山本は店に入ってくると、わざわざ来てやった、というような迷惑そうな顔を浮かべては大声で「おう」と俺に向かって叫んだ。
その声に俺だけじゃなく、カウンターの老紳士、店員、奥のボックス席のカップル、全員が山本を振り向いた。そしてみんな思ったことだろう。「汗っかきのデブが来た」と。
「いやあ、校正が終わってゲラが返ってきたんだけどよ、これが真っ赤なんだよ。日本語って難しいよな。全部チェック入れられてさ、プロと仕事するのはやり甲斐があるぜ。あ、俺、コーラ」
騒々しくやって来ては、聞いてもいないことをベラベラ喋り、オーダーを取りに来た店員にコーラを頼む山本雄太。
再来月「異世界で始めるエリート生活」という本でデビューを飾るラノベ作家だ。
「それでさ、発売日に担当と書店回ることになってさ。それまでにサイン考えとけって。いろいろ面倒くさい仕事もあるんだな。作家って書いて終わりってわけじゃなく、営業にも付き合わされるんだぜ。お前も書籍化するんなら、もうちょい愛想よくしなきゃ、書店営業なんか行っても役立たずだぜ」
俺は黙って、カフェオレをストローで吸い込んだ。
店員がコーラを持ってきて、グラスをテーブルに置く前に山本が直接奪い取り、ごくごくと下品に飲んだ。
「おい、俺を呼び出しておいて、なんだよ。なんか用があるんだろ。俺は忙しいんだぞ。帰ってゲラチェックしなきゃいけないし、口絵のイラストに乗せるセリフ考えなきゃいけないんだ」
山本は額の汗をおしぼりで乱暴にふき取り、グラスの氷をかみ砕いた。こんな雑な性格で、こいつに書店営業なんかできるのだろうか? 俺は疑問に思う。
そして山本がグラスを置くのを見計らって、俺は切り出した。
「書籍化の話、なくなった……」
「あっそ」
山本がメニューを広げながら言った。飲み干したコーラの氷が、揺れる。
別に俺は慰められたかったわけじゃない。同情が欲しかったわけじゃない。バカにされる覚悟はちょっとしてた。それなのに山本はこの興味のない相槌ひとつ。俺は怒りを通り越して、なんだか虚しくなった。
いつもの俺ならば、ここで黙って席を立ち、帰っていたかもしれない。でも今の俺は、そんな行動をとれるほど自分に自信がなかった。すべての自信を失っていたから。
こんな奴に相談なんかしようと考えた俺がバカだったのかもしれない。最後まで、俺には人を見る目がなかった。とんだ気の迷いだ。弱っていたとはいえ、最後にこいつに謝って祝福しようだなんて、俺もバカなことを考えたものだ。やっぱり俺はこいつが大嫌いだ。
「そうだと思ったぜ。お前さ、TwitterのDMで書籍化の連絡が来たって言ってただろ?」
山本は追加のオーダーを諦めたのか、メニューを閉じ、肩ひじをついて俺を見てきた。こんな風にして、学校の奴とテーブル挟んで対等に話をするのは初めてかもしれない。
いや、高校に入ってからは初めてだ。俺は今までずっとひとりで、放課後も誰かと喫茶店に行ったり、遊びに行ったりしたことはなかった。
「そうだよ。ダイレクトメールが、来た」
「それがおかしいんだよ。普通、ネットで書いている小説に書籍化の打診がある場合は、必ずサイトの運営を通して連絡が来るんだよ。俺のときもそうだったし、直接作者のSNSとかに連絡が来るということは、詐欺のケースが多いんだよ」
俺は口を開けたまま、山本の顔を見つめた。
「一昔前はそういうのが流行ったみたいで、書籍化詐欺ってやつ? それで『小説家になろうぜ』の運営が必ず間に入ってやり取りするようになったんだよ。そもそも出版社は作者に書籍化の打診をする際に、サイトに登録して仲介金を払うんだよ。この作者に連絡を取りたいんでお願いしますってな。そうすることで出版社側にも責任が生じるし、むやみやたらな書籍化の打診ができなくなる。出版社もそんな顔がバレた状態では詐欺も働けなくなるだろ? ある種、作家側が守られるルールだわな」
そうだったのか。俺はそんなことすら知らなかった。
書籍化の連絡なんて、手段は何だってかまわないと考えていた。確かに、サイトを間に通すことによって、書籍化のオファーが公式なものとなり、出版社も簡単に嘘はつけなくなる。
ストライクブックスが俺に対してした打診なんかは、まるで保証のない非公式な打診だった。最初から俺を騙す気だったから、Twitterで直接連絡を取ってきたのだ。
「お前、知らなかったのか? 常識だぞ?」
なんで最初に書籍化の話をしたとき言ってくれなかったんだ、とは俺はとても言えない。俺が最初に山本に書籍化の報告に行ったときは、俺の方から話を拒絶したんだった。
「最近は出版社とプロ作家が示し合わせていて、連載する前から書籍化が決まってるっていうケースもあるみたいだけどな。あくまで噂だけど。なろうである程度ポイントを貯めて実績を作り、それから書籍化することで売り上げを稼ぎやすいって理由で。いきなりAV女優になるよりも、一旦アイドルグループに入って顔を売ったうえでAV進出するのとよく似てるよな。元アイドル、っていう看板を背負うみたいに。まあ俺ら、なんのコネもないただのネット作家には関係のない話だけどな」
「そんなの、それこそ詐欺じゃないか。プロ作家と出版社の出来レースじゃないか」
「そうだよ。出来レースだよ。でも、だからどうしたんだ? 書籍化もビジネスなんだ。この本が売れない世の中で、出版社側が考え出した戦略なんだよ。ネットである程度評価を得て、出版させる。出版社だって売れる保証がほしいんだ。俺らと一緒で」
山本が、知った顔で俺を説き伏せる。こいつは俺の知らないことをよく知っていて、俺が考えもしないことを考えている。
「じゃあ、俺らみたいなただのネット作家は、黙って諦めろって? 夢を追って小説を書くことを諦めろって? それは違うだろ。俺みたいな何のコネもない作家でもデビューできたんだ。まだ、ネット小説には夢は残ってるんだよ。まだまだこの夢の木には俺らがしがみつく、枝は残ってる」
そこまで言って、夢なんて言葉を吐いた自分が恥ずかしくなったのか、山本は再びメニューを開けて店員を呼んだ。
「チョコレートパフェひとつ」
そんな可愛いものを頼む前に、お前は鏡で自分の顔を見ろ、バカ。
山本は、この出版業界の現状や、ネット作家の現実を把握したうえで、自分にできる夢の追い方をしていたということなのだ。山本は山本で、おそらく挫折もあり、懊悩しながら「異世界で始めるエリート生活」を書いていたんだろう。
俺はそんなことを知らず、知ろうともせず、自分だけが特別だと信じ込んでいた。バカはきっと俺の方だった。
「まあ良かったじゃないか。早く気付けてよ。こういう書籍化詐欺って共同出版を持ちかけてきて、作者に金を出させてそのままトンズラするらしいぜ。作者としても自分の作品が本になるんならいくらか払っても仕方がないと思うだろうし、あっさり騙されるんだとよ。人の夢を食い物にするなんて、最低な奴らだよな」
最低な奴ら。ストライクブックスの靭崎。
俺はこの喫茶店で、あいつに見事に騙された。山本の言うように、あっさりと。
「おい。ほんとお前はいつも辛気臭い顔してるな。まあ今回は大金騙し取られなかっただけましと思えよ。書籍化の話がなくなったからって、死にゃしないんだからよ。まあお前の『異世界ハーレム戦記』だっけ? あのクオリティじゃ書籍化の道のりは遠そうだけどな。……おい、お前、聞いてるのか? 俺が柄にもなく慰めてやってるんだぞ? ていうか、お前、まさか……?」
店員がウエハースが二枚も乗ったチョコレートパフェを持ってきた。
声の大きなガサツなブタ野郎と、俯いたまま今にも泣きそうな男を見て、オーダーを間違ったかなと眉間に皺を寄せたが、伝票を見て合っていると分かりそっとチョコレートパフェを置いて、一目散に逃げていった。
「まさか、お前、金を騙し取られたんじゃないだろうな?」
その通りである。俺はそれに気づくのに二週間かかったが、さすがは山本。ものの数分でその答えにたどり着いた。伊達に太ってはいない。
俺は細長いスプーンを取り、山本の頼んだチョコレートパフェを引き寄せ、てっぺんの生クリームを一気に掬い取り、一気に食らってやった。甘い。
「おい、それは俺のパフェ……! まあ、いいよ」
山本の了解のもと、俺は一気にパフェをむさぼった。こんなに甘いものを食べたのはいつぶりだろうか。向かいに汗かきブタ野郎がいたとしても、美味いものは美味いのは、変えようのない世の摂理である。
「で、いくら払ったんだよ?」
俺が食べ終わるのを待って、山本が尋ねてきた。
「……150万」
「ひゃくごじゅうまん!?」
カバのくしゃみのような大声を出した山本に、店の中の視線が再び集まった。
「お前、マジか? ていうか、どこにそんな金あったんだ? え、150万も騙し取られて、お前は何のん気にパフェ食ってるんだよ?」
その後、俺はすべての経緯を山本に伝えた。
俺が山本に嫉妬していたことも、吉岡に侮辱されたことも、ストライクブックスの靭崎に会ったときのこと、褒められたこと、嬉しかったこと。そして大学進学貯金のこと、騙されたこと。
「……バカじゃねーの。お前、そんなにバカだったのか?」
山本は俺をこれでもかと罵倒した。同情するどころか、俺のことを何度もバカだとか世間知らずだとかアホだとか、愛のない言葉でタコ殴りにされた。俺はどこか、それが気持ちよかった。
「ああ。バカだよ、俺は」
これまで内緒にしていたことをすべて洗いざらいぶちまけたことで、俺の中でくすぶっていたドロドロで汚いものが、なんだか少しだけ削げ落ちたような気がした。山本による罵倒で、ほんの少しだけ、救われたような気がした。ただ俺が弱っていただけかもしれないけど。
「それで、どうすんだよ。警察には言わないのか? 言っても、たぶんウツボザキとかいう奴は捕まらないだろうな。今ごろ遠くにトンズラしてるだろうよ」
「バイトでもしようかなって思ってる。母さんにも、言わなきゃとは思ってる」
「当たり前だろ。150万なんて、とんでもない金だぞ。もう笑わなきゃやってられねぇよ。ブハハハ! ほら、お前も笑えよ!」
山本はまるで他人事のように笑ったが、当然他人事なので笑えるのであって、当事者の俺は笑えるはずがない。
「辛気臭い顔してたら、また騙されるぞ! 笑う門には福来るっていうだろ? もうお前くらい不幸な奴は笑うしか救われないぞ。ゲラゲラ笑っときゃ、これ以上不幸は打ち止めだよ」
そんな簡単に不幸が回避できたら、きっとこの世界で詐欺を働こうとする奴はいないはずだ。
夢を追う者、夢を叶える者、夢をあきらめる者、夢を搾取する者。
一番の勝ち組は誰だろう? 何も失わずに、誰も傷つけずに、夢を叶えることができるのだろうか。夢を叶えれば、すべては報われるのだろうか。
俺には分からない。もう二度と、分かることはない。
「まあ、そう落ち込むなよ。俺の印税が入ったら、なんか奢ってやるよ」
山本は一向に笑顔を見せようとしない俺に向かって、わざとそんな軽口を叩いた。
もしかしたらこいつはいい奴なのかもしれない。もっと、もっと早く気付けばよかった。
俺と山本は喫茶店を出て、夏休みの池袋の喧噪の中に立った。
人の波が、目の前で揺れている。あっちへ行き、こっちへ行き、立ち止まり、また歩く。ここにいるすべての人々にはそれぞれの生活があり、人生がある。なにかしら夢を持って、生きているに違いない。一億人いれば一憶の夢の形があり、その夢の泡は弾け、揺蕩い、ときに叶い、ときに諦める。
そんな夢の泡に囲まれて、俺の夢はもう消失してしまっている。
これからの人生、夢のない人生を送るほど、俺に生命力が備わっているだろうか。これから先の何十年、俺はこの挫折と失望を抱えて生きていけるだろうか。
夏の日差しが、俺にそう問いかけてくる。じりじりと迫る太陽の暑さが、俺に答えを迫る。
「じゃあな」
山本がそう言って、軽く手を上げた。
「ああ」
俺もそう答え、手を上げた。
山本の大きくてブサイクな背中が、雑踏の中に混ざっていく。夢の森の中に、消えていく。
俺は結局、山本に謝ることも、褒めることもできなかった。それだけが心残りではあった。なんだかやり残したような気になって、ちょっとだけ別れが寂しくなった。
すると突然、行ってしまったはずの山本が赤い顔をして、ずんずんと俺のもとへ戻ってきた。額から流れる汗を拭おうともせず。
「おい。ちゃんと二学期の始業式、学校に来いよ。俺もまだお前に言いたいことが山ほどあるんだからな。それまで、ちゃんと笑っとけ」
それだけ捲し立てると、再び山本はさっきよりも早足で人混みの中へ消えていった。
その山本の言葉に俺はもう笑うことも「ああ」と答えることもできなかった。
俺は映画でも見ている観客のように、離れていく山本と、俺の後ろ姿が見えていた。自分の後ろ姿を俯瞰して、すべてが終わっていくような、そんな気になっていた。
そろそろエンドロールが始まる。始めるしかないんだ。