「もしもし」
いかにもというぶっきらぼうな声だったが、それが普段の声なのか、相手が俺だからなのかは判断がつかなかった。
「千葉か?」
俺はその声が千葉だと重々承知の上で、そう尋ねた。自分でもバカみたいだなと思うが、話しづらい何かがある。まったく、俺らしくないぜ。
「森村か。……どうした?」
きっと千葉もそうは言っているが、俺が電話をかけている理由は百も承知だろう。
「今日は練習に来なかったな。どうかしたのか?」
先に天雷から事情を聞いていることは話さない。駆け引きというか、俺は卑怯だな。
「行けるわけがないじゃないか……お前に、会えるわけがないだろう」
天雷に聞いていた通りの答えが返ってきた。
もしかしたら練習を休むための口実だったと期待したが、本人にはっきり言われてはどうしようもない。
「どういうことだよ? 俺が、原因なのか?」
もうお茶を濁すような駆け引きは煩わしく、ストレートにそう尋ねた。
もし俺が原因で千葉が練習に来られないのならば、それはバンドとして終わってしまったということになる。それはすごく残念なことで、俺も想像するだけで心が痛む。
「……会っていいのか?」
今度は迷ったような、自信のない声を聞かせてきた。
口ごもるような口調に、いつもの千葉らしさがない。まるで長年会うことを禁じられていた恋人の会話のようで、俺は背中がむずむずしてくる。まったく、不謹慎だぜ。俺って奴は。
「会わなくちゃ練習もできないだろう? 俺たちには時間がないんだぞ。あと二か月で曲を作ってレコーディングして、ハイスクフェスにエントリーしなきゃならないんだ」
俺はさっき考えていたこれからの予定を反芻した。
「ああ、それは分かってるが……」
この期に及んで歯切れが悪い千葉。
一体彼女は何に引っかかっているのだろうか。
何が原因で、俺に会おうとしないのか。
まるで俺の許可がいるようなその口ぶりに、もやもやする。
「まさか……!」
まさか。許可? 俺の許可?
「お前、まさか?」
俺はすーっとこめかみに汗が流れるのを感じた。
すかさず俺は机に会ったハンカチでその汗を拭い、綺麗に折りたたむ。この汗も明日月岡に渡さなくっちゃね。一滴たりとも無駄にしない献身的な俺。
いや、今は汗フェチ月岡の話じゃない。千葉のこの煮え切らない言動だ。
「だって、ご主人様の許可なしに、会えるわけないじゃない……!」
やはりそうだ! これはご主人様(俺)とメスブタ(千葉)のプレイの一貫だったのだ。
ドMの千葉は放置プレイされており、命令した俺の許可なくしては勝手な行動ができなくなっている。つまり、俺に会うにもご主人様の許可が必要なんだって!
なんたるマゾヒズム。なんとプレイに忠実なことよ!
「放置されている身で、自ら動いてご主人様に会いにいけるわけないじゃない!」
嗚咽交じりの千葉の声には、その辛さゆえの恍惚がちらりと霞んだ。
「いいんですか? ご主人様に会いに行って、いいんですか?」
もう食い気味に攻め立ててくる電話の向こうのドM千葉。
目つきの悪いヤンキー系女子の話し方ではない。電話の向こうではぬいぐるみでも抱いていそうなメルヘンみが出ている。
「お許しいただけるんですか? 私なんかが練習に行っても、いいんですか?」
俺が反論する余地を与えてくれない。
「お、落ち着け、千葉。その、放置プレイは設定であって、そこまで強制力を感じなくていい。ノリ的な、そういうやつ?」
「え? ノリで私を弄んだって言うの!」
怒られた。
難しいぞ。放置プレイというか、ご主人様の加減がむずい!
そもそも俺は千葉のドMに付き合うことを避けるための応急処置的な対処で放置プレイを持ち出したのだ。放置プレイならば俺は何もせずに、勝手に千葉が興奮してくれると思ったからだ。
しかし俺の咄嗟の放置プレイが、千葉にとっては最高のディナーであり至高のプレイだったのだ。
ノリではなかった。俺のノリは、千葉にとっては本気の本気、マジのマジだったのだ。
「どうなの? あたしの清純な心を弄んだの?」
清純な心であると、まるで山の上の透き通った清流のようなことを言っているが、千葉はただのドM。透明性など皆無の変態なのだ。俺は騙されないぞ。
「そういうわけじゃないが、放置プレイを続けることによって練習がおざなりになってしまうのは本末転倒だろう?」
「森村は練習と放置プレイ、どっちが大切なんだ!」
練習に決まってるだろうが! と言ってしまっては千葉の感情を逆なでしてしまうんでここはぐっとこらえる。もはや俺の方がM適正高いんじゃないの?
「私はもっと直接的なプレイが好きだったけど、森村の放置プレイで次第に興奮を覚えてきたのに……。一体私にどうしろって言うの? お仕置きするならお仕置きする、じらすならじらす。はっきりして頂戴!」
千葉は俺に向かってSの品格をこれでもかと求めてくる。
そもそも俺は変態でもないし、S適正なんかあるわけもなく、千葉が勝手に俺に求めてきているだけで完璧なミスキャストなのである。
しかしバンドをやっていく上で、俺はリーダーとしてメンバーをまとめていく責任がある。変態だからといって放り出していれば、そこに絆なんて生まれない。
それは千葉だけでなく天雷や月岡までもが粒ぞろいの変態だったことが発覚したとき、そう心に刻んだではないか。
千葉が変態という事実をきっちり受け止め、俺が適切に導いていかねばならぬのだ。そのために俺はドSにもご主人様にもなる!
そう決心を新たにし、今俺が変態の千葉に対してできること。それは――。
「千葉よ、お前の気持ちはよく分かったが、ちょっと舐めとらんか?」
「え?」
突然の俺の上から発言に、千葉は喉の奥から絞り出すような驚嘆の声を出した。むしろそれは喘ぎ。性的興奮による桃色吐息だった。
「お前はいきなりドSになって私をいじめろとか言ってきたが、そもそもドM側がご主人様に命令することがおかしいんじゃないか? 立場が逆じゃないかと、俺は考えているのだが、どうだ?」
「あんッ!」
千葉は図星を突かれたのか、声が出ない呻きを漏らす。もう完全に喘ぎ声である。俺は指一本も触れていないんですけどね。
「私をいじめろと言われて、俺がはいそうですかと仕置きをする。そんな予定調和のプレイでお前は興奮するのか? 千葉よ。SMとは、何かね?」
俺はそう尋ねるが、俺自身そんな答えは持っているはずもない。
するとしばしの熟考の後、千葉が語りだした。
「……SMとは心と心を忠誠の縄で縛り、精神の不自由さに興奮するものです」
哲学!
千葉の答えに、まったく理解できない俺は梅干を食べたときのような酸っぱい顔をした。お前はSM界のソクラテスかよ。
さらに千葉は独自のSM理論を続ける。
「私は間違っていました。いじめてほしいばかりに、私は分不相応なお願いをしておりました。ご主人様にお願いするなど、なんて大それた行為を……。そこには不自由も忠誠もない、ただの欲望を満たすためだけの懇願、我儘」
いきなり敬語になる千葉に、俺も「お、おう」と呟くことしかできない。
俺の問いに対して、想像以上に120点の答えが返ってきてしまい、戸惑いしかない。もっと簡単に考えてほしかった。重いよ、重い。Mが重い!
「そんな私のゲスい心をお見通しになられて、私のM心を試すために放置プレイという行為を選択されたんですね。それで私が我慢できなくなり、自ら行動を起こしてしまうことで精神の乱れを気づかせようとしたのですね。ああ、私はなんて浅はかなメスブタなんだ! ご主人様に気を遣わせるなんて! マゾ失格です!」
千葉は何を言っているのだろうか。彼女のマゾヒズムが理解できないのは以前からだが、今はさらにその理解の枠を超越してしまっている。
彼女のMに付き合うことなんて無理だったのではないか。ホンモノのMの前では俺の張りぼてのSなど、完全に置き去りにされている。スピードが違う。ママチャリとF1くらい、性能差がある。
「そもそも私のようなメスブタは、ご主人様に口答えする権利などございません! 電話をかけてきていただいたにも関わらず、放置プレイに逆ギレするなどもってのほか! ここは死んで詫びるしかございません!」
「ま、待て、千葉! 早まるでない!」
今の千葉ならマジで死にかねないと考えた俺は必死で止めにかかる。
だってこいつ、前組んでたバンドで演奏しながら死のうとした奴だからな。血を吐いたとか言ってたし、やりかねんぞ。
「ああ、ご主人様! 私のようなメスブタを止めて下さる! 優しさ! ご主人様に優しさという名のナイフを持たせてしまった私の罪はいかにして裁かれようか!」
何を言っているのだこいつは。しかし俺は千葉の命もさることながら、バンドも守らねばならぬのだ。そのためにはSを続行するしかないって!
「千葉よ! お前を裁けるのは、お前じゃない!」
「そうです。私を裁けるのは、ご主人様だけ……! ああ、こんな醜いメスブタを裁いてくれるとおっしゃるのですか?」
「これはもはや業! 俺がお前の腐った精神を解放してやる。それが俺のカルマ!」
俺は何を言っているのだろうか。ちょっと落ち着けよ、俺。
「放置プレイはこれまでだ。千葉よ、お前は俺を満足させられる詞を書き、練習に来い。そしてネオ・ヴルストの一員として、見事ハイスクフェスに出場を果たし、俺を満足させてみるがいい。それまでお前へのご褒美はお預けだ!」
「ご主人様! ご主人様が私のようなゲスの極みメスブタに命令してくださった! こんなに興奮することはありません! 私の命に代えても、そのご指示、果します!」
千葉は感激で涙をこぼしているようであった。
俺にとってはなんのこっちゃであるが、千葉のM気質をうまく昇華し、バンドのための活動に結び付けることができたのではないでしょうか。
「それと、俺とお前の主従関係は表に出すことはならん。バンドのメンバーがいる前ではいつも通り、この関係を隠すことで興奮を覚えるがよい。これこそが心と心を縛りつつ、不自由を共有して得られる悦楽のプレイと言えよう!」
もう俺は自分で何を言っているのかもよく分からない。大丈夫か? ちゃんと正常な世界に戻ってこられる?
「ご、ご主人様! なんと光栄なお言葉! 私たちの関係を誰にも見せないように振る舞うというのは、まるでノーパンに緊縛された状態で服を着せられ、原宿辺りを闊歩させられる快感のよう! ああ……」
勝手にいいように解釈して悦に浸る千葉。もしかしてそういうプレイ、したことあるんですか? ノーパン緊縛で原宿? ナニ下通りだよ。
「だから、月曜日は練習に来るように。くれぐれも学校では、このプレイのことを表に出すことを禁じる! 分かったな?」
「は、はいぃ」
そのいつもの千葉よりワンオクターブ高い声の返事で、カオスな電話は終わりを迎えた。まさかイッたんじゃなかろうな? テレフォンSMなんて聞いたことないぞ。
「はぁ。疲れた」
露出狂とドMの相手を連続でこなした俺、えらい。
それから眠りにつくまで、そう長くはかからなかった。今日の俺、マジお疲れ。