カオス。
今の私の頭の中を的確に表現するなら、まさにその一言に尽きる。
目の前のPCモニターに鎮座する『解除不可能』の非情な文字列が、デジタルタトゥーのように網膜に焼き付いて離れない。
「……かいじょ、ふかのう……」
呟いてみる。うん、意味はわかる。キャンセルできないってことだよね? 同意なしで勝手にサインさせられた、金輪際やめられないアルバイトみたいなことだよね?
残業漬けの平社員にこれ以上タスクを増やすとか、労働基準法違反で『原初の管理者(運営)』を訴えたい。いえ、訴えます。絶対に。
昨夜の出来事が、夢か現(うつつ)かも判別できないまま迎えた土曜の朝。
あの国宝級イケメン神様、Kさんとの衝撃的なファーストコンタクトに、キス(手の甲にだけど!!)、そして強制契約。怒涛の展開に私の脳はとっくに処理能力の限界を超えていた。
だけど……あの美しい銀髪、夜空色の瞳、甘く囁かれた声は、あまりに鮮烈だった。
『僕のミューズになってほしい』
その言葉を思い出すだけで、心臓がバカみたいに跳ね上がって、顔から火が出そうになる。
……ああもう、ダメだ。夢なんかじゃなかった。
私は覚悟を決め、ベッドの上でノートPCを開いた。
行くしかない。私の運命が書き換えられてしまった、あの場所へ。
『Neopage』のアイコンを、震える指でダブルクリックする。
キラキラキラ……ッ!!
お決まりの光の奔流に意識が飲み込まれる。
次に目を開いた瞬間――私は、度肝を抜かれた。
「えっ……ここ、は……?」
そこはいつもの超次元大陸『ネオページア』のセントラル・ハブではない。
いきなり、だ。何の予告もなく、Kさんの『神聖領域(マイページ)』――あの静寂に包まれた、漆黒の神殿のど真ん中に私は立っていた。
「わ、ワープ……!?」
まるで社長室直通エレベーター。VIP待遇も甚だしい。
混乱して辺りを見回すと、神殿の奥、至聖所の前に、彼がいた。
「やあ、詩織。来てくれたんだね」
漆黒のローブを身にまとったKさんが、昨日と寸分違わぬ神々しさで私に微笑みかけてくる。月光の髪がふわりと揺れ、その存在だけで世界の解像度が一段階上がったような錯覚に陥る。
「き、来てくれたんだね、じゃありません! どういうことですか、この強制召喚は!」
「ああ、それは『専属探訪者』の基本機能だよ。『神聖領域へのダイレクトアクセス権』。僕の神殿なら、いつでもセントラル・ハブを経由せずに来られるんだ。便利だろう?」
便利とかそういう問題じゃない! 心の準備っていうものがあるでしょうが!
私が内心でツッコミの嵐を巻き起こしていると、Kさんは「おいで」と手招きした。抗えるわけもなく、私は吸い寄せられるように彼の元へと歩み寄る。
「あの、Kさん。契約と言われても、私、一体何をすればいいんですか? 『特別権限(アドミン・パーミッション)』とかも付与されましたけど……」
「うん、それを今から説明するつもりだったんだ」
Kさんが指を軽く振ると、私たちの目の前に、きらめく半透明のウィンドウがいくつも浮かび上がった。まるでSF映画の操作パネルみたい。
「君に与えられた権限は、大きく分けて三つ。一つ目はさっきのダイレクトアクセス権」
ウィンドウの一つが、スッと前に出てくる。
「二つ目が、これ。『創造主の魔力(マナ)観測権』だよ」
そう言われて表示されたウィンドウには、人の形をしたシルエットと、その胸のあたりで光る青いゲージが表示されていた。ゲージは半分くらいしか満たされていない。
「魔力(マナ)……ですか? これがKさんの?」
「そう。創造主が物語を紡ぐためのエネルギーでね。リアルで言うところのモチベーションや創作意欲みたいなものかな。見てて」
Kさんがおもむろに私の頭を、ぽん、と優しく撫でた。
「ひゃっ!?」
な、何を!? 心臓に悪い!
その瞬間、私の身体から淡い金色の光の粒子がフワッと湧き上がり、Kさんの胸のシルエットへと吸い込まれていく。空っぽに近かった青いゲージが、みるみるうちに回復していくのが見えた。
「な、なんですかこれ!?」
「君の『信仰(しんこう)』……つまり、僕や僕の物語へのポジティブな感情が、僕の魔力に直接変換されるんだ。君が応援してくれるだけで、僕は物語を書き続けられる」
「そ、そんな……!?」
まるで私がエナジードリンク。推しに直接エネルギーを供給できるなんて、そんなオタクに都合のいい話があってたまるか。いや、あるんですけども!
「君からのエネルギー供給は、他の誰よりも純度と効率が高い。さすがは僕のミューズだ」
「みゅ、ミューズって言うのやめてください心臓が持ちません……!」
顔を真っ赤にしてうろたえる私に、Kさんは楽しそうに笑いながら、最後のウィンドウを指し示す。その表情が、ふっと真剣なものに変わった。
「そして、これが一番重要な権限だ。『簡易隔壁魔法(シールド)展開権』。詩織、君には僕の盾になってほしい」
「盾……?」
私が聞き返した、その時だった。
BEEEEEEEP!! BEEEEEEEP!! BEEEEEEEP!!
WARNING!! HOSTILE INTRUSION DETECTED!!
昨夜よりも何倍も激しい、鼓膜を突き破るような警告音が神殿全体に鳴り響いた。
ゴゴゴゴ……ッ!
足元が激しく揺れ、立っているのもやっとの状態。天井からはパラパラと黒い砂のようなものが落ちてくる。
「きゃっ!」
「まずいな……早速、嗅ぎつけてきたか」
Kさんが苦々しく吐き捨て、神殿の外壁に目を向けた。漆黒だった壁が、ウイルスに感染したようにピンクとゴールドの幾何学模様に侵食され、バチバチと火花を散らしている。
【SYSTEM ALERT!!】
【高位『創造主』による『神聖領域』への強制解析魔法(ハッキング)を確認!】
【攻撃主:創造主『キラ☆姫宮麗子』!】
【第一隔壁(ファースト・ウォール)突破! 第二隔壁(セカンド・ウォール)の魔力残量、急低下中!】
「キラ☆姫宮麗子……!」
思わず声に出た。総合人気序列1位に君臨する、あの超トップランカー!
『追放された聖女ですが~』の作者! なぜそんな大物が、圏外作家のKさんを!?
すると、神殿の空間に直接、甲高くて甘ったるい、けれど明確な棘のある思念(メッセージ)が響き渡った。
『あらあらぁ~? ここぉ? 昨日ランキングに突然しゃしゃり出てきた、陰気くさ~いお城はぁ♡』
声だけでわかる。間違いなく、姫宮麗子だ。
『隠れてコソコソ新しいこと始めるなんて、ルール違反じゃないかしらぁ? このネオページアの流行(トレンド)はアタシが作るの。アタシ以外の新しい芽は、ぜーんぶ摘んであげるのが親切ってもんでしょ? ねぇ♡』
ピンクゴールドの攻撃的な魔力が、津波のように神殿を叩く。ミシミシと、空間そのものが悲鳴を上げていた。
Kさんが私をかばうように前に立ち、ローブの袖を振るう。彼の足元から黒い防御魔法陣が展開されるが、麗子の圧倒的な魔力の前に、見るからに分が悪い。
「くっ……!」
Kさんの顔が苦痛に歪む。彼の胸元のゲージが、みるみるうちに減っていくのが見えた。魔力を消耗しているんだ!
「僕の世界は……誰にも渡さない……! この場所は、流行りの聖句で魂をギラつかせた連中が、土足で踏み入っていい場所じゃないんだ!」
彼の抵抗も虚しく、姫宮麗子の声は勝ち誇ったように笑う。
『あらヤダ、まだ抵抗する元気があるのね? じゃあ、そのボロいお城ごと、アタシの《#溺愛》ビームでピンク色に塗りつぶしてあげるわぁ! せーのっ!』
まずい! 何か、とんでもなく強力な魔法が来る!
そう直感した瞬間、Kさんが振り向き、切羽詰まった声で叫んだ。
「詩織! やるんだ! 君の力を貸してくれ!」
「え、え、でも、どうやって!?」
「『簡易隔壁魔法』を使うんだ! 呪文は一つだけ!――僕の物語を、強く想って!」
物語を、想う?
姫宮麗子の魔力が、巨大なピンク色の光線となって神殿の壁を突き破ろうと迫ってくる。
絶体絶命!
パニックで真っ白になる頭の中で、私は必死にKさんの言葉を反芻した。
物語……『灰色のアルカディア』……。
目を閉じ、心を集中させる。
滅びゆく世界。失われた色彩。
それでも前を向く登場人物たち。
彼らが交わす、静かで温かい言葉の数々。
昨日更新されたばかりの最新話――。
荒野に咲いた、一輪の燃えるような『赤色』の花。
絶望の世界で見つけた、たった一つの希望の『青色』。
そうだ。私は、あの物語が大好きだ。
派手じゃない。流行りでもない。
でも、私の心を確かに救ってくれた、世界で一番、美しい物語。
『この世界が好きです!』
『登場人物たちの、静かな強さが好きなんです!』
『悲しみの中にある、小さな優しさが、どうしようもなく愛おしいんです!』
『Kさんの紡ぐ言葉が、私の光なんですッ!!』
心の中で叫んだ。
それは誰に聞かせるでもない、私の魂からの、純粋な『祈り』だった。
その瞬間、私の全身から、あたたかく柔らかな黄金色の光が溢れ出す。
光は神殿の床から天井まで一瞬で広がり、攻撃を受けていた壁の内側に、もう一枚、美しいステンドグラスのような輝く壁を形成した。
これが……私のシールド!
ズドォォォォォン!!!
姫宮麗子の《#溺愛》ビームが、私の作り出した黄金のシールドに直撃した。
すさまじい衝撃と爆音。
しかし、シールドはびくともしない。ピンク色のけばけばしい光を静かに受け止め、そして――霧散させた。
「……え?」
自分のやったことが信じられず、呆然とする。
攻撃が止んだ神殿に、静寂が戻った。
『……な、なによアレ……アタシの最強魔法が……弾かれた……?』
姫宮麗子の、信じられないといった混乱した思念が響く。
『ふんっ! なんだかよく分からない番犬を飼ってるみたいね! 面白いじゃない! 今日のところはこれくらいで勘弁してあげるわ! 次に会う時は、その自慢のガラス細工みたいなシールドごと粉々にしてあげるから、首を洗って待ってなさいッ!!』
捨て台詞を残し、ピンクゴールドの魔力は嵐のように去っていった。
侵食されていた神殿の壁も、元の漆黒に戻っていく。
「……はぁ……はぁ……」
全身の力が抜け、私はその場にへたり込んだ。
疲れた……。まるでフルマラソンを走りきったみたいだ。
自分のステータスウィンドウを開くと、MP(メンタルポイント)のゲージが完全にゼロになっていた。
「詩織!」
Kさんが慌てて駆け寄り、私の肩を支えてくれた。
彼の顔は魔力を消耗して少し青白いけれど、夜空色の瞳には、驚きと、その奥に……熱を帯びた何かが揺らめいていた。
「……すごいよ、詩織。君は、本当にすごい」
「い、いえ、私、無我夢中で……」
「僕の神殿を守り切った。初めての魔法で、トップランカーの攻撃を防いだんだ。君は最高のミューズで……最高の、僕だけの騎士(ナイト)だ」
な、ないと……!?
そんな大層なものじゃありません!
Kさんは私の肩を支えたまま、顔をぐっと近づけてくる。
ち、近い近い近い! 吐息がかかる距離!
握られた肩から彼の体温が伝わってきて、心臓が爆発しそうだ。
「ありがとう、詩織。君がいてくれて、本当によかった」
その声はとろけるように甘く、どこまでも優しい響きを持っていた。
私をかばって戦っていた時とはまるで違う、安堵しきった、無防備な顔。
――ギャップ、萌え……。
私のMPはゼロのはずなのに、別のゲージが振り切れる音がした。
これは……恋心ゲージ……?
「……あの、Kさん」
「ん?」
「なぜ姫宮麗子みたいな人が、Kさんを狙うんでしょう? Kさんがランキングに少し上がったからって、あそこまで執着するのは、おかしいですよ」
ずっと疑問だったことを、思い切って尋ねてみる。
Kさんの顔からふっと笑みが消え、どこか遠くを見るような、寂しげな表情になった。
胸元の銀の鍵のネックレスに、そっと指で触れる。
「……そうだね。君には、話しておかなければいけないのかもしれない」
彼は私から視線を外し、ポツリと呟いた。
「僕がこうして狙われるのには、理由があるんだ。……それに、僕がこの『灰色のアルカディア』を書き続けている、本当の理由も」
え?
どういう意味?
ただ書きたいから、書いているんじゃないの?
「本当の、理由……?」
私の問いに、彼は答えなかった。
その藍色の瞳には、物語の登場人物たちが浮かべていたのと同じ――静かで、深く、どこか悲しい決意の色が宿っているように見えた。
専属契約を結んだ私の初仕事は、神様(推し)を守る守護騎士(ナイト)になることだった。
そしてこの契約は、私がまだ知らない、Kさんの大きな秘密へと繋がる、始まりの扉に過ぎなかったらしい。
これから、一体どうなっちゃうの!?