翌日、日曜日。
俺は自分の貯金通帳を眺めては、ため息を部屋中にまき散らしていた。そんなに浪費するタイプではない俺だが、これまでのお年玉を貯めに貯めた残額が8万円。これでもすごい額だと思うが、靭崎の言っていた150万円には1/10にも満たない。
「150万円……」
俺は気付けば念仏のように、そう唱えていた。
高校生の俺にとっては、自分一人でどうすることもできない金額だ。ここは無理をせずに、印税6%の初版三千冊で手を打つべきではないか?
それが普通だし、俺は金のために書籍化を目指していたわけじゃない。それは、自分の中で何度も自問自答を繰り返していた本音である。
それにこの初版三千冊が売れてしまえば、重版が出るのだ。最初のビジネスチャンスが少ないのは確かだが、なにもそれですべてが暗礁に乗り上げたわけではない。
本当に面白い俺の小説ならば、すぐに重版を繰り返して三万冊くらい、すぐに売れるはず。
これは決してネガティブな決断ではなく、現実を見据えたものだと、自分に言い聞かせた。
「やっぱり、断ろう。150万円なんて、用意できるわけがないし」
明日、学校から帰ってから靭崎に電話をして断ろう。
これは逃げではなく、現実的な判断だ。高校生の俺に150万円なんて大金、用意できるわけがないのだから。
月曜日。
俺は真っ先に山本に俺の「異世界ハーレム戦記」が書籍化することを口止めしようと考えていた。しかし、自分の教室にひとまず鞄を置きに来た瞬間、それがもう遅かったことに気づかされた。
「書籍化作家さんがいらっしゃったぞ!」
ひと際響くその大きくガサツな声。山本が俺のクラスにいた。
「書籍化が決まると社長出勤か。堂々としたもんだな、おい」
俺はいつもこの時間に登校している。お前みたいに書籍化が決まっただけで調子に乗るはずがないだろう、クソが。
先週こいつに書籍化のことを漏らしたことをひどく後悔した。こういう空気が読めず、口の軽い男だ、こいつは。
さっきから山本の声で俺のクラスメイトも、俺に向けて好奇な目を向けてくる。完全にバレてしまった。
「ナントカブックスの編集に会ってきたのかよ?」
ストライクブックスだよ。わざと間違って、俺を怒らそうとしてるのか? そんなところがガキだっつってんだよ。嫉妬する男は惨めってこと気づいた方がいいぞ。
「ああ。土曜日に」
「どうだった? 契約したのか?」
マジで山本は俺が書籍化することを嫉妬しているのだ。自分だけがこの学校で唯一の書籍化作家としてでかい顔できなくなって、その焦りから俺が騙されてるとかいう妄想で自分を守ろうとしているのだ。可哀そうな奴だ。他人の幸せを祝福できない奴が、成功するわけがない。いい反面教師だ、このバカは。
「印税とか、今後のスケジュールの話をしただけ……」
「そうか。先輩として忠告しといてやるよ、あのな……」
山本はお節介にも俺に講釈を垂れる気だ。先輩面しやがって。
しかし、危惧した通りこいつの口の軽さには辟易する。もはや口止めをする意味はないが、これ以上の拡散は止めておかねばならない。
「書籍化の話なんだけど、まだ内緒……」
このことはまだ内密にしてくれと言おうとしたら、それを遮るように吉岡が話に入ってきた。
「ちょっとちょっと、こいつの小説も本になんの? 嘘でしょ?」
吉岡は俺に背を向けて、まるで無視するように山本に話しかけた。相変わらず短いスカートで、俺は目のやり場に困る。
「らしいぜ。プロ作家さんだから、吉岡も媚び売っておいたほうがいいぜ。印税生活送るらしいからな」
ブハハと山本が下品に笑い、直後にチャイムの音がこの異様なスリーショットの空気を遮断した。
山本は小鼻を膨らませて自分の教室に戻って行き、吉岡もすぐさま俺には見向きもせずに自分の席へ戻る。まもなく担任の篠田がホームルームにやってきた。
篠田は中間テストが終わったばかりなのに、来月の期末テストの話をしてブーイングを食らっている。俺たち高二は定期テストの他に模試も受けさせられ、テストや評価という言葉に管理され続けている。来年の今ごろには志望校を絞り、受験モードに入っている生徒がほとんどになるだろう。
だが、俺は違う。お前らが予備校に行ったり、模試の判定に一喜一憂したり、赤本とにらめっこしたりしているとき、俺はプロ作家としてデビューしているのだ。お前らとは違うのだ。俺はすでに夢を叶えた側の人間だ。
すぐに大ヒットしてやる。すぐにお前らを見返してやる。結果という武器で、山本も、吉岡も、みんなぶっ殺してやる。
「150万円……」
俺はつい、ぽつりと呟いた。昨日から何度口にしただろうか。
150万あれば、初版三万冊。売れる確率が上がる。ベストセラー作家への近道。あいつらをギャフンと言わすことができる。
俺は昨晩、150万円を出さずに初版三千冊で手を打とうと決断していた。しかし、またも脳裏によみがえってくる。気が付けば、俺は繰り返す。
どうしようもない現実と、叶った事実の狭間で、俺は誰にも相談できない悩みが消えないでいた。
その日の昼休み。
俺はいつものルーティンワークで菓子パン二個をさっさと胃の中に処理し、自分の机でネタ帳を開き、作業をしようとしていた。靭崎から言われたあと二万字分の加筆と修正。これが書籍化作家として最初に与えられた仕事である。
もう校舎の裏に行ってこそこそ作業する必要もない。朝から山本のおかげで、俺が書籍化作家になったことは、このクラスでは周知の事実なのだ。
「ね、佐々木、聞いた? あいつの小説も本になるって?」
集中したいのに、俺の耳には雑音が流れ込んで来た。吉岡の声だ。
「らしいな。うちの学校って実はすごいんじゃないのか? 一気に二人も本を出すなんてな」
佐々木がどこか羨ましそうに、そう言った。
こいつは文芸部だけあって、本を出すということに対するリスペクトは多少持ちているのかもしれない。このクラスの中でも、俺の偉大さに最初に気づく男なのかもしれない。
「なにもすごくないじゃん! ライトノベルっていうんでしょ? あいつが書いてるキモイ小説? うちの弟に聞いたんだけどさ、キモオタが読む本なんでしょ? アニメっぽい表紙ばっかで、マジキモイ」
こいつはダメだ。ラノベを何も知らない癖しやがって、イメージだけで語るなクソビッチ。お前も周りからどんな風に思われてるのか教えてやろうか? ただのヤリマンのアバズレだよ。
「キモイとか言うなって。ああいうのも結構売れてるみたいだぜ。アニメ化とかゲーム化とかしてるみたいだし」
さすが佐々木。まあ最低限の知識はあるみたいだ。
「じゃあ佐々木、あんなの電車の中で堂々と読める? おっぱいの大きなキャラクターが半裸の服着てるような表紙の本よ? マジありえない」
「イラストだけで決めるなって。ストーリーが面白いっていう人もいるんだから。ちょっと空気読め」
佐々木がちらっと俺の方を見た。
吉岡は確実に俺を攻撃するために、ああやってマウントポジションを取ろうとしているのだ。これも山本と同じく、嫉妬だ。夢を叶えてビッグになろうとしている俺に向けての嫉妬である。
「でも、あいつの本が売れるわけないじゃん。異世界とかハーレムとか、そんな妄想しながら書いてるって考えただけでムリムリ。二次元と空想にしか興味ないとか異常じゃない? ほんと、すごい世の中だわ」
「お前も少女漫画とか読んで、誰がかっこいいとか言ってるだろ。それと一緒じゃないのか?」
「ぜんっぜん違う! 少女漫画とキモオタを一緒にしないでよ! それに、ネットで書いてたのが本になって調子乗るって、ダサいわよ。普通、なんかの賞を取ってデビューするもんじゃないの、小説家って? なんか安い夢よね。安いお下劣小説書いて、安いデビューして、それなのに自分がプロみたいな顔でさ。読者モデルみたいなもんでしょ? ネット上がりの作家なんて。ただの素人じゃん。図々しい、ね!」
俺は殺意の波動に目覚めた。殺してやる。
この何も知らないクソビッチが、ラノベを、俺を舐めるな。何が安いって? 誰がでかい顔したって? 悔しかったら、お前も書いてみろよ。お前みたいなスカスカの頭じゃ、その安い小説ですら書けるはずないがな。そんな俺以下のお前が、素人とかプロとか論じるな。クソが。
「言い過ぎだぞ、吉岡。売れるかもしれないじゃないか。現に出版するってことは、印税が入るんだから、立派なプロだよ。羨ましいよ、俺は」
「やけにあいつの肩もつじゃないの。まあ私には関係ないけどね、あんな本が売れようと売れまいが」
俺は耐え切れず、席を立った。これ以上ここにいると吉岡を殴ってしまいかねない。あいつは俺を挑発しているのだ。
何も知らないくせに、否定するバカには構っていられない。自分の知らないことを否定する愚かさは、自分の無知をさらけ出しているだけだ。バカの中のバカだ。
俺からしたらお前のその短いスカートも、頭のヘアピンも、ただの安い安い誰かの模倣じゃないか。お前もそんな恰好をして褒められたいんだろう? 認められたいんだろう? 男子からちやほやされたいんだろう?
むしろ俺と同じじゃないか。表現の方法が違うだけだ。なのに、俺だけを否定して、自分だけはいつも高いところにいますアピール? バカじゃねえの。どんだけ低レベルなんだ。
ラノベを舐めるな。ネット小説を舐めるな。俺を舐めるな。
俺は怒りにかまけて、奥歯を噛みしめながら校舎の裏に向かった。
今に見てろよ。俺は売れてやる。書籍化するだけで満足なんかしてないぞ。まだスタートラインに立っただけだ。誰がでかい顔してるんだ。
お前がラノベに対して持っているイメージを、俺が覆してやる。俺がラノベの価値を上げる。俺が、ラノベを背負ってやる。お前に認めさせてやる。謝らせてやる。
そのために、俺は必ず売れなくてはいけない。
「異世界ハーレム戦記」を大ヒットさせなくてはいけない。
俺ができる事、それははっきりしている。売れるために今すること、それはひとつしかない。
「150万円……!」
俺は、靭崎の提案を受け入れる覚悟ができた。あとは、その手段だけ。