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第22話 契約

「初めまして、ストライクブックス、ライトノベル編集部の靭崎うつぼざきヒロトです」


 俺は指定された池袋駅から少し離れた喫茶店で、生まれて初めて名刺を受け取った。


 靭崎ヒロトと名乗る男は、俺が予想していたよりもずっと若く、二十代後半といった感じで、しっかりとしたスーツを着た、真面目そうな男だった。


 絵にかいたようなサラリーマン風のいで立ちで、出版社といってもやはりスーツなんだなと、俺がなんとなく抱いていたイメージが覆された。同時に、この人が俺の作品を書籍化してくれるのかと、感慨深い対面になった。


「KAZMAです」


 俺は思わずペンネームを名乗った。こういうとき、どちらの名前で自己紹介すればいいか、迷ってしまう。何しろ、こんなことは初めての経験だ。


「はは、緊張なさらずに。KAZMA先生は高校生なのに、実にしっかりしていらっしゃる。最初作品を拝見した時、まさか高校生だとは思いもしませんでしたよ。語彙の使い方というか、文章の運びも大人っぽい」


 KAZMA先生。

 靭崎は俺のことを、先生と呼んで、無邪気に笑った。こんな風に呼ばれたのはもちろん初めてだ。今まで自分が学校の先生を呼ぶときには使っていたが、まさか自分が呼ばれる立場になるとは。なんとも不思議で、気持ちいい。俺は先生なのだ。


「先生の『異世界ハーレム戦記』を読ませていただいて、これだと閃くものがありましてね。編集部全員で検討を重ねまして、これこそがうちのストライクブックス創刊第一弾にふさわしいんじゃないかという話になったんですよ。現役の高校生が書いてらっしゃるというのも売りになりますよ」


 靭崎はじっと俺の目を見ながら、嬉々として話す。俺は人と目を合わせるのに慣れていないため、テーブルの上のカフェオレをじっと見つめていた。


「私はね、このライトノベルの世界に飛び込むにあたって、様々な作品を読んで研究したんですよ。出版されているものでも、何かの後追い、二番煎じのようなものばかりでまったく面白くないものが多い。簡単に言えばオリジナリティがないんです。こういうのを書けば売れるだろう、というのが見え見えの作品ばかりなんです。私たちストライクブックスは、どうしてもそういった停滞したラノベ業界に風穴を開けたかった。もちろん売れるのが一番ですけど、それよりも未来が見える作品を書籍化していく方針なんです。そこで目に留まったのが、KAZMA先生の『異世界ハーレム戦記』でした」


 俺は人生でこんなに褒められたことがなかった。先生と呼ばれただけで昇天しかけ、さらには作品についても褒められている。


 やはり俺がやってきたことは間違っていなかった。俺の作品は読む人がその素晴らしさが読めば分かるのだ。山本のような愚民には、決して理解できぬ輝きがあるのだ。


 やはりプロの編集者は見る目が違う。数あるネット小説の中から、俺の作品を選ぶのだから。俺の「異世界ハーレム戦記」が停滞したラノベ業界に風穴を開ける作品とまで評され、こんなに嬉しいことはない。


「ああ、そうだ。私ばかりが喋ってしまって肝心なことをお聞きするのを忘れていました。この書籍化の件、お受けいただけますか?」


 靭崎は目を逸らさず、じっと俺を見つめながら尋ねてきた。


「は、はい」


 嬉しくて震えそうになりながら答える俺を見て、靭崎はにこっと微笑んで、先を続けた。


「良かったです。それで書籍化についてなんですが、一応創刊は一年後を予定しております。まだまだ先の話と思われるかもしれませんが、ストライクブックスとしてもラノベ編集部立ち上げは一大プロジェクトでありまして、しっかりとした準備や宣伝に力を入れていくには一年では短いくらいなのです。それにKAZMA先生の作品につきましても、まずは絵師さんを探さなくてはいけませんし、先生にも原稿を手直ししていただかねばなりません。そのあと校正が入って、印刷して、いろいろしていたら一年なんてあっという間です」


 俺は至福のときを過ごしていた。


 こうやって喫茶店で出版社の編集者と自分の本について打ち合わせを行う。まるで夢みたいで、俺がこれまで描いてきた夢そのものであった。


 俺は自分が思い描いていた通りの夢を今ここで実現させている。夢は叶う。なんて素晴らしいことなんだ。


「それで、とりあえず先生には原稿をもう少し書き足していただきたいのです。とりあえず一巻としてまとめるにはあと二万字ほど増やしてもらいたいのです。できますか?」


「は、はい。いくらでも、書きます!」


 大丈夫、それくらいなんでもないことだ。ここ二週間ほど執筆からは遠ざかっているが、先の構想はすでに出来上がっている。頭にあるものを形にするだけ。夢を叶えた俺に不可能はない。


「そうですか。よかった。なんといってもストライクブックス創刊の目玉ですからね。もちろんシリーズとしても考えております。私たちもできるだけ妥協することなく、ラノベ業界をびっくりさせるような作品を送り出したいと考えておりますので。あと、最後に契約のことなんですが」


 俺は夢見心地で、今目の前で靭崎が説明していることに酔いしれていたが、契約という言葉にはっと目を覚ました。先日からずっと気になっていた印税の件である。


 何度も言うが、俺は金のために書籍化を承諾したのではない。たとえ印税がゼロだったとしても、俺は「異世界ハーレム戦記」が世に出るのならば、それで構わなかった。夢が叶うのに、さらに金まで要求するのは烏滸がましいことだ。


 それに大金が絡むと目の前の目的が霞んでしまう可能性がある。俺は夢に貪欲であるが、金には謙虚な人間なのだ。


「今回の契約につきましては、少し特殊な事項が適用されております。と言いますのも、私たちのストライクブックスにおきましては、初めてのラノベ出版になります。会社を上げた一大プロジェクトなのです。その成功をKAZMA先生に賭けております。ですので、お互いリスクもある程度背負う必要もあるのではないかと考えております」


 ここで靭崎が、冷めたコーヒーを一口飲んだ。話が本題に入ろうとしているという雰囲気が、漏れてくる。


 しかし、リスクという言葉に、俺は少し不安になる。


「いや、大したことじゃないんです。詳しく言いますと、たとえばここで印税を決めれば、6%という数字を先生に提示することになります。これは相場よりも低いと感じられると思いますが、どうしても先生は初めての出版になりますし、初めて契約する作家先生とは会社的にはこのラインがギリギリなのです。しかし、この印税を変動型の契約にすることによって、最大15%まで増やすことができるのです」


「へ、変動型……?」


 初めて聞く印税形態に、俺は素直に驚く。


「はい。最初に印税率を決めずに、変動させるのです。どうしてもデビュー作で売り上げの予想が難しい場合、初版の冊数を絞らなくてはいけません。いかんせん、本が売れない時代です。今のところ、初版三千冊を想定しております。この場合、定価の6%×三千冊分の印税をお支払いすることができます」


 確かに6%というのは、俺がネットで調べた情報によると、低い気がする。デビュー作と言えど、8%が普通という情報もあった。


「しかし、三千冊というのは全国の書店にまんべんなく置いてもらうのは難しい数字です。大型書店でも一冊か二冊。地方の小さな書店には入荷されないかもしれません。そうすると、KAZMA先生の本を購入しようとした読者様の手に潤沢にいきわたらないこともあり、爆発的大ヒットする可能性が低くなるということです」


 本が売れないという話は俺もよく聞く。出版社が倒産したというニュースも、珍しい話ではない。


「やはり私たちもビジネスです。売れる本を出すために、こうやってKAZMA先生にお声をかけさせてもらいましたが、会社は実績を求めます。すると矛盾する話ですが、初版が少ないと売れるチャンスを逃すことになります。ここまではご理解いただけますか?」


 俺は靭崎に向かって、大きく頷く。


 俺のような新人作家の小説を大量に刷るにはリスクが大きすぎるという話である。


 初版冊数が少ないと、ビジネスチャンスが減ることは理解できる。俺も本を買いに行って売ってなければ買うのを諦めてしまうことは多々ある。


 これは出版社側が判断することであり、俺がどうこう言える話ではない。


「私はKAZMA先生の『異世界ハーレム戦記』は必ず売れると確信しております。しかし会社はルールに基づき、初版冊数を増やすことはできないと言います。冊数が少ないと、営業もできず、やはり売り上げに響いてきます。ですので、印税変動型の契約によって初版冊数を増やすことを提案させていただきたいのです」


 契約の話になると、内容が高度になってきた。


 高校生の俺は、どうしても数字のことになるとピンとこないことが多くなる。しかし、靭崎が俺の作品は必ず売れる、と言ってくれていることだけは確かであった。


「ベストセラーにするには、初版冊数を増やすことは必須です。スタートダッシュはとても重要です。特にライトノベルは月に百冊以上も出版され、新刊としての寿命は短いのです」


 書店に行っても、新刊棚に並べられる本はすぐに入れ替わっている。


「そのために、作家先生のほうから最初に印税を拠出いただく形で負担していただき、初版冊数を増やします。その分、印税を15%に設定します。売れるチャンスを増やし、売れれば売れるほど先生に報酬を受け取ってもらえるシステムになります」


 靭崎の話はややこしくなってくる。


 昨日印税についてググったときは、こういう変動型の契約のことなんかどこにも載っていなかった。俺は思わず、どうしていいのか迷ってしまう。


「この契約は海外なんかでは当たり前のように行われているもので、初版冊数を増やしてビジネスチャンスを増やすという非常に合理的な方法です。日本は未だ印税を最初に決めて、初版冊数を出版社が管理することが多いんですが、これは欧米に比べて遅れていると言わざるを得ません。最初に言いましたように、KAZMA先生の作品はクオリティが高く、必ず売れると私も確信をもっております。なので、会社の言う通り初版三千冊では売り損じが生じ、大ヒットの妨げになると危惧しているんです」


 なるほど、俺が調べたのは日本のケースばかりだった。さすがに海外の出版事情を調べることは思いつかなかった。


 それにしても俺の作品はクオリティが高いだなんて、靭崎氏は信頼がおけるパートナーだ。


「ですので、今回『異世界ハーレム戦記』を出版するにあたりましては、初版三万冊を準備したいと考えています。私はそれだけの可能性とポテンシャルを秘めた作品だと考えています。そのために、KAZMA先生には印税の拠出金としまして、最初に150万円ほどご用意していただきたいのです。この契約ですと印税15%になりますので定価千円として一冊当たり印税150円、かけることの3万冊で450万円が先生に支払われることになります。初期投資の150万円を差し引いても、先生には初版だけで300万円お支払いできるということになります。いかがでしょうか?」


 300万円! 


 俺は今まで手に入れたことも見たこともない金額に、目を見開いた。よくテレビで見る帯付きの札束三つ分だ。


 印税固定の6%の場合、初版三千部なので60円×三千部の18万円にしかならない。18万円と、300万円。


 ただ、拠出金の150万円というのが気になる。


「あ、先生、最初の150万円の分は深く考えないでください。形式上の問題で、会社の経理的なものなんです。一旦先生から150万円をお預かりして、後日すぐに正式な印税として450万円を振り込みさせていただきます。最初から差額の300万円を振り込むと、会社の処理上の問題で経理に怒られるんですよ。そこは安心してもらえれば、大丈夫です。この150万円があるかないかで、売り上げがガツンと変わってきますからね。ドイツのブラッド・サッチンスキーという作家をご存知ですか? ファンタジー作家なんですがね、この制度を使って初版50万部発行して、デビュー作で一気にベストセラー作家になったんですよ。KAZMA先生も、サッチンスキーになる実力は十二分にあると考えております」


 サッチンスキーが誰かは知らないが、そんなドイツのファンタジー作家と肩を並べられて、俺はこれでもかというほど優越感に浸った。そういう具体的な成功例を聞かされると、チャレンジする気になる。


 だってそうだろう?


 つい先日まで俺は教室でもひとり、昼休みにはさっさとパンを食べて校舎の裏で自由時間が過ぎるのをじっと待っている生活だったのだ。自由に不自由しか感じない人生だった。それが、俺は今、こんなにも認められ評価されているのだ。


「その、150万円は、実際にお渡しすることになるんですよね?」


 ただひとつ、俺の夢が叶う途上において気になることがあった。印税の拠出金という150万円のこと。


 もちろん俺は金のために書籍化の夢を叶えたいとは、これっぽっちも考えていなかった。


 印税が初版三千冊18万円でも、まったく問題ない許容範囲だった。高校生にとって18万円でも、相当な大金である。


 しかし、もうひとつの印税変動制ならば300万円が手に入る。

いや、金額どうこうよりも初版で三万部発行できることが大きいのだ。それだけ多くの人の目に、俺の作品が目に留まり、売れる可能性が高くなるということが重要なのだ。


 新人作家はデビュー作が売れずに一冊で消えてしまう確率は非常に高い。売れなければ、それで終わり。二冊目が出せる保証などどこにもない。


 では、どうすれば売れるか? その確率を上げるひとつの手段が初版冊数を増やすことには違いないが、これは作家だけの力ではどうにもならない。


 しかし、靭崎は最初に俺が150万を捻出すれば、新人としては破格の初版三万部を準備してくれるという。


「はい。ご心配なさらずに、先生。一旦こちらでお預かりするだけの、形式上のことなんです。印税と一緒にお返しすることは決まっておりますので」


「そ、そうですか。でも、150万……」


 高校生の俺からすれば大金の150万円。俺の夢を叶えるための150万円。


 俺は書籍化することが夢ではなかった。もっとその先にある、大きな未来を見据えている。山本のように、売れるかどうか分からない一冊を書籍化して、満足するほど小さな男ではない。


 その明るい未来を得るために、150万は決して高いものではない。それに、印税としてすぐに450万円になって返ってくる。300万円儲かるのだ。これだけあれば、母にも何か買ってあげられるし、俺もパソコンが新調できる。


 そうだ、母が最近腰が痛いと言っていた。マッサージチェアを買ってあげると、喜ぶに違いない。


「先生、どうなさいますか?」


 考えるまでもない。これ以上考えることがあろうか?


「……少し、考えさせてもらってもいいですか?」


 俺の声は、少し震えていた。


 もちろん、俺の財布に150万円が入っていたならば、即答できる問題だ。


 だが俺は高校生で、そんな大金をもっているはずがない。


「もちろんです、先生。しかしですよ、私どもも一年後の創刊に向けて動き始めなくてはいけない時期なのです。万が一、KAZMA先生がNGとなると、次の作家さんを探さなければいけなくなり、困ったことになるのです。できれば、前向きなお答えを出していただけるよう、お願いします」


 靭崎は困った顔をして、まっすぐ俺の目を見つめてきた。


 すでに俺の「異世界ハーレム戦記」はストライクブックスにとって創刊プロジェクトの一部になっているのだ。俺の返事によってその扱いも変わってしまうということか。


「ですので、できるだけ早くお返事を頂けたらと思います。できれば数日以内に……」


 そう言って、靭崎はコーヒーを飲む。


「わ、分かりました。考えます……」


「よろしくお願いします。あと、くれぐれも書籍化決定のことは、内密にお願いします。ストライクブックスとして大々的にラノベ進出を発表する予定ですし、この情報が他社に漏れますとコンプライアンス的に良くありませんので。KAZMA先生の書籍化の件も、最悪白紙になってしまう可能性があります」


 靭崎は俺に向けて釘を打った。


 俺としてもここまできて書籍化白紙はありえない。


 ふと、山本に漏らしてしまったことが気にかかった。あいつは口が軽い。尾ひれをつけて誰かに喋っている可能性もある。月曜日にきつく口止めしておかねばならない。


「拠出金の決定をもって正式な契約となりますので、私もできるだけ早く契約をして実務に取り掛かりたいと考えていますので。絵師さんやデザイナーさんなどを探すのも、それからになりますので、できるだけ早い方がいい」


 最後にそう言い残し、「今後ともよろしくお願いします」と靭崎は伝票を持って喫茶店を出て行ってしまった。


 ひとり残された俺は、すっかり氷が溶けてしまったカフェオレを口に含み、カラカラになっていた口内を潤わせた。


「150万……」


 再び、思わず口に出てしまう。


 それだけ用意できれば、俺の小説はヒット間違いなしなのだ。


 まわりにはカップルや、家族連れ。ひとりになってみて初めて、まわりの会話が聞こえ出した。やがてその自分以外の人間から発せられる雑音が俺の思考を侵食し始め、いてもたってもいられなくなって席を立った。


 俺はいつも一人だった。学校でも、放課後も、自宅でも、俺にとって一人で過ごすことが日常で、自分以外の人間はすべて敵。すべて俺を排除しようとする敵だと考えていた。こうやって街中に一人でいると、その敵対心は増幅し、頭がおかしくなりそうになる。


 そこで信号待ちしている男が俺をバカにしている気がする。

 地下から階段を上がってきたカップルが、俺のことを笑っている気がする。


 呼び込みをしている電気店の店員が、俺にだけ声をかけない。

 ティッシュ配りのバイトが、俺の前を素通りする。

 全員、敵。俺の人生における敵だ。


 しかし、そんな俺を認めてくれる人が現れた。


 ストライクブックス靭崎ヒロト。

 俺の「異世界ハーレム戦記」の書籍化を担当してくれる編集者。数あるネット小説の中から、俺の作品を掘り出し、必ず売れるとお墨付きをくれた。


 あとは俺が150万円を用意すれば、ヒットが確定するようなもの。


 もし俺がベストセラー作家になったとしてら、まわりの目も変わるに違いない。


 町を歩いていても、すべての人間が敵ではなく、味方になるかもしれないのだ。


「あれ、KAZMA先生じゃね?」

「昨日テレビに出てたよね」

「うわ、俺ファンなんだ。握手してもらおうかな」

「バカ、いきなり失礼だよ。でもサイン欲しいな」

「すごいな、KAZMA先生に会えるなんて。夢みたい」


 俺は夢想した。

 認められるとはそういうことだ。俺は、すべての人に認められたい。

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