない?!)


 エリアーナに負けず興奮ぎみのルルがポケットの中で揺れている。

 急がなければ。

 使用人たちはすでに朝の掃除を始めているはずだ。


 中庭を囲む回廊を、足早に歩く。

 山際から顔を出しはじめた太陽が、木々の隙間から細長い光の剣を差し込んでいた。


 まだ六時にもなっていないのに。

 厨房付きならともかく、すべてのメイドが早朝から働いている。夜は義母が就寝するまで帰れないらしい。


 ──住み込みとはいえ、過酷すぎる……。


 エリアーナはずっと、ジークベルト家の使用人たちが強いられている労働環境に胸を痛めていた。


「やだ、私ったらっ」

(え、なに、どうしたの?)

「お裁縫さいほう道具、忘れてきちゃった……!」


 くるりと踵を返し、部屋にあらかじめ準備しておいた鞄の中身を取りに戻る。


(もう〜、相変わらずおっちょこちょいなんだから)


 幸い、義母から自由に使える資金はそれなりに与えられていた。

 侯爵家の奥方として恥ずかしくないよう、見栄えを整えるための費用として(使い道はなかったけれど)。

 その予算を活かして二週間、作戦に必要なものを少しずつ集めてきたのだった。


 ──ドレスを買うわけでもないのに、けっこうなお金を使っちゃった。失敗はできない……!


 再び廊下に出ると、床を掃いている数人のメイドの姿が見える。


 ──まず、あの人たちから。


「おはようございます!」


 少し強めの声で呼びかけると、驚いたように数人のお団子頭がこちらを向いた。間髪かんぱつを入れずに整列しようと動き出す。


「おはようございます、若奥様」


 ──突然の声かけでもだもの。お義母様のしつけの厳しさが窺えるわ。


 エリアーナは手にした大きな鞄を床に置き、うさぎの入ったポケットの反対側から、紙とペンを取り出す。


「お仕事中にごめんなさい。あなたたちに、ちょっと聞きたいことがあるの」


 人形のように無表情で働いていた彼女たちが、困ったように顔を見合わせる。その人間らしい反応に、エリアーナは少しだけほっとした。


 エリアーナは、その後も出会ったメイドたち一人ひとりに同じ質問を繰り返していく。

 みな最初は戸惑いながらも、丁寧に答えてくれたのだった。



 *



 次に向かったのは、義母がしばしば大切な友人たちを招く『宴の間』だった。

 マホガニー製の重厚な双扉には、繊細で華やかな彫刻が施されている。その双扉を、エリアーナはゆっくりと、左右一枚ずつ開け放った。


 広々とした空間の中は、分厚いカーテンに覆われていて薄暗い。

 ほんの一瞬だが──義母が激怒する顔が浮かんで、ぞくりと背中が粟だった。


「ルル……ほんとに、大丈夫かしら?」


(いまさら何言ってるの。ここは絶対、外せないでしょ?)


 心の揺らぎを断ち切るように、エリアーナは奥歯をかみしめる。


 ──お義母様。

 大切なお部屋に入ってごめんなさい。

 勝手な事をして、ごめんなさい。


(エリーってば! いちいち誤ってる場合じゃないよ。ロザンヌ様が大切にしているお部屋だからこそ、気合い入れていかなきゃ!)


 ポケットの中でうさぎが身をよじるように動く。


「わかってるけど……。誰だって、大事なものに触れられるのは嫌でしょう?」


(そうだよ、その通り! それを逆手に取るのが、この作戦なんだから!)


 ──そうだった。ルルの言う通り。

 これは、離縁へと持ち込むための一世一代の作戦だ。


「私ひとりじゃとても無理だから……すけを呼んであるの。もうそろそろ、お屋敷に着く頃だけど……」


(えっ?! 誰なの、助っ人って?!)


「それが……っ」


 答えにくいのか、エリアーナが視線を迷わせる。


「すぐにわかるわ」


 ルルの作戦を実行するには、エリアーナひとりでは限界があった。だからこそ屋敷の人間たちからこっそり情報を集めながら、この二週間、準備を積み重ねてきたのだ。


 ──こうなったら、もう引き返せない!


 義母が大切にしている骨董品の数々が、鈍く沈んだ光を放っている。

 その中央、存在感を放つ甲冑に、エリアーナはじっと目を向けた。


 怯える自分に言い聞かせるように、静かに息を吸い込む。

 エリアーナの華奢な背中には、確かな決意が宿っていた。


 ──大丈夫、できる。やらなくちゃ。

 私自身のため……そしてきっと、あの人のためにも。



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