月曜日の朝というものはいつも気だるさと陰鬱にまとわれがちである。
今日の登校はいつもに増して憂鬱の極みなのであった。
「はぁ。なんで俺が……」
家を出る俺の姿は、ジャージ姿であった。制服はまとめてリュックに入れ、かついでいる。教科書類はほぼ学校に置きっぱなしなので荷物は少なくて済むが、なんの気休めにもならない。
俺は今日から学校まで走って登校することになってしまったのだ。
自宅から学校までは電車に乗って二駅。しかし今日からは電車を使わずにこの距離約5キロをスタコラ走っていくことになったのだ。
それは健康にもいいですし、バンド活動をする上で体力もついて素晴らしいじゃないですか、と言う健康志向の方もいらっしゃるだろうが、そんな意識の高い理由などでは決してない。
すべてはバンドメンバーの月岡希依のためであり、彼女の変態性のためなのだ。
俺は首にタオルを巻き、手にもハンドタオルを握っている。俺から分泌される汗の一滴さえも逃さぬ意向。彼女の汗フェチを満たすため。
俺は颯爽と走り出した。運動は苦手だし、すぐに息が上がる。バンドマンなんてこんなもんだ。酒とドラッグに蝕まれているので、体が運動を受け付けないのだ。
最寄り駅をスルーし、俺はひたすらこの足で学校を目指す。
「し、死ぬ……」
季節は秋といえど、すでに汗が噴出し、首に巻いたタオルは次第に湿っていく。額を流れる汗はその都度ハンドタオルで拭きとる。
うちのドラマーである月岡希依は極度の汗フェチで、特に男子の汗が好みらしい。汗の匂いを嗅がないとまともにドラムを叩けないという無茶苦茶な生態を持っており、そのエネルギー源の供給を俺が受け持つことになったのだ。
「すべてバンドのため! すべてバンドのため!」
俺は肩で息をしながら、そう呪詛のように繰り返し、ひたすら学校を目指した。
そっと首のタオルに手をやると、もう十分に汗で満たされていた。手に持っているハンドタオルも加湿されている。やれやれ、濡れ濡れじゃねえか、俺。
俺は校門をゴールと考えていたが、ぼちぼち走るのをやめ、群衆の流れに従うように歩き始めた。徐々に息を整えつつ、なるべく目立たないことを優先することにした。
しかし汗だくのタオルをそのままにしておくと秋の風によって渇いてしまうので、俺はリュックからジップロックを取り出し、丁寧に密封する。俺の汗の匂いを完全シャットアウトし、潤いを保つためだ。
「森村君?」
準備万端に月岡へ渡す「俺の汗・産地直送密封パック」を拵えているとき、後ろから声がかかった。天雷猫子だった。
「お、おう。天雷か」
「おはよう。何してるの?」
天雷は俺のジャージ姿を確認すると、遠慮がちにそう尋ねてきた。
俺も慌ててタオルの入ったジップロックをリュックに詰め込み、なんでもないいつもの月曜日、みたいな顔をして口笛なんか吹いてみる。
まさか俺が月岡のために汗をかいていたなんて考えないだろう。
「いや、ジョギングをして体力をつけないといかんからな。バンドのステージに立つ以上、体力も重要だ。そう思い立ち、今日から毎日学校まで走ってくることにしたんだ。健康にもいいし、体力もつく。こんな素晴らしいことはないぞ」
俺はごく自然に、ジョギングのすばらしさを説き、本来の目的が探られないように誤魔化す。
この天雷に、月岡が汗フェチの変態であることを知られるわけにはいかないのだ。
「そうなの。さすがリーダーね。それより、放課後は期待しててね」
なんとも蠱惑的な微笑と共に、天雷はそう言った。
「もしかして?」
「曲を作ってきたわ。あれからすごい閃きがあったのよ」
「本当か? そりゃよかった!」
俺は素直に喜んだ。
バンドでオリジナル曲を作るにあたり、やはり作曲というのはすべてのベースになる。これを基に、すべてが作られていくのだ。練習するにしても、その練習材料となりうる素材である。
「やっぱりすべてをさらけ出せば、メロディが自然に降りてくるものなのよ。人類にとって服なんて、才能の拘束具でしかないのよね。今すぐにでもこの制服を脱ぎたいくらいよ」
と天雷はくるんと一回転して、ふわりとスカートを膨らませて見せる。
するとその一瞬、パンツが見えそうになって、隣にいる俺の方が恥ずかしくなってしまう。
「お、おい。こんな通学路でパンツが見えるぞ」
「大丈夫よ。パンツ、履いてないから」
「そうか、なら大丈夫……じゃねえよ!」
秋風が運動後の体を冷やすこの季節、天雷は堂々とノーパンで登校しているのだ。
「やっぱり解放感と、いつ誰に見られるか分からない緊張感の両立。それが興奮と閃きにつながるのよ。本当はこの制服すらも脱ぎ捨てたいんだけど、さすがにそれを押さえる理性はあるのよ。私ってすごいでしょ?」
なにもすごくない。それが普通だ。
「おかげで今もいろんなメロディが降りてくるの。はやく放課後にならないかしら。すぐにでも真っ裸でプレイしたいわ」
「ちょっと待て。やはり練習だからといって裸はやめておいたほうが……」
天雷の性癖を知っている俺でも引くのに、千葉や月岡の前で裸はやばい。
「え、森村君。裸でプレイできるようにするって言ってたわよね? あれ、どうなったの?」
さすがに痛いところを突いてくる。それに関しては俺も悩みの種であり、一向に解決策が思い浮かばないのだ。
「いや、しかし、お前のそのプレイスタイルが千葉や月岡に知られたらまずいんじゃないのか? できるだけ内緒にしておきたいというか、プライベートなことですから、ねぇ?」
俺は下請け会社の社長が親会社にご機嫌を窺うような卑屈な笑いを漏らしながら、手のひらをこすってみた。
「それはそうだけど。なんなら全員が裸で演奏すればいいんじゃない? きっとこれは売れるわよ! 全裸バンドとしてロックの壁を乗り越えられるわ!」
パン、と手を叩いていいこと思いついたみたいな天雷。ロックの壁どころか留置所の壁しか見えません。売れる前に捕まります。
それに全員裸で演奏するとなると、俺の下半身の化身ジン・モリムラが辛抱たまらなくなって演奏どころじゃなくなるではないか。
「でも真っ裸よりもノーパンノーブラのほうがすべてをさらけ出さずに味わうスリルがあるのは確かよ。いつ誰に見られるか分からない緊張感が出て、興奮するわ」
「そうでしょう! とりあえずしばらくはそのスタイルでやってみてはいかがですか? 新しい扉を開くみたいな」
「これが着エロというのかしら。新しい発見ね」
違うと思いますが、ここは「さすが社長、その通りでおま!」という表情をしてうんうんと頷いておく。
「制服の下は何も身に付けていないというシチュエーションも、なかなか趣があっていいわね。今日の放課後はこれで試してみようかしら?」
「ぜひ、それでお願いします。さすが、天雷さん。目の付け所がシャープです!」
真っ裸より、ノーパンノーブラのほうが幾分かはマシである。天雷の性癖がそれでマイルドになるのならば、俺はひたすら願うしかない。
そんなマッパとノーパンのせめぎ合いをしているうちに、校門をくぐっていた。
「じゃあ、また放課後ね」
「ああ。礼の案件、ぜひ前向きにご検討お願いします」
そう言うと天雷はすらっと長い脚で昇降口の方へ駆けて行った。スカートが揺れて、太もも辺りが露わになるたび俺はドキドキが止まらない。だって彼女はノーパンだから。
「頼むから、ゆっくり走ってくれ。今のお前は拘束具を付けていないんだぞ……」
ああ心配。あいつはこれから学校ではノーパンライフを楽しむのだろうか。体育の着替えのときとかどうするんだよ、まったく。
俺はぶつくさ言いながら、己もジャージ姿であることで周りから浮いていることを自覚しつつ、校舎を目指した。
「おい、ごしゅ……森村!」
ついうっかり俺のことを「ご主人様」と呼びそうになる声。あの女しかいない。
「ち、千葉!」