* * *
格子状の大きな窓から燦々と光が降り注ぎ、玄関ホールへと続く廊下は眩しいほどに明るかった。
約束の十時には、まだ少し間がある。
──疲れていたはずなのに、気持ちが昂ぶって眠れなかった。
向かうのは、テロ集団のアジト。
錆びた鉄の匂い、物騒な武器、麻薬……。
危険は及ばぬとは聞いたものの、どうしても荒々しい光景ばかりが頭をよぎる。
薄いブルーのワンピースは、エリアーナが唯一新調したもの。
どんな服がふさわしいのか悩み抜いたが、《アレクシスの妻として》着られそうなのは、これだけだった。
「夫婦を装いたいのなら、アルマ様に頼めば……」
小さな皮肉をつぶやいてみる。
けれどあの真摯な眼差しを思い出すと、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
「行ってらっしゃいませ、若奥様」
メイドたちの列に見送られ、扉をくぐる。
彼女たちは明け方から働き詰めのはずなのに、疲れを見せぬ無機質さ。
エリアーナは両手の拳を握りしめる。
──労働環境の改善、必ずやり遂げます……!
それに、屋敷にいる意味を与えてくれたアレクシスを、これ以上失望させたくなかった。
──旦那様の手、あたたかかった。
触れ合った感触を思い出すと、胸の奥が甘く痛む。
「馬車は、どこに?」
正面玄関前は閑散と静かだ。
庭先を見渡していると、裏庭から軽快な蹄の音が届く。
銀色のタテガミを靡かせた白馬が、見る間に視界を占領した。
「遅れてすまない!」
白薔薇を背負うように華々しく現れたのは、アレクシス。
腰元に携えた銀の長剣には王国の紋章が煌めき、白地に濃紺の刺繍をあしらった騎士服が、彼の凛々しさを際立たせていた。
視線が一瞬だけエリアーナを捉え、端正な顔にかすかな笑みが灯る。彼は馬を降りると、手袋をはめた手を差し伸べた。
「家紋入りの馬車は使えない。馬に乗るのは平気か?」
「え……ぁ、はい、大丈夫です」
──たぶん……っ。
恐る恐る足をかけようとした瞬間、不意に後ろから抱き上げられる。
驚く暇もなく横座りになったエリアーナの身体を、アレクシスの腕が包み込んだ。
「ゆっくり走る。俺に捕まっていろ」
香水のほのかな薫りも、背中から伝わる体温も。
エリアーナの鼓動を轟かせるのに十分すぎた。
横座りのまま、騎士服の腰に手を回す。
凛々しい腕が手綱を操るたび、包まれている感覚が増して胸がざわめく──鼓動が耳の奥まで響くほどに。
「……っ」
──私の心臓、アジトに着くまで持つかしら。
それに旦那様……今、『俺』って?
少しは気持ちを許してくれたのだろうか。
問いただす代わりに頬を染め、アレクシスの胸にそっと顔を寄せた。
*
休日の王都は人で溢れ、街道には露店が並び活気に満ち溢れていた。
外出を許されないエリアーナには物珍しく、目を輝かせながら街の様子を眺めた。
「見て、白薔薇の騎士様……!」
「ご結婚されたって、あの方が奥様?!」
女性たちの羨望と嫉妬の眼差しを、エリアーナは気付かない。
愛馬を厩に預けると、アレクシスが言った。
「行きつけの店で昼食を済ませよう」
「外で食事を……嬉しいです! 私、外食は初めてで」
「そう、なのか?」
エリアーナが小さく頷く。
「私が育った町は田舎で、宿屋と居酒屋しかありませんでしたから」
にっこり微笑む彼女は、野花のように可憐で──。
視線を絡ませたまま、薄く紅を差した唇が僅かに開く。
──エリーが、可愛い。
「……期待はするなよ。ただの食堂だ」
頬に昇った熱を隠すように、顔をそらせるアレクシス。
──洒落た店にすべきだった。
思う存分、美味いものを食べさせてやりたい。
いつかエリーと……近づけたなら。
そんな想いを知らず、エリアーナは胸の奥で別の不安を抱えていた。
アレクシスはそれ以上言葉を発さず、遠い目をして人波の向こうを見つめている。
その横顔は綺麗だけれど……彫像のように感情を映さない。
──旦那様と食事ができるのは嬉しい。
でも……いつもの調子で不機嫌な顔をされたら、味わう前に心が折れてしまいそう……っ。
不意に向けられる、短くも柔らかなアレクシスの視線が嬉しい。
こんな事は初めてで……。
胸の奥に小さな温もりの波紋が広がるのを感じながらも、エリアーナはそっと息を詰めたのだった。