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第14話・アビス一族の『眼』


 * * *



 侯爵家の女主人、ロザンヌ・ローレン・ジークベルトは上機嫌だった。


 自邸へ向かう馬車は軽快に進み、馬の蹄の音が耳に心地よい。

 落ちかけた夕陽が木々に鮮やかな光の筋を投げかけ、全てをオレンジ色に染め上げていた。


 向かいの席には、老齢に近い夫が気持ち良さげに船を漕いでいる。

 昨夜は無理をして、久方ぶりに夫婦でダンスなど踊ったからか、まだ疲れが残っているのだろう。


 ──最後にロナウドと踊ったのは、いつだったかしら。


 昨夜は、実に素晴らしい夜だった。

 旧友の屋敷に招かれ、洗練された美食と会話を楽しんだあと、促されるままに夫婦のダンスを披露したのだ。


 若かりし頃は、晩餐の席でワイングラスを片手に、夫とチークダンスを楽しんだものだった。

 夫婦の息はぴったりで、曲の終わりには必ず甘い口づけを交わす。そんな幸福な決まりごとも、今では遠い昔のこと。


 ──わたくしたち、まだ踊る感覚を忘れていなかったようね。


 邸を出るまで、高揚感が胸にくすぶっていた。

 久しぶりに「愉しい」と心から思える時間だった。


 ──ええ、ええ。

 心穏やかでない日々は、あの嫁……エリアーナのせい。


 わたくしがあのを推したのは、異能持ちの血を引いていたから。

 それだけが理由。家門にとって有益だと思ったまで。

 でなければ、侯爵家を継ぐ息子にあのような娘を嫁がせるはずがない。


 ──あの娘に異能がなかったなら、身分の確かな令嬢と結婚させるべきだった。


 苛立ちが募りかけ、ロザンヌは自らを戒める。


 ──せっかくのすばらしい余韻が台無しになるわ。今日ばかりは、余計なことを考えるのはやめましょう。


 車軸が石を踏み、馬車がぐらりと跳ねた。

 その衝撃で、微睡まどろんでいた夫が目を覚まし、若き日の面影を残す精悍な顔に一瞬だけ光が宿る。


「ふむ……。眠ってしまったようだ」

「ええ。もうすぐ屋敷に着きますわ」

「……どうした?」

「何がですの」

「不機嫌な顔をしている」

「あらそうかしら」


 愛している。その夫が笑顔を向けて来る。

 それだけで……苛立ちがなごみ、気に入らない嫁のことにも寛容になれてしまうのだから、不思議なものだ。


 ロザンヌは、茜色に染まる山の端に目を細めた。


 ──まあ良いわ。今はまだ、大目に見てあげましょう。

 名門のロッカジオヴィネ学園に通わせているのだし、何かのきっかけで異能が目覚めるかもしれない。


 エリアーナの母親は、国王陛下に仕えていた『国王の』。

 嘘偽りを見抜くアビス一族のは、「国の宝」とまで言われる。

 彼らの前では、誰もが正直にならざるを得ない。


 不正や腐敗を暴くその力があれば、反逆や陰謀を未然に防ぐこともできる。

 家臣の忠誠を疑う必要もなくなる。国の安寧を保つためには、極めて有用な力だ。


 ──アビスの血を引く娘が縁談にあがったあのときは、歓喜に震えたわ。


 エリアーナとアレクシスの間に子が生まれれば、『王の眼』の血がジークベルト家にも流れる。

 ジークベルト侯爵家が、あの力を《持続的に》有するようになる──これほどの栄誉が他にあろうか。


「……あれは?」


 夫のひと声に我に返る。

 馬車はすでに広大な屋敷の敷地内に入っていた。


 馬車受けには、見慣れない馬車や荷車が列をなしている。

 どれも簡素な造りで、貴族のものではなさそうだ。

 その間を縫うように進み、ロザンヌたちの馬車は屋敷の入り口から少し離れた場所に停まった。


 異様な状況をいぶかしみながら馬車を降りると、夫が息を呑んだ。


「ロザンヌ、見よ……あれは、そなたの……」


 見覚えのあるものを、自分の馬車に運ぶいかつい男がいる。


「……まさか。ビーナスの彫像ですわ!?」


 名だたる彫刻家が彫った貴重な美術品で、ロザンヌがうっとりと眺めながら日々の癒しを得ているものだ。


「そこのあなたっ、それをどこに持っていくつもりですの!」


 女性の裸体の彫像をかついだ男が「あァ?」と、間延びした声を漏らした。


「だから、それを……どこへ持っていくつもりだと聞いているのです」

「へい? 俺の馬車っすけど」

「あなたの……馬車!? 一体、どういう……」

「さぁ? なんか言われたんスよね、これもう《要らねぇ》から運び出せって。ガラクタなんじゃないスか?」


「ガラ、ク……大切な家宝を……。要らないなどと、誰がそんな事を言ったのですか!」


 見れば、屋敷からから次々と家具や調度品が運び出されてくるではないか。


 ぽかんと開いた口が塞がらない。

 ロザンヌは、何が起こっているのかわからず立ちすくむ。


「あれも、そなたの気に入りの……」


 夫が、額に冷や汗を滲ませながら指を差す。

 今度は別のヒゲづらの男が、四角い大きなものを運んできた。


「は……はすの絵画ですわ……」


 ロザンヌの顔から、色がすぅっと引いていった。



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