『――待たせたね、僕だけの探訪者(トラベラー)』
パリーン。
いま何が聞こえた? どこか遠くで、私の理性が砕け散る音がした。
神々しい光の中心から届いた思念(プライベートメッセージ)は、脳髄に直接響き、すべての思考をフリーズさせる。
僕?
……いま、『僕』って、おっしゃいました?
僕だけの?
…………オンリーミーってこと? 私オンリー?
は?
口は半開きのまま固まり、意識はぐるぐると渦を巻く。
状況が一ミリたりとも理解できない。
目の前にいるのは『K』さん。私の人生の光。灰色の世界に生きる希望。崇め奉るべき、たった一人の神様だ。
その神様が、私の、ためだけに、重すぎる御扉を、お開きになった、と?
混乱の極みに達した頭の中を、秒速で駆け巡るクエスチョンマークの嵐。
『待たせたね』って何を? 半年の沈黙のこと? それとも人生レベルで私を待っていたとでも!?
『僕だけの探訪者』って何!? 複数形じゃない! 単数形!! ファンは大勢いるのに、なぜ私を名指し!? ていうか私の存在、認知されてたの!? いつから!? どうして!?
うそ、待って、ムリムリムリ。
27年間で蓄積した語彙力を総動員しても、この感情に名前がつけられない。
これは夢? 幻? それとも、連日の残業がついに脳神経を焼き切って、幸せな終末幻想を見せているの?
シュバッ!!
突然、半透明のウィンドウが目の前にポップアップした。
【SYSTEM MESSAGE: 受信思念(プライベートメッセージ)は正常です。エラーではありません】
「ご、ご親切にどうも……ッ!」
ネオページアのシステムは、たまにこういう過保護なところがある。違う、そうじゃない。私が知りたいのはシステムの正常性じゃなくて、私の頭が正常かどうかなの!
内心で絶叫していると、至聖所から溢れていた眩い光が、ふ……っと穏やかな銀の輝きへと収束していく。逆光の中に佇んでいた人影が、ついにその輪郭を現した。
息を、のんだ。
そこに立っていたのは、この世の美しいものをすべて集めて、最高の職人が丹精込めて作り上げたかのような青年だった。
月光を溶かして糸にしたような、儚げな銀の髪。
少し長めの前髪の間から覗く切れ長の瞳は、満天の星を閉じ込めた夜空のように、どこまでも深い藍色をしている。
肌は人間というより、滑らかな白い陶器のようだ。
年齢は……わからない。十代後半のようにも見えるし、悠久の時を生きた神様だと言われても納得してしまう、人間離れした雰囲気をまとっている。
身にまとっているのは、この神殿と同じ漆黒のローブ。堅苦しい神官服とは違い、首元はラフに開かれて華奢な鎖骨のラインがちらりと見える。その胸元で、小さな銀色の鍵のネックレスが静かに光を放っていた。
ああ、もう、存在そのものがアート。国宝。歩く世界遺産。
私の全細胞が『美』の一文字にひれ伏して思考停止していると、その青年――Kさんが、ふわりと慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ふふ、そんなに驚いた? 君にだけは直接、お礼を言いたかったんだ。僕の世界に、色を取り戻してくれてありがとう」
ひっ……!!
こ、声まで美しい……!
低すぎず高すぎず、耳元で囁かれたら一秒で意識を刈り取られそうな、甘く優しいテノールボイス。
あまりの破壊力に、私の膝は笑いを通り越してガクガクと震え始める。立っているのが、やっとだ。
「あ、あの、お礼なんてとんでもないです……! 私はただ、更新された物語があまりに素晴らしくて……!」
しどろもどろに声を絞り出す。『ファンです。あなたの物語が大好きなんです』――ただそれだけを伝えたかったのに、ご本人を前にすると語彙力も何もかもが蒸発してしまう。
「僕だけの、って、どういう意味ですか!? Kさんの物語を愛してる探訪者(ファン)は、私以外にもたくさんいます! 『献身序列(サポートランク)』も、すごく高いですし!」
そうだ。そこがいちばん、わからない。
他の熱心なファンだっているのに、どうして私なの?
必死の問いかけに、Kさんはくすりと悪戯っぽく笑みを深める。
夜空色の瞳が、優しく私を射抜いた。
「もちろん、僕の世界を支えてくれるすべての信仰(アクセス)に感謝してる。だけど、君がさっき捧げてくれた『祈りの言葉(かんそう)』と『聖なる供物(チケット)』は……特別だったんだ」
「と、特別……ですか?」
「そう。僕がこの世界にかけた『フィルター』を通り抜けられた、唯一の信仰だったからだよ」
フィルター?
私が首を傾げると、Kさんはこの静寂に包まれた漆黒の神殿を、ゆっくりと見回した。
「このネオページア大陸は今、『運命の聖句(タグ)』の光で満ちている。《#悪役令嬢》《#追放》《#ざまぁ》……流行の物語が放つ輝きはあまりに強く、熱狂的で、時に暴力的だ」
その言葉には、確かな憂いが滲む。
「僕の物語は、そういう強い光とは相性が悪い。だからこの神殿(マイページ)には、特殊な『世界創造魔法(カスタマイズ)』で結界を張ってあるんだ。流行に乗っただけの信仰(アクセス)を弾き、僕の物語を心の底から信じてくれる、純粋な魂しか辿り着けないようにね」
結界……!
この神殿がいつも静かで落ち着いている理由がわかった気がする。ランキング上位の神殿が、アイドルのライブ会場のように騒がしいのとは対照的だ。
「多くの人が祈りを捧げてくれたおかげで、僕の世界はかろうじて消えずに済んでいた。でも、それだけじゃ足りなかったんだ。枯渇した魔力(マナ)……物語を紡ぐ力をもう一度呼び覚ますには、最後の一押しが必要だった」
Kさんの手が、そっと私の頬に触れた。
指先は雪のように少し冷たいけれど、驚くほど優しい。
ひゃっ……!?
「君が最後にくれた五枚の『聖なる供物』。そのチケットに乗っていた祈りの純度が、最後の鍵になった。閉ざされていた扉をこじ開け、新しい物語を紡ぐ魔力を与えてくれたんだ。灰色の世界に鮮やかな『色』をもたらしたのは、紛れもなく君なんだよ、詩織」
「し、しおり……!?」
え、ちょ、待って。今、すごくナチュラルに私の名前が呼ばれた。
本名! リアルネーム!!
「な、なんで私の名前を……!? 『探訪者(トラベラー)』の登録名は、ランダム生成のハンドルネームのはずじゃ……」
「神様をなめちゃいけないよ」
Kさんはいたずらっぽく片目を瞑る。
「僕だけの特別な探訪者のことくらい、調べさせてもらった。禁じられた古代魔法(バックドア)を使ってね」
キ、キンジラレタコダイマホウ!?
それってつまり、不正アクセスとかハッキングとかそういうやつでは!?
コンプライアンス的に完全にアウトなやつでは!?
神様、そんなことしていいんですか!?
私の思考が再びショートしていると、頬に触れたままのKさんが、真剣な眼差しになった。
「詩織。僕はもう、世界を灰色には戻したくない。物語を続けたいんだ。そのためには、君の力がどうしても必要だ」
「わ、私の力、ですか……?」
なんだろう。めちゃくちゃロマンチックな雲行きなのに、なぜか少しだけ不穏な気配がする。
その時だった。
BEEEEEEEP! BEEEEEEEP!
WARNING!! WARNING!!
静寂を切り裂き、神殿全体にけたたましい警告音が鳴り響く。
私たちの周りに、無数の赤いホログラムウィンドウが滝のように流れ落ちてきた。
【SYSTEM WARNING!!】
【『神格序列盤(ランキングボード)』にて観測史上稀な垂直上昇を確認!】
【対象:創造主『K』、物語『灰色のアルカディア』】
【ただいま『週間 献身序列(ウィークリー・サポートランク)』第9位にランクイン!】
【『創世活性序列(アクティブランク)』においても異常値を検知! 特別監視モードに移行します!】
【ATTENTION! 複数の高位『創造主』から神聖領域(マイページ)へのスキャンニングが集中! 隔壁魔法(ファイアウォール)の魔力(マナ)残量、低下中!】
「な……なにごと!?」
パニックに陥る私をよそに、Kさんは「ちっ」と小さく舌打ちし、苦々しい顔でホログラムを睨みつける。さっきまでの穏やかな神様とはまるで別人だ。
「まずいな。君の祈りが強力すぎたせいで結界が緩んだらしい。注目を浴びるのはまだ早すぎた」
え、私のせい!? 祈りの純度が高すぎたから!?
恐る恐る自分の『探訪者ステータス』から『神格序列盤』へとアクセスする。そこに表示された光景に、私は絶句した。
今までずっと【OUT OF RANK(圏外)】だった場所に、『K』の名前が燦然と輝いている。
半年ぶりの更新は、熱心なファンたちの長年の応援と掛け合わさり、凄まじい化学反応(バズ)を起こしていた。私の『祈りの言葉(かんそう)』にもたくさんの共感の光が寄せられ、コメントツリーが猛烈な勢いで伸びている。
これは……もしかして、私がKさんの平和を乱してしまった……?
「あ、あの、Kさん……ごめんなさい、私……」
「君が謝ることじゃない。こうなる可能性は覚悟していた」
Kさんはホログラムから視線を外し、もう一度、私に向き直った。
その夜空色の瞳は、今まで見たことのないほど真剣な光を宿している。
「詩織。時間がない。単刀直入に言う」
頬から手を離すと、今度は私の右手を、両手で優しく、しかし力強く包み込んだ。
ひゃあああああああああ!?
て、手、手、手を握られている……! 神様に! 推しに!!
心臓がもたない。限界突破。臨界点。メルトダウン。
「僕と、契約してほしい」
「………………は?」
け、けいやく?
CONTRACT?
「あの、今、なんと?」
「契約だよ。僕だけの『専属探訪者(オンリー・トラベラー)』として。これからこの世界で起こる、あらゆる面倒ごとから――僕と、僕の物語を守ってほしい」
私が、Kさんを、守る?
なにそれ、意味が分からない。
探訪者(よみせん)の私が、創造主(かきせん)である神様を?
どうやって? 物理的に? それとも精神的に? ていうか守るって何を!?
キャパオーバーでフリーズしていると、Kさんは包み込んだ私の手に、さらにぎゅっと力を込める。国宝級の美しい顔が、吐息のかかるほどの距離まで、ゆっくりと近づいてきて――
「詩織」
「は、はいぃっ!?」
裏返った声が出た。
「君がいなければ、僕はもう物語を書けない身体になってしまった。君の『祈り』だけが、僕を創造主たらしめる唯一の糧(かて)なんだ」
甘く、とろけるような声で、とんでもないことを囁かれる。
「だから、お願いだ。僕のミューズになってほしい。僕の『アルカディア』を、一緒に完成させてくれないか?」
ミューズ。
ギリシャ神話の、芸術を司る女神。
私が、この人の、ミューズ……?
赤い警告ウィンドウが明滅し、耳障りなアラートが鳴り響く混沌の中で、時間が止まった。
目の前には、私に救いを求める世界一美しい神様。
握られた右手からは、彼の体温(と緊張?)が伝わってくる。
無理だ。
こんなの、断れるわけがない。
ううん、そもそも断るという選択肢が、最初から私のどこにも存在しなかった。
「……はい」
か細く、けれど確かな声が、喉からこぼれ落ちた。
「なります。私が、あなたのミューズに」
その言葉を聞いた瞬間、Kさんの瞳が驚きに見開かれ、やがて心の底から嬉しそうな、花が咲くような笑顔に変わった。
その笑顔は、あまりに、あまりにも――反則だった。
「――ありがとう、詩織」
そう言うと、Kさんは握っていた私の右手の甲に、自らの唇をそっと寄せた。
チュ。
柔らかく、少しだけひんやりとした感触。
まるで騎士が姫君に忠誠を誓うような、神聖な儀式だった。
私の意識は、そこで完全にブラックアウトした。
◇
次に気がついた時、私は自分の部屋の、硬いキーボードの上に突っ伏していた。
モニターには『Neopage』のトップページが表示されている。
あれ?
いつの間にログアウトしたんだっけ?
「…………夢?」
呟いた声が、掠れていた。
そうだ、夢だ。残業で疲れきって、最高に都合のいい夢を見ていただけだ。
圏外の神様に認知されて、名前を呼ばれて、手を握られて、契約を迫られて、最後には手の甲にキスを――
「――っ!?」
左手で、右手の甲に触れる。
そこに、夢の中の感触がまだ微かに残っている気がした。
心臓が、バクバクと騒がしい。
呆然としたまま、もう一度『Neopage』にログインしようとマウスを握った、その時だった。
ピロン♪
聞き慣れない、軽快な通知音。
画面の右下に、新しいメッセージのポップアップが表示された。
差出人は――『Neopage運営事務局』。
『【重要】創造主『K』様との専属契約(ベータ版)締結のお知らせ』
「…………………………………………は?」
わけがわからないままメッセージを開くと、そこには私の理解力を遥かに超えた、衝撃的な一文が記されていた。
『本日より、探訪者『佐倉詩織』様は、創造主『K』様の正式な『専属探訪者』となりました。つきましては、特別権限(アドミン・パーミッション)の一部が付与されます。詳細は、ログイン後のマイページにてご確認ください。※本契約は、現時点では解除不可能です』
――カイジョ、フカノウ?
私の神様は、想像の斜め上をいく、強引で謎だらけのとんでもない人だった。