案内された先は、小規模ながらも贅を尽くした個室だった。
足元には絹のようになめらかな絨毯、大きな鏡と猫足の長椅子、壁には一着のドレスが静かに掛けられている。
「旦那様はこちらでお待ちくださいませ。紅茶と茶菓子をすぐにお持ち致します。では奥方様、試着室へどうぞ」
エリアーナは一瞬ためらったが、アレクシスは意に介さず視線を巡らせる。
歩みの途中、壁のドレスに視線が吸い寄せられた。
繊細なレースと光沢のあるリボン。まるで光を纏うような輝きに、思わず息を呑む。
店員はその目の動きを見逃さない。
「奥様はお目が高くていらっしゃいますね。そちらは社交界で流行中の意匠でございます。お色違いもありますので、ぜひご試着を」
奥のカーテンを潜ると──色彩の海が広がっていた。
宝石のように並ぶドレスの群れ。真紅、翡翠、薄桃……生地の波が光を反射し、客たちの微笑みを照らしている。
「綺麗……っ」
思わず声が漏れた。
胸の奥が、ゆっくりと温まっていく。こんなふうに心を揺さぶられたのはいつぶりだろう。
侯爵家に嫁いでから閉ざし続けた扉が、ほんのひとひら……開くのを感じた。
「何着でもご試着は可能ですよ。装飾品はわたくしどもが最も映えるものをお選びいたしますので」
──試着、だけなら……。
胸の奥をくすぐる高揚感に促され、忘れかけていた乙女心が密やかに躍る。
小さく息を呑み、エリアーナは頷いた。
*
静まり返った部屋で、アレクシスは長椅子を立ち上がった。
壁沿いを歩き、指先で柱や装飾の継ぎ目をなぞる。
この店が盗品を高額で売り捌き、反乱分子の資金源としている──その情報が入ったのは数日前。
国王の密偵不在の今、早急に裏付けを取る必要があった。
──敵の懐にいる。
不用意な行動一つで刃が飛んで来かねない。
「……埃一つ無い。やはり見せかけか」
カーテンの向こうを意識する。
任務に私情を持ち込む余裕などないはずだ──けれど。
美麗なドレスに袖を通したエリアーナを想像すると緊張が走った。
浮わついた背中が落ちつかない。
気は進まなかったが、芳しい湯気を立てる紅茶をひとくち啜った。
──これが毒入りで死ぬなら……着飾ったエリーを見てからにしてくれ。
得体の知れぬ緊張がアレクシスの喉を掠めた、その時だ。
「お待たせいたしました」
カーテンが揺れ、待合に光が差し込む。
スカートの端を摘み、俯きがちに現れるエリアーナ。
頬にうっすらと朱が差し、恥ずかしげに視線を泳がせている。
「ご自分でお選びになったのですが、この淡い色合いは奥様にこそお似合いでございます。旦那様もぜひ、奥様の新たな魅力を──」
店員の声が耳の奥に霞んでいった。
呼吸が揺れる。視線が奪われ、思わず息を呑む。
──エリー……。
膨らんだ蕾が、光をはらんで開く瞬間を見たようで──身を忘れ、見惚れるしかなかった。
「……ッ」
拳で口元を覆うアレクシスを見て、肩をすくめるエリアーナ。
ドレスは着慣れず、刺さる視線がくすぐったくて仕方ない。
「似合い……ませんよね……? すぐに着替えてきますからっ」
──もうだめ、耐えられない!
カーテンの奥に逃げようとすると、「待て」と声が飛んだ。
エリアーナに歩み寄ったアレクシスが、首筋に手を伸ばしてネックレスを持ち上げる。
「もっと品質の良いものはないのか? 他のドレスも購入しよう。妻に似合うものなら何着でも構わない──装飾品もだ」
「だっ、旦那様?!」
エリアーナは困惑を隠せない。
一着でも馬一頭に相当する価格。ましてや上質な装飾品までとなれば。
何着でも──そう聞いた店員の表情が一変する。
「あ……有難うございます! 奥方様、他にお気に召したものは? ぜひ、たくさんお召しいただきたいですわ!」
店員がパチンと手を叩くと奥間の扉が開き、黒づくめの正装に口髭を蓄えた年長の男が現れた。
続いて、似た風貌の男がもう一人。
その肩には──瑠璃色の飾り羽を立てた大きな鳥が爪を立てて止まっている。
「高貴な旦那様のお目に適う逸品は、奥の間にございます。特別なお客様のみにご紹介するものゆえ、我らがご案内を」
「妻を一人きりにするのは心許ない。ここで見せてくれ」
男たちは互いに目配せを交わし、 一人が無言で首を横に振った。
「申し訳ありません」
「残念だな。それとも……ここでは見せられない理由でも?」
男たちの眼光が鋭く光る。
その瞬間、鳥が大きく羽を震わせた。
小さな黒い瞳がエリアーナを射抜く。
エリアーナの周りだけ、空気が沈んだような悪寒が走った。
──今のは……?!
耳の奥に、かすかな囁きが触れた気がした。
次第に明瞭なものとなり……得体の知れない
それは羽音とともに脳髄に落とし込まれる、不気味な《声》──。
(えどがーさまが、またくるよ。えどがーさま、こわい。いやだよ、いやだよ。きれいなもの、いっこへると、いっこふえる。もってきたひと、またしぬよ。)