食堂からさほど離れていない場所に、その商店はあった。
歩いて五分ほどの距離なのに、エリアーナにはずいぶん遠く感じられた。
目的の場所に着くまで、アレクシスと一度も言葉を交わさなかったからだ。
幾度となく横顔を見上げても、美丈夫の視線はまっすぐ行先だけを見据えている。
一度だけ目が合ったが、慌てたふうに視線を逸らされた。
──食事の時もそう。やはり旦那様は、私と目を合わせたくないのですね……。
エリアーナがそう受け止める一方で、アレクシスはまるで別の感情と戦っていた。
気を抜けば口元がつい緩んでしまう。
それを隠すため、無理に顔を背ける。
──エリーが……可愛い。
憂いを帯びた、すがるような瞳で見上げられるたび、胸が軋む。
遠目でも可憐だが、間近にいる彼女の愛らしさは格別だ。
特に食事中は危うかった。
口元が綻びそうになるたび、必死に押さえ込んだ。
並んで歩く今も不意に視線が重なれば、この想いを悟られるのではと──心臓が落ち着かない。
歩みながら、アレクシスの意識は半年前の或る日へと遡っていった。
──婚約当時、俺は若輩者で、エリーはまだ十歳の少女だった。
知っていたのは「王の眼を継ぐ者」という肩書きと、政略の駒という事実だけ。
初めて出会ったのは、王都で催された受剣式典の日。
木から降りられず困っていた彼女を抱きとめたあの瞬間も、胸の奥で小さな波紋は広がったが──まだ理性で押さえられる程度だった。
だが、婚礼を間近に控え訪れた我が領地での出来事は、すべてを変えてしまった。
夕暮れの高原に、バサリと大きな羽音が響く。
巨大なそれを恐れもせず、慈しむように頬を撫でるエリアーナ。
『……怖かったわね。でも、もう大丈夫』
甘やかな声に応えるように、白い翼がふわりと揺れた。
その姿は、荒ぶる獣を鎮める女神のようで──目が離せなかった。
そして、銃口から煙を上げる猟銃を抱えたアレクシスたちに向き直り、毅然と告げた。
『……生きるために命をいただくのとは違う。遊戯としての狩猟なんて、無意味な殺戮に過ぎません。あなたたちは今日、どれほど罪なき命を殺したの……!』
アレクシスがその場にいた事に気づいていたのかわからない。
けれどその眼差しは、怒りと悲しみを宿しながら真っすぐに彼を射抜いた。
政略結婚の相手だった少女が、突如として鮮やかな色を放ち──その瞬間、恋に堕ちた。
純真無垢でありながら、芯の強さを秘めた彼女。
柔らかく膨らみかけた花の蕾のように、これから咲き誇る未来を想像するだけで息が詰まる。
だが、この想いを悟らせてはならない。
彼女を守るためには、遠ざけるしかない。
それが唯一、彼にできることだった。
現実へと意識を引き戻す。
隣を歩くエリアーナの表情は窺えないが──その胸に「疎まれている」という悲しみが募っている事に、まだ気づいていない。
*
礼服を着こなした二人の青年が、重厚な双扉を押し開ける。
テロ集団のアジト──とは聞いていたものの、目の前に広がったのは壮麗な建物。
想像とは掛け離れた空間に、一瞬戸惑う。
アレクシスはエリアーナをちらりと見やると、すっと片腕を差し出した。
「仲睦まじい夫婦は、腕くらい組むものだろう?」
「ぇ……っ」
その一言で、置かれた立場を悟る。
──夫婦を演じろ、ということですね……。
ぎろりと睨まれ、おそるおそる腕を取る。
想像どおりの逞しい感触に、抑えようとしても頬に熱が昇った。
ここがテロ組織の一拠点だと聞けば恐ろしいはずなのに、不思議と恐怖心はない。毅然としたアレクシスの存在が、その不安を遠ざけてくれていた。
表向きは『民間人が出入りする商店』。
普段は正体を隠し、街に溶け込んでいるのだという。
「何の……お店なのですか?」
「入ればわかる」
奥の双扉を押し開けると──まるで別世界へと足を踏み入れたかのように、眩しい光が内廊下へとあふれ出す。
店内は人々の笑顔と感嘆の声で満ち、格式ある雰囲気が漂っていた。
そばにいた店員が、ふたりを認めて歩み寄る。
「ようこそ。今日はどのようなものをお探しでしょう?」
厚化粧の店員が値踏みするかのような視線でエリアーナをなぞり、明らかな作り笑いを浮かべる。
「妻に合うドレスを見繕って欲しい。装飾品もだ」
「あら! 素敵ですこと。社交用でよろしいでしょうか?」
「ああ。王宮の広間に立たせても見劣りしないものを頼むよ」
──社交用のドレス……ショーケースの装飾品も、すごいお値段っ
本当に買うつもりなのだろうか。
高級品を、ただの
「あっ、あの、旦那様……」
視線で訴えたけれど、アレクシスは店員と談笑しながら話を進めている。
仕方なく、ショーケースの中の装飾品を眺めていると。
「エリアーナ」
はっと驚き、肩が跳ねた。
突然、長い指先が頬に触れる。
耳にかかった髪をそっと払うと、囁く声が落ちた。
「……衣装屋に来たのだから。何か買わないと不自然だろう?」
その瞳が優しく揺れたように見えた──。
けれど、それもきっと、エリアーナの錯覚に違いない。