通りがかりの部屋の前で、ふと歩みが止まった。
おかげで、アレクシスの背中に額をぶつけそうになる。
驚いて見上げれば、肩越しに振り返ったアレクシスが「シッ…」と口元に人差し指をあてている。
そのまま静かに廊下を進むと、踊り場の先の広間から和やかな談笑が漏れ聞こえてきた。
扉の陰から覗くと、陽の光がやわらかく差し込む部屋に、三人のメイドが床に座っている。
窓辺から日向の匂いを含んだ心地よい風がふわりと流れ込み、針が布を抜ける小さな音が安らぎのように部屋を満たしていた。
「
「あっ、はい。タッセルに飾りを付けてもらっているんです」
膝の上には作りかけのリボンとタッセルが乗っていて。
チクチクと縫い針を動かす指先は小気味が良く、与えられた仕事を心から楽しんでいるようだった。
「……なるほど」
繋いだ手をまた引っぱられ、否応なしに長身の背中を追う。
かなりの身長差があるせいで歩調が合わず、小走りになるのが妙にくすぐったい。
やがて廊下の奥、見知らぬ扉の前で足が止まった。
振り返ったアレクシスの眼差しには、笑みとも冷徹さともつかぬ色が宿る。
──この部屋で、『罰』を与えられるの?
昨日までの夫の冷たい態度を思うと、心が縮んだ。
繋いだ手のひらは、こんなにあたたかいのに。
室内に入ると、書卓と肘掛け椅子の正面、壁一面の棚に整然と並ぶ本の数に圧倒された。
「私の執務室だ」
短く告げられ、視線を落とすと──まだ、手が繋がれたままだった。
「あの……」
見上げると、アレクシスは「何だ?」と言いたげに眉をひそめる。
「
繋がれたままの手に視線を落とせば、一瞬だけ見開かれた青灰の瞳が慌てたふうに揺れた。
五本の長い指がふっと
その一瞬、ほんのわずかに、手放すのを惜しんだようにも見えた。
──今のは……錯覚?
アレクシスは背中に手を回し、きょとんと見上げるエリアーナからそっと目を逸らす。
「特に意味は無い……離すのを、忘れていただけだ」
「そっ、そうですよね」
──旦那様には、私と手を繋ぐことなんて何の意味も無いってわかっています。でも私は……。離れてしまうのが寂しいと思ってしまう。
「座って待っていろ」
視線で促され、二人掛けのスツールに浅く腰を下ろした。
書卓脇に立つ背高いアレクシスの立ち居振る舞いは洗練されていて、つい見とれてしまう。
柔らかそうな薄灰の髪色も、彼が好む白っぽい上着によく映えていた。
引き出しから
「使用人たちの意見書だ。ほぼ全員分が揃っている。君に預けるから目を通しておけ」
きちんと紐留めされた厚みのある書類の束が差し出される。
「君は屋敷の改善を訴えていたな。母上への説得は私がする。君は女主人として屋敷の全般的な改善をする──これが、君への『罰』だ」
エリアーナの丸い目が見開かれた……罵られる覚悟をしていたのに、胸の奥がじわりと熱くなる。
離縁は叶わなかったけれど、肩身の狭い立場で責任ある役割を与えられるとは思っていなかった。
「君が指示した作業をするメイドたちの表情には、血が通っていた。あんな彼らを見たのは初めてだ」
アレクシスの冷徹な眼差しに、一縷の和やかさが灯った気がして。エリアーナは瞬いた。
「ただし──改装を最後まで終えること、そして労働条件の改善案を示し、君自身で母上を納得させることも含まれる」
「はい……精一杯、やってみます!」
エリアーナは瞳を輝かせ、手渡された書類をそっと胸に抱く。
その様子を、アレクシスは無表情のまま見つめていた。
エプロンのポケットがふん、と鼻を鳴らす。
(最悪じゃん。離縁どころかロザンヌ様の説得? そんなの無理に決まってる!)
エリアーナは心の中で呟いた。
──ルル、お願い……今は黙っていて。
こんな自分にも出来ることがあるかも知れない。
そう思えただけで、この屋敷にいる意味が生まれる気がした。
(ふん……見ものだね。成功したら奇跡、失敗したら笑い話だ)
思いがけない『罰』にエリアーナは頬を緩ませたが、アレクシスは冷淡な眼差しを崩さない。
「それと……明日は休日だな?」
「はい、
「なら別件だ」
と、アレクシスは続ける。
「グリムロック。君もその名くらいは知っているな」
「はっ、はい……勿論です。王都を騒がせている、あのテロ集団ですよね?」
「奴らのアジトの一つを暴いた。だが確証を得るため、国王陛下直々に視察を命じられた」
「こっ、国王陛下に……?!」
「現国王は私の学友だ。旧友のよしみで、厄介ごとはすぐ私に押しつける。今回もその一つだ」
「陛下が、ご学友だったなんて」
アストリア王国の前国王は数年前に崩御し、二十三歳の王太子が王位を継いでいる。
「でもっ……そんな危険な場所に、旦那様が赴かれるのですか?!」
「そう案じるな。視察だけだ」
アレクシスの言葉に少しの温度が混じる。
尚も不安を拭えずにいると。
「……一緒に来て欲しい」
つぶやくような低い声。
続いた言葉は、思いもよらぬものだった。
「私の妻として」
胸の奥に落ちるまでに一瞬の沈黙があった。
戸惑いと理由の知れない温もりが込み上げて、脈がゆっくりと速まっていく。
エリアーナを見つめるアレクシスの瞳が、わずかに揺れた気がした。
これは《命令》なのだろうか。
けれど切ない懇願のようにも聞こえて──胸の奥がじんわり熱くなる。
「勿論、君を危険には晒さない」
力強い言葉が静かに反響し、心の輪郭をやわらかく撫でていく。
気付けば、頬が淡く色付いていた。
それが恐怖心からなのか、別の感情からなのか、自分でもわからない。
「あ……あの……っ」
──社交の場ならまだしも、テロリストのアジトと《私の妻として》は、どう関係が……?
答えを求めて口を開きかけた瞬間、アレクシスは書卓を指先で軽く叩き、すっと立ち上がった。
「詳しい話は、明日道中で」
言い含めたまま扉へと向かう背中は落ち着かず、どこか急いているように見えた。
──明日。旦那様の隣で、危険な場所の視察に……?
いい知れぬ不安と、胸奥で高鳴る期待がせめぎ合う。
その答えが見つけられぬまま──
エリアーナは、書類をぎゅっと抱きしめた。