目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

第21話・それはきっと気のせい


 食堂からさほど離れていない場所に、その商店はあった。

 歩いて五分ほどの距離なのに、エリアーナにはずいぶん遠く感じられた。

 目的の場所に着くまで、アレクシスと一度も言葉を交わさなかったからだ。


 幾度となく横顔を見上げても、美丈夫の視線はまっすぐ行先だけを見据えている。

 一度だけ目が合ったが、慌てたふうに視線を逸らされた。


 ──食事の時もそう。やはり旦那様は、私と目を合わせたくないのですね……。


 エリアーナがそう受け止める一方で、アレクシスはまるで別の感情と戦っていた。

 気を抜けば口元がつい緩んでしまう。

 それを隠すため、無理に顔を背ける。


 ──エリーが……可愛い。


 憂いを帯びた、すがるような瞳で見上げられるたび、胸が軋む。

 遠目でも可憐だが、間近にいる彼女の愛らしさは格別だ。


 特に食事中は危うかった。

 口元が綻びそうになるたび、必死に押さえ込んだ。

 並んで歩く今も不意に視線が重なれば、この想いを悟られるのではと──心臓が落ち着かない。


 歩みながら、アレクシスの意識は半年前の或る日へと遡っていった。


 ──婚約当時、俺は若輩者で、エリーはまだ十歳の少女だった。

 知っていたのは「王の眼を継ぐ者」という肩書きと、政略の駒という事実だけ。


 初めて出会ったのは、王都で催された受剣式典の日。

 木から降りられず困っていた彼女を抱きとめたあの瞬間も、胸の奥で小さな波紋は広がったが──まだ理性で押さえられる程度だった。


 だが、婚礼を間近に控え訪れた我が領地での出来事は、すべてを変えてしまった。


 夕暮れの高原に、バサリと大きな羽音が響く。

 白夜鳥びゃくやちょう──犬狼すら喰らう獰猛な鳥が、彼女の細い腕に舞い降りた。

 巨大なそれを恐れもせず、慈しむように頬を撫でるエリアーナ。


『……怖かったわね。でも、もう大丈夫』


 甘やかな声に応えるように、白い翼がふわりと揺れた。

 その姿は、荒ぶる獣を鎮める女神のようで──目が離せなかった。


 そして、銃口から煙を上げる猟銃を抱えたアレクシスたちに向き直り、毅然と告げた。


『……生きるために命をいただくのとは違う。遊戯としての狩猟なんて、無意味な殺戮に過ぎません。あなたたちは今日、どれほど罪なき命を殺したの……!』


 アレクシスがその場にいた事に気づいていたのかわからない。

 けれどその眼差しは、怒りと悲しみを宿しながら真っすぐに彼を射抜いた。

 政略結婚の相手だった少女が、突如として鮮やかな色を放ち──その瞬間、恋に堕ちた。


 純真無垢でありながら、芯の強さを秘めた彼女。

 柔らかく膨らみかけた花の蕾のように、これから咲き誇る未来を想像するだけで息が詰まる。


 だが、この想いを悟らせてはならない。

 彼女を守るためには、遠ざけるしかない。

 それが唯一、彼にできることだった。


 現実へと意識を引き戻す。

 隣を歩くエリアーナの表情は窺えないが──その胸に「疎まれている」という悲しみが募っている事に、まだ気づいていない。



 * 



 礼服を着こなした二人の青年が、重厚な双扉を押し開ける。


 テロ集団のアジト──とは聞いていたものの、目の前に広がったのは壮麗な建物。

 想像とは掛け離れた空間に、一瞬戸惑う。


 アレクシスはエリアーナをちらりと見やると、すっと片腕を差し出した。


「仲睦まじい夫婦は、腕くらい組むものだろう?」

「ぇ……っ」


 その一言で、置かれた立場を悟る。


 ──夫婦を演じろ、ということですね……。


 ぎろりと睨まれ、おそるおそる腕を取る。

 想像どおりの逞しい感触に、抑えようとしても頬に熱が昇った。


 ここがテロ組織の一拠点だと聞けば恐ろしいはずなのに、不思議と恐怖心はない。毅然としたアレクシスの存在が、その不安を遠ざけてくれていた。


 表向きは『民間人が出入りする商店』。

 普段は正体を隠し、街に溶け込んでいるのだという。


「何の……お店なのですか?」

「入ればわかる」


 奥の双扉を押し開けると──まるで別世界へと足を踏み入れたかのように、眩しい光が内廊下へとあふれ出す。

 店内は人々の笑顔と感嘆の声で満ち、格式ある雰囲気が漂っていた。


 そばにいた店員が、ふたりを認めて歩み寄る。


「ようこそ。今日はどのようなものをお探しでしょう?」


 厚化粧の店員が値踏みするかのような視線でエリアーナをなぞり、明らかな作り笑いを浮かべる。


「妻に合うドレスを見繕って欲しい。装飾品もだ」

「あら! 素敵ですこと。社交用でよろしいでしょうか?」

「ああ。王宮の広間に立たせても見劣りしないものを頼むよ」


 ──社交用のドレス……ショーケースの装飾品も、すごいお値段っ


 本当に買うつもりなのだろうか。

 高級品を、ただので……?!


「あっ、あの、旦那様……」


 視線で訴えたけれど、アレクシスは店員と談笑しながら話を進めている。

 仕方なく、ショーケースの中の装飾品を眺めていると。


「エリアーナ」


 はっと驚き、肩が跳ねた。

 突然、長い指先が頬に触れる。

 耳にかかった髪をそっと払うと、囁く声が落ちた。


「……衣装屋に来たのだから。何か買わないと不自然だろう?」


 その瞳が優しく揺れたように見えた──。

 けれど、それもきっと、エリアーナの錯覚に違いない。





この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?