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第20話・互いの心はつゆ知らず


 *



 明るい窓際の一席に、暇を持て余した女性店員たちの視線が集まっていた。

 正午までまだ間のあるこの時間、簡素な定食屋はさほど混んでいない。


「……このお店、よく来られるのですか?」

「仕事のついでに、騎士仲間たちと立ち寄るくらいだが」


 アレクシスが店に踏み入った瞬間、かしましいほどの歓迎ムードに包まれた。

 だがエリアーナが続いて入った途端、空気はしんと鎮まりかえる。


 ──この温度差は、何?


 年嵩の店員に案内され、席に着けば。

 厨房の奥からも、好奇の視線が何本も突き刺さってくるようだった。


「騎士様っ、いらっしゃいませ! 今日は何になさいます?」


 満面の笑顔で駆け寄った若い店員が、水の入ったコップを勢いよく置く。 好奇の視線がちらちらと掠め、居心地が悪い。


「前に来た時、君が勧めてくれた日替わりが中々良かった。今日のメインは?」

「牛の臓物煮です。香辛料たっぷりで美味しいですよ〜。覚えてくれてたの嬉しいから、サービスしちゃいます!」


「有難い。私はそれで」

 と、アレクシスは意図的に笑顔を作る。


「お連れのかたにも同じものを?」


 ──牛の、ぞ、臓物、煮……っ?!


 グロテスクな料理を想像して、エリアーナが青ざめていると。


「そうだな……メインを変えられるか? 妻は臓物を食さないので」

「お、奥方様でしたか! 若くて可愛いから、てっきり恋人かと……失礼しました。それなら奥方様、鶏肉の煮込みはいかがです?」


 アレクシスの言葉に、胸が揺れる。

 臓物は好まないと、どうして知っているのだろう……?


「エリアーナ。それなら食べられそうか?」


 ──名前を呼ばれた……っ


 艶めいた声が胸のなかで反芻し、眩暈がしそうだ。自然と頬が熱くなり、言葉がうまく出てこない。


「はっ、はい……大丈夫です!」


 そうか、と頷く美貌の夫が、わずかに微笑んだ……気がした。


「少食だから、盛り付けを少なめにしてやってくれ」


 店員が下がるや否や、待ち構えていたように別の女性店員たちが集まってくる。


「騎士様が女性を連れて来るなんて、びっくりです」

「二人で食事だなんて仲良し……!」

「こんなに綺麗な奥様なら、そりゃあ連れて歩きたくなりますよね〜」


 エリアーナはこういう会話が苦手だ。

 「綺麗」という言葉は、社交の場ではただの飾りだと知っている。

 変わってアレクシスが朗らかに応じた。


「そう言えば店主の具合は? 肺の病を患ったと聞いて、同僚たちと案じていたんだ。この店が無くなったら困るからな」

「それがぁ! ただの咳風邪で……」

「本当よ〜。あと百年は生きるわよ、あの爺さん!」


 店員たちと話すアレクシスは饒舌で、笑い声が飛び交う風景はどこか遠く感じられた。


 ──旦那様、あんなふうに笑うんだ……。


 けれど客の入店で店員たちが散ると、アレクシスは表情を固めてしまう。

 腕を組み、感情を閉ざしたように宙を見つめている。


 食事が運ばれてきても、仏頂面は変わらないままで。

 期待していた温かい空気は、あっけなく遠のいていった。


「あの……」


 勇気を出して声を掛けると、視線だけがこちらを掠める。


「お、美味しい、です」


 それしか言えなかった。

 自分だけが壁の外にいるようで、息苦しい。


「それは良かった」

 短い言葉とともに、視線はまた逸らされる。


 ──旦那様が冷たいのは、やっぱり、私だけ……。


 いっそ牛の臓物を強要されれば良かった。

 その場しのぎの気遣いや優しさなら……要らなかったのに。


 悲しさが込み上げて俯いた。

 味がしない料理を黙々と食べる。

 アレクシスが、そんな彼女を見つめていたことにも気づかずに──。


 支払いのため席を立った彼の背を追う前に、食器を下げに来た店員がそっと囁く。


「奥様が羨ましいって、みんな言ってます。騎士様に、すっごく愛されてますよね!」

「……ぇ……?」


 思わず息を詰めた。

 愛されている……?

 あり得ない。


「いいえ……逆です。私は旦那様に疎まれていますから」

「疎まれてるって、そんな。だって──」

「とても美味しかったと、シェフにお礼を。ごめんなさい、もう行かなくちゃ」


 急く足取りで店を出た。

 目頭にじんわり熱いものが込み上げる。


 空になった席で、店員が小さく呟いた。

「騎士様、あんなに微笑んで見てたのに……?」


 けれど、その声はもうエリアーナには届かない。


 扉の向こうには木漏れ日が揺れている。

 アレクシスの背を追って駆けていく彼女の胸には、わずかな期待が砕かれた事への複雑な悲しみだけが燻っていた。




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