昼休みに昼寝をしてしまい、気付いたときには五時間目の数学の授業はすでに半分が終わっていた。
できるだけ目立ちたくないと日々考えて生活しているのに、遅れてひとり教室に入るという、皆の注目を浴びる事態になろうとは。緊張で手のひらが汗でびっしょりだった。
もちろんこれまで授業をサボったこともない。なんと言い訳しようか。
さすがにスマホで小説を読んでいてチャイムに気が付かなかったと正直に話すのは避けたかった。
昼休みに山本がネットで小説を書いているという話題が出ていたし、そこと結び付けられて邪推される可能性がある。俺がその山本の小説を読んでいた、と勘繰られると芋づる式に俺も投稿していることがバレるかもしれない。
そこで俺は腹痛でトイレに籠っていたという言い訳を考え、それで乗り切ろうとした。病気なら仕方がないと責められることはないだろうという憶測だ。学校で大きい方のトイレに行くというレッテルを貼られてしまうが、優先順位を考えると多少の犠牲は仕方がない。生理現象には逆らえない。
俺はこっそり、教室の後ろのドアを開けた。その音にと気配に一斉にみんなが振り向き、俺のことを確認する。それは教壇の教師も同じで、一瞬で目が合う。
「あ、あの、すいません」
俯いて、教師の目線から逃げる。
「早く座れ」
「え、あ……」
俺は考えていた言い訳をすることもなく、黙って自分の席に座った。
すでにクラスのみんなの興味は俺ではなく黒板に向けられており、拍子抜けと同時に寂しい気持ちにもなった。
俺が授業に遅れてきても、誰も興味すら示してくれなかった。教師でさえも、である。いてもいなくても、このクラスに影響を与えることはなかった。
授業が終わっても、俺は教師から遅刻の理由を詰問されるわけでもなく、叱られることもなかった。クラスメイトからも「何故遅れたの?」の一言もない。心配してくれとは言わないが、せめて興味を示してほしかった。
それは俺のエゴなのか。それとも、ぼっちの俺に対する優しさなのか。目立たないことを望んで生きてきたが、この遅刻によって俺の存在意義を突き付けられた気分だった。
六時間目の国語の授業が始まっても俺のもやもやは消えない。
夏目漱石の「こころ」を朗読する声が聞こえる。どうやら、Kという奴が自殺するという暗い話らしい。
俺はラノベ以外の小説は一切読まないので、夏目漱石も太宰治も芥川龍之介も教科書の中でしか知らない。読んでも古臭いというか、何が面白いのかさえ分からない。
文学だから面白さを追及していないというのならば、それは作家の怠慢である。読者のために、読者が楽しむために、面白いものを書く。俺はいつまでもそうでありたいし、どれだけ売れてもそのことは忘れたくない。
きっとこういう文学小説なんてものは、読者が分かったふりをするアイテムであり、ファッションのようなものだ。こんなものよりも俺の小説の方がレベルが高いに決まっている。
そんな夏目某の文学小説を耳に入れながら、俺はひそかにやる気になっていた。
俺はさっき山本雄太の「異世界で始めるエリート生活」を読んでから、どこか胸の中に沸き立つものを感じていたのだ。
読む前は面白いわけがないと踏んでいたが、そんな考えはすぐに吹き飛んでしまった。
まだ第一部の五話分しか読んでいないが、その世界間、キャラ設定、伏線の貼り方、深まる謎、ストーリー展開の妙、すべてが計算しつくされているようで、読む手止められなかったのは事実だ。
こんな練られた話を、あの汗かきデブが書けるわけがない。
これはもしかしたらすでにデビュー済みのプロの作家の、ネット上での別名義なのではなかろうか?
噂では新人賞受賞作家などはその出版社に囲われて、他のレーベルでは書かせてもらえないという話を聞いたことがある。そういった場合、別名義で名を変えてネット上で活動しているプロもいると聞く。
この「異世界で始めるエリート生活」もそのパターンではなかろうか。それくらい文章も、展開もしっかりしている。
不覚にも面白いと思ってしまった自分が悔しかった。
こんな立派な小説の作者が隣のクラスの山本かもしれないという疑惑は、すでに消え去っていた。やはり別人に決まっているという確信。
そうであっても、あくまでそれは俺の憶測であり確かめる必要はあるかもしれない。
六時間目が終わり放課後になる。
俺は隣のクラスを通るとき、昼休みと同じように歩く速さを落とし、そっと横目で教室内を観察した。
昼休みに焼きそばパンをむさぼっていた小太りの山本は、すでにいなかった。
それで少し安心して、俺は立ち止まり、教室の中をじっくり観察してみた。すでに放課後になっており、出入りする生徒や廊下を行き交う生徒がいっぱいで、俺がこうやって教室内を見渡していても目立つことはない。
「なんだ? 誰かに用か?」
すると背後から、いきなり声をかけられた。予想もしていなかった事態に、俺は振りむいてただ口を開けて、なんて答えようか迷ってしまう。
声をかけてきたのは確か、小西と言う男子。体育が一緒だから覚えているし、それにサッカー部では有名だったはずだ。
「いや、別に……」
俺はなんとかその一言だけ残し、かっこ悪いが走ってその場を去ってしまった。もはや振り返ることすらできない。妙な噂が立たないことを願うだけだ。
あとは逃げるように家に帰り、ベッドに倒れこんできつく目を閉じた。
なんだか今日はいろいろありすぎて、心の整理が追いつかない。隣のクラスの山本のこと、山本雄太という作家のこと、そして生まれて初めて授業をサボったこと。
普段は何もないことが誇りの人生であったが、一日にこんなに突発イベントが起こることは珍しかった。
やはり肉体的に相当疲れているのか、俺はついそのまま居眠りをしてしまった。