売れることだけが正義。それがプロというものだ。
どれだけ面白く、出版社も自信満々で世に送り出した作品がまったく売れず、続編なんか出るわけもなくただちに絶版。そんな本はおそらく山ほどあるはずだ。
その原因は様々だろう。読者のニーズに合っていなかった。時代が早かった。そして、十分な数が読者の手に届かなかった。
需要に対してその供給が生き渡らなかった場合、それはビジネスチャンスを失い、二度と取り戻せないことが多い。
世の中には品薄商法と言ってわざと供給を絞り、消費者の渇望に乞うというマーケティングもあるらしいが、いかんせん出版業界においては当てはまらない。
しかも作家が新人であったならば、消費者がなんとしてでも買いたいという欲望がなかなかマックスまで溜まらないため、売っていなかった段階で諦められる。
そんな状況において、出版社ができることは初版を増やして、できるだけ読者の目に触れさせ、商品を生き渡らせること。ラノベの場合、表紙のイラストを描く絵師の知名度によってジャケ買いも期待できる。
そうなるとやはり、店頭に存在する、という事実が非常に重要なのだ。
KAZMAという「小説家になるぜ」から生まれた新人の俺が売れるためには、そういった泥臭い戦術が一番有効で、それ以外生きる道はない。どれだけ作品が面白くても、それを手に取って読んでもらわないことには、宝の持ちぐされである。
俺は決心した。150万円を支払い、初版三万冊を世に送り出す。
学校から帰ってきて、靭崎には印税変動制を受け入れる連絡を入れた。
「それが一番です。何も心配することはありませんよ。これはKAZMA先生の未来への投資なんですから」
と、靭崎は喜んでくれた。
彼の言う通り、何も心配はいらない話だった。一年後に発売されるとすぐに印税として450万円入ってくる。しかも俺の処女作「異世界ハーレム戦記」が売れる確率がぐんと上がる。
ギャンブルとか一か八かとかそういう類のものではなく、これはただの戦略なのだ。こういう風に戦略を立てて攻める。負けることなどない戦いなのである。
印税は初版刷冊数によって支払われるため、万が一売れなくても俺の手元には450万円が手に入るのだ。
負けるかもしれない、という賭けの要素や心配は一切ない。いや、売れないときのことなど考える必要はない。必ず、売れる。
それに、俺には売れなければいけない理由がある。
それは金の問題ではない。復讐、というと大げさかもしれないがそれに近い感情はある。俺は俺をバカにした奴らを見返さなくてはならない。
まずは山本。
俺の小説がつまらないだとか、オリジナリティがないとか、上から目線でバカにしやがった。俺は忘れていないぞ。書籍化が決まったと言ったときも、馬鹿にしくさったような態度で鼻をフガフガしたやがったな。俺を見出してくれたストライクブックスがチャレンジャーだって?
フガフガ二酸化炭素を排出するだけのお前のようなブタ野郎には分からないんだろうな。ストライクブックスが俺にどれだけ期待をしているのか。しょせんお前の本はまったく売れずに何百人といる烏合の衆作家のひとりで終わるんだよ。クソが。
そして吉岡。散々俺のことをキモイとか言ってくれたな。
俺だけじゃなく、ラノベまで侮辱してくれたな。ラノベはキモオタしか読まないだと? 読んだこともないお前が吐ける言葉じゃないぞ、クソビッチが。じゃあ俺も言ってやるよ。お前のクソ短いスカートの中のクソ汚いパンツが臭ってくるんだよ。嗅いだこともないけどな、くせーんだよ。ほれ、お前が言った言葉は、これと同じなんだよ。意味が分からないなら黙って死ね。
しかし俺の決心と勇断とは裏腹に、現実的な問題がある。どうやって高校生の俺が150万円を工面するか、だ。
この150万円、一年後には印税に含まれる形で450万円になって返ってくることが確定されている。質草と言えばそうだが、決して失う可能性がある金ではない、ということだ。すなわちリスクゼロ。
たとえば競馬で大本命の馬に150万円賭けたとしたら、それでも結構な割合で負け、一瞬でその元金150万円を失ってしまうことはよくある話だ。
しかしこれはそんなギャンブルではない。
この150万円を使って初版冊数を増やし、確実に売れる手段を取り、さらに確実に印税で返ってくる。
たった一年で三倍になる定期預金のようなものである。もれなく夢を乗せてやってくる定期預金。ノーリスクハイリターン。こんなに確実なことはない。
夢の担保とするには固すぎるのだが、いかんせん俺が今現在自由にできる150万円はどこにもないことが問題だった。借金をするにしても、銀行が未成年の俺に貸してくれるわけがないし、さすがにそんな大金を融通してくれる友人もいない。
そうなると、俺が150万円という大金を得るためには、親の力を借りることしかできない。
母から借りるのだ。
「母さんから、借りる……」
だが、俺はどうしたものかと悩む。すべての事情を打ち明けるかどうか。
俺の「異世界ハーレム戦記」が出版社から書籍化の打診を受け、そのために150万円が必要なのだと正直に話し、借りる方法。たぶんこれが一番スムーズで、問題が起こらない。息子のためならと、母も了承してくれる可能性は非常に高い。
しかしネックになるのは、俺がこういった小説を書いているということを、自ら打ち明けねばいけないことだ。
先日、担任の篠田から母へ俺がネットで小説を書いているということをバラされた一件がある。あのとき俺は、弁明も否定もせず、ただ有耶無耶にして終わらせている。もしかしたら母は俺がこういう小説を書いていることを承知しているかもしれないし、知らないかもしれないというあやふやな状態にあった。
ここで俺が直接に「実は小説を書いていて150万円が必要」と言うのは、自分でも少し虫が良すぎやしないかと考えていた。
なにより面と向かって自分の親に、こういったライトノベルというジャンルの小説を書いていることを暴露することが、恥ずかしかったのだ。
できることなら、事情を隠したまま150万円借りられないか?
これが150円ならば、理由もなく借りることができそうだが、いかんせん額が大きい。誤魔化すにも限度がある。
そこで俺は内緒で150万円を借りようと考えた。
そんなことできるのか? できるはず。俺にはぼんやりとすでに算段がついていたのだ。
それは俺の大学進学用に貯められている貯金だった。
うちは母一人子一人の母子家庭であり、決して裕福な家庭ではなかった。
それでも母は俺に不自由な思いはさせたくないと、俺が小さなころから大学進学用に貯金をしてくれているのだ。
俺としては、高校を出て大学進学にそうこだわりはなかった。もしお金がなくて進学できないとなれば、就職するという道を選ぶのも吝かではなかった。
しかし母は違った。母子家庭という環境で、一人息子に苦労はさせたくない、みんなと同じ生活をさせてあげたい、そう考えたのか、俺になんとしても大学に行ってほしいらしかった。
そのために母は俺へ進学に対するプレッシャーをかけるという意味もあって、進学貯金をしていることを明言していた。
私立大学への入学金と、4年間の授業料、しめて400万円余りが、この貯金にはすでに貯まっているはずだった。
母はいつも自慢のように、自分がほかの家庭の母親には劣っていないということを俺に示すように、この通帳の存在を示していた。俺にとっては大げさであったが、有難い話であるのは確かだった。本気で大学に行きたいと思ったとき、家庭の経済事情で進学できないということはなかったからだ。俺は母が作ってくれた環境に甘えていた。
プロ作家になれば、もはや大学などに通う必要もなくなってしまうが、現在の高二という状況では俺としては「大学にはいかない」とは言いにくい。
俺の大学進学は母にとっては親としての念願であり、頼まれると俺も断り切れない部分がある。親孝行としての一面もあるのかなと、少し考えるようになっていた。
そこで、この貯金から150万円をこっそり借りるのだ。
なに、一年後には必ず元に戻せる。大学進学用の資金としてはまったく問題なく、母にバレることもない。それに暗証番号も、母から俺に教えられていた。あくまでこれは俺が大学に進学するための、俺のお金ということだ。今150万円を抜いて、一年後また戻しても、なんら問題がない。
「それが一番いい。これしかない」
俺は母の寝室に忍び込み、押し入れの中のカラーボックスの抽斗に手をかけた。
これから俺がやろうとしていることは、母を騙すとか、お金を盗むとか、悪いことをするとかそういうこととは決して違う。俺のためのお金を一時的に借りるだけ。一年後にはまったく何も減ることなく、元に戻るのだ。何も問題がない。
そう、場所を移動するだけ。
たとえばその押し入れの中にある扇風機。これが冬の間にどこかに行っていたとしても誰も気づかないだろう。たとえば役目が終わった10月から5月の間、その存在がぽっかり消えていたとしても、六月なって押し入れに戻っていたらなんら問題ない。そうだろう?
この進学貯金もそう。
今はただここにあるだけで、必要とされていないお金だ。必要となるのは俺が受験をして入学金を払う段になってから。おそらく一年半以上後だ。それまでに一瞬出し入れがあったとしても、なんら問題ない。そうだろう?
俺は自分に強く言い聞かせた。
この通帳は、冬の扇風機なのだと。
夏までに戻せばいい。150万円も、一年後にきっちり戻せばいい。
「あった……」
俺はそっと、通帳を取り出した。
名義は橋由美子。母の名前だ。一緒に入っているキャッシュカードだけを抜きとり、俺は背後を確認して通帳を元に戻す。
大丈夫、何も問題ない。これはただの通過点である。夢を叶えるための、たった一瞬の出来事。神が見ていたとしても、俺をどうして咎められようか。
俺は通帳を握りしめ、銀行へ走った。
罪悪感? 悪いことをしている自覚がない。
良心の呵責? 夢を叶えようとする俺の行動を、誰が責められようか。
母への裏切り? これは俺のための金だ。俺の夢を叶えるための金。母も本望のはずだ。
ただひとつ誤算だったのが、銀行のATMでは一日に引き出す金額の上限が50万円までになっていたことだった。俺は三日間銀行に通うことになったが、三日後、俺の手の上には150万円の札束が乗っていた。
簡単なものだった。キャッシュカードは通帳と一緒にタンスの中に戻し、一年間このまま眠り続けるのだ。扇風機よりも、ひっそりと。