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第17話・手を差し伸べるもの



「使用人たちを解雇する代わりに──エリアーナ。わたくしが不在の間に許可なく屋敷を改造し、使用人たちをだましたあなたに相応の『罰』を与えます。この屋敷で、自分のしたことの罪深さを思い知るがいい」


(なんだって?! 嘘でしょっっ!! どうしよう、エリー。やばいじゃん……)


 見えないけれど、ポケットの中のうさぎが声をあげて項垂うなだれたのがわかる。


「離縁など……させるものですか」


 呟いたロザンの唇が、嘲るように捲れ上がった。

 エリアーナにとって、それはまるで裁判にかけられた囚人が終身刑を言い渡されたのと同じだ。

 つい先ほどまで大きく膨らんでいた希望と意気込みが、針で突かれた風船のようにしぼんでいく。


 ──覚悟はしていたけれど……やっぱり簡単じゃなかった。


 ぎろりと睨め付けるロザンヌの鬼の形相が、エリアーナの落胆に追い打ちをかける。離縁が許されないのなら、待ち受けるのは最悪の未来だろう。


 ──生意気なこの嫁に、どんな酷い罰を与えてやろうか……!


 消沈してぺたんと床に膝をついてしまったエリアーナに、ロザンヌが突き刺すような眼差しを向けた、その時。


「これは何の騒ぎですか、母上」


 てついた空気を切り裂くように、艶のある青年の声が『宴の間』に響いた。

 いつからそこに立っていたのか。

 腕を組み、開け放された双扉に背を預ける美丈夫がこちらを見据えている。夕陽の光が、彼の背後に長い影を落としていた。


「アレクシス……!」

「騙すだとか、相応の『罰』だとか。穏やかではないですね。は、いったい何をして、あなたをそんなに怒らせたのですか」


 その場にいる誰もが息を呑むなか、アレクシスはホールに進み、床に崩れ落ちたエリアーナの前に立つ。

 青灰の眼差しが、静かに彼女を見下ろした。


「見ればわかるでしょう? この惨状を! この娘のせいで無惨にも破壊された、哀れな屋敷を!」


 アレクシスは表情を変えぬまま、すっと手を差し出す。

 意図を測りかねてためらっていると──。


「……ほら、立って」


 その声は、意外すぎるほど柔らかだった。

 おそるおそる伸ばした指先を、彼は迷いなく掴んで引き上げる。

 隣に立たされた後もその手は離れない。包まれた指先から、温もりが伝わってくる。


「哀れ……とは? 私はこの屋敷が、無惨に破壊されたとは思いませんよ。むしろおりが抜けたようだ。何十年も埃に塗れた古臭い物が一掃された。それに……嫌いじゃないですよ、この感じ。色使いのセンスも悪くない」


 アレクシスは目を細め、夕陽に染まる『宴の間』をゆるやかに見渡した。

 橙色とうしょくの光が真新しい壁や床をやわらかく包む。

 涼やかな風がカーテンを揺らし、頬をかすめていった。


 ──理解が追いつかない……っ


 場違いにも、ときめいてしまう自分に戸惑った。

 エリアーナが知る八年前とは違う。

 凛々しいその手は大きくて力強く、大人の男性らしい骨格だが、長い指先は滑らかで繊細だ。

 触れているだけで、鼓動が速まり、胸が締めつけられる。


 アレクシスとの『離縁計画』。

 エリアーナだって、いい加減な気持ちで進めたわけではない。

 著名なデザイナーと打ち合わせを重ね、細部まで配慮して改装を施したのだ。


 ──美術品も貸し倉庫に運んでもらっただけ。壁紙も気に入らなければ元に戻せる。だけど……あの薔薇の花瓶だけは、もう戻らない。


 途端に怖くなって、わなわなと身体が震えた。

 その不安を察したのだろうか。

 アレクシスはエリアーナを一瞥すると、手のひらに力を込めた。「大丈夫だ」と、無言で伝えるように。


「見たところ、改装されたのは屋敷の一部のようです。妻には責任を持って全館を改装させましょう。母上、問題ありませんね?」


 ロザンヌは口を開きかけたが──言葉を飲み込んだ。

 実の息子でも、少侯爵である彼には逆らえない。唇を噛み、悔しげに目を細める。


「……あなたがそう言うのなら」


「改装の仕上がりはともかく、当主の許可なく妻が勝手に行動したのは事実です。母上が憤るのも無理はありません。ですが、今回の『処罰』は夫である私に預けていただけませんか」


 返答を待たず、アレクシスはエリアーナの手を強く引いた。

 呆気に取られて周囲が固まる。

 しかし誰よりも驚いていたのは──他ならぬエリアーナだ。


 ──庇ってくれたのだと思った。

 けれど『処罰を預かる』とは、つまり……旦那様に、罰せられるということ?


 銀糸の刺繍が光る大きな背中は、一度も振り返らずに廊下の奥へと歩を進める。

 早足に連れられながら、エリアーナは声を震わせた。


「あの……旦那様、これからどちらへ……?」


 ようやく振り返ったアレクシスの口元が、僅かにかに緩んだ。


「君の《罰》を執行する場所へ、だ」


 耳に落ちた、低い声の余韻。

 温もりを宿した手のひらとは裏腹に、声色は冷ややかに響いた。


「……っ」


 廊下の奥は水の底のような暗闇に沈み、二つの足音と心臓の鼓動だけが、静寂の中でやけに大きく感じる。


 その《罰》が何を意味するのかも知らないまま──。

 エリアーナは、屋敷の奥へと連れ去られたのだった。


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