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第28話 なろう作家は静かに死ぬ

 区切りのいいタイミングはいつだろうか。


 俺は夏休みの間ずっとそんなことを考えて過ごしていた。


 夏休みの課題も、お盆のあたりにはすべて片付いていて、俺がこの夏休みどれほど予定がなかったか想像するのは容易いことだろう。


 そうしているうちに山本との約束を思い出した。


 二学期の始業式に来いと、あいつは俺に当たり前のように言った。あれが約束という束縛と意志を持っているかどうかは分からない。


 だが俺は、その二学期の始業式までには決着をつけなくてはいけないと、それだけは決めていた。


 もう山本に会うつもりもなかったし、俺に二学期は来ない。永遠に。


 俺は決行の日を、8月31日に決めた。


 これが、俺のエンドロール。


 人生、最後の日――。



 8月30日。

 その日はちょうど日曜日で、母も仕事が休みで家にいた。


 俺は珍しく早起きをして、母が起きてくる前にご飯を炊いて、朝食を作ろうと考えていた。前日から買い物などをして冷蔵庫に入れておくと母にバレてしまうので、そんなに大げさなことはせず、ただあり合わせのものを使って味噌汁と、焼き魚くらいは作ろうと考えていた。これがサプライズというやつだろうか? 親孝行ってやつかも。


 ご飯が炊けたときのピーという音で、母は部屋から起き出してきた。


「何してるの?」


 休日の母はまだ眠たそうに、俺の行動を尋ねてくる。


「たまには、朝食でも作ろうと思って。座ってて」


 俺はちょうどボウルに卵を割っているところだった。


 悪だくみがバレてしまって、なんだか背中がむず痒くなってしまったが、今日のうちに親孝行のひとつくらいはやっておきたかった。


 すでに出来上がっていた味噌汁を温めなおし、塩鮭が入ったグリルにも火を入れる。卵はネギ入りの玉子焼きにしようと考えていた。


「贅沢な朝ごはんね」


 いつも母が作ってくれるものよりかは、見た目も味も保証はできない。


 俺は慣れない手つき最後の仕上げをして、食卓に並べる。母はそのぎこちない俺の手つきを見て、満足そうに微笑んでいた。


「できたよ。どうぞ」


「ありがとう。いただきます」


 母が手を合わせ、俺が作った朝食を食べる。「うん、美味しい」と一言。俺もそれを合図に食べてみる。味噌汁が、思っていた以上に塩辛かった。


「どういう風の吹きまわし? いきなり朝ごはんなんか作っちゃって」


「別に」


 これは俺の償いであった。


 こんなことをして許されるはずがないことは百も承知であるが、親孝行をしなきゃと思った時に思いついたのが、この朝食を作るという行為だった。なんて容易なイメージなのだと自分でも情けなくなったが、今の俺ができることはこれくらいしかない。


「おかしいわね、和馬。何か隠してるんじゃないの?」


 とりあえず、否定しなきゃ、と本能的に思えば思うほど、言葉は喉の奥で詰まってしまう。


 しかし俺は今日、すべてを母に話すつもりだった。


 もう、夏休みが終わってしまう。すべてが終わってしまう。最後に母に、母にだけはすべてを話しておかなければならない。


「いや、なにも……」


 俺は怖くて誤魔化し、母は箸を置いた。


 俺は嘘をつくのが下手なのだ。そして母は、俺の異様な態度を見抜いてしまっているかもしれない。


 俺は今までどれだけ母に嘘をついてきただろうか。


 学校では優等生で友達もたくさんいるという出来のいい息子を演じていた。実際はいつもひとりで、孤独で陰キャラだというのに。クラスにはまともに話せる友達なんかいないし、隠れてこそこそネットで小説を書いているだけだった。


 これは母を心配させたくないという、俺なりの優しい嘘だったはずだ。


 でも、それは違った。俺自身を守るための嘘だったんだ。俺自身、そんな現実を受け入れられなかっただけ。嘘という鎧で身と心を固め、決して本当の自分を見られないようにした。強がりと虚栄心。


 いや、それも違う。


 自分でも本当の自分を見ないようにしてたんだ。鏡に映る自分の情けない姿を認めたくなかったんだ。こんな陰キャラ、俺じゃない。キモイと言われて、教室の隅っこで顔を伏せ続けている情けない男。自分の願望を自作の小説に込めてにやけていキモイ男。こんなの俺なわけがない。俺であるべきではない。


 だから、隠した。本当の姿を。だから偽った。本当の心を。


 実はみんなと仲良くしたかった。ボッチが耐えられなかった。本当はもっと、笑っていたかった。


 俺は自分の都合のいいように嘘をついて、自分を守っていた。


 母を俺の嘘の被害者にまで仕立て上げて、俺が守りたかったのは情けない自分自身。現実はこんなにも脆いのに、自分はこんなにも弱いのに、それを認めたくなかっただけ。


 自分を肯定することから逃げ、圧倒的に周りを否定して、俺だけの王国を作り上げて、想像の中だけでちやほやされてた。


 その王国こそが俺にとっては小説であった。「異世界ハーレム戦記」という自分にだけ都合の良い王国を作り上げ、それで満足しようとしていた。


 俺の作る王国の中では、俺だけが王になれるんだ。女の子が俺に寄って来てくれるし、戦えば最強なんだ。みんなが俺を敬って、笑って暮らしていける俺だけの王国。


 こんなに素晴らしいことはない。現実なんてなんの価値もなく、すべての歓びはこの王国の中にしかない。


 俺の王国を否定する者は、すべて敵。山本も、吉岡も、レベルの低い読者も、靭崎も、みんな敵。


 かわいいかわいい俺を守るために、敵を作り上げては排除し、王国の中に逃げ込んだ。


 すべては弱い自分が招いた現実。それを受け入れることができなかった俺の弱さ。


「和馬、大丈夫よ。母さん、ぜんぶ分かってるから」


 何も言わなくなった俺に向かって、母が語り掛けてきた。


 塩辛い味噌汁の中に広がる波紋。

 俺はいつの間にか、涙をこぼしていた。


「母さん、知ってるから。和馬が何をしたいのか、どんな夢を持っているのか。……どんなつらい思いをしたのか」


 母の言葉だけが、耳に入ってくる。

 知ってるって、何を? 俺の夢?


 頬をつたい、流れ落ちる涙は味噌汁の中にこぼれていく。これ以上、塩辛くするわけにはいかないので、急いで涙を拭く。


「篠田先生から相談されたことがあったでしょ? 先生はね、和馬が小説を書いているせいでテストの成績が悪くなってるんじゃないかって、そうおっしゃってたの。もうちょっと趣味と勉強のバランスを考えた方がいいんじゃないかってね」


 篠田の言いそうなことだ。学校においては成績がすべてだ。成績が良ければ許されることが増え、悪ければ原因を洗い出し矯正しなければいけない。それが学校であり、担任のすべきことである。俺は、否定するつもりはない。


「でも、母さんはそれが悪いことだとは思ってないのよ。勉強して成績を上げなくちゃ叶わない夢もあるし、勉強しなくても叶う夢もある。……和馬の夢は、どっち?」


 俺は胸を突かれたような気がして、思わず息を飲んだ。


 すっと顔を上げると、そこには微笑む母の顔。いつも俺に向けられる、やさしい笑顔。


 母は、俺の夢を理解してくれようとしているのか? すべてを知った上で、俺が周りも見えずにただひたすら追い求め、その結果粉々に砕け散った夢を、書籍化作家になるという夢を、認めてくれるのか?


「母さんもいろいろ勉強したのよ。『小説家になろうぜ』っていうのよね。和馬、なかなか話してくれないから、私もネットでいろいろ読んじゃったわよ。異世界モノが流行りなんですって?」


 母から異世界という言葉が出てきて、俺は猛烈に恥ずかしくなった。


 やめてくれ、そう叫びたくなったが、俺はしゃっくりが止まらなくなってもう何も言えない状態だった。


 何より母がネット小説を読んでいるということは――。


「和馬の小説も読んだわよ」


 俺は反射的に立ちあがり、部屋に逃げ込もうとした。


 おそらく顔は真っ赤に違いない。母にだけは、母にだけは読まれることを避けたかった。そのために、俺は色々と間違った道を歩んで来たのに。母に嘘をつき、そして黙って150万円も……。


「待って、和馬! 聞いて! 山本君が教えてくれたのよ!」


 母が俺を逃がさないために取り出した武器、それは山本という名前。俺も立ち止まるしかなかった。なぜ、母から山本の名が? いったい、どういうことだ。


「山本君がね、いろいろ教えてくれたの。この前、私が仕事から帰ってきたら家の前で待っててくれたの。『橋君の友達の山本です』って言って、相談があるって。母さん、何事かと思ったけど」


 何が友達だ。友達、なわけあるか。


 あいつ、いつの間に母に近づいて、何を吹き込んだんだ? まさか、150万円のことも全部、告げ口しやがったのか? 


 信用して、あいつに打ち明けた俺がバカだった。やはり山本は山本、ただのクソブタ野郎だったということか。


「山本君を責めちゃダメよ。山本君も小説を書いてるんだってね。今度本になるって聞いたわよ。それで、和馬に悪いことしたかもしれないって心配してくれてたのよ。一緒にがんばって小説を書いてたのに、自分だけが先に書籍化したから、和馬を焦らせてしまったかもしれない、だから、和馬は悪くないって……。だから、許してあげて、ほしい、って……」


 母は顔を押さえて、嗚咽を漏らした。


 あのブタ野郎、どの口で許してほしいなんてことを言ってるんだ。友達ヅラしやがって、何が焦らしただ。俺は、焦ったわけじゃない。


 だけど、だけど――。


「和馬、私は知ってたのよ。150万円のこと。大学進学のための目標の金額が貯まったけど、母さん毎月それでも何かの足しになればと思ってちょっとずつ振り込んでたのよ。それで、先月の給料日に振り込みに行ったら、ちょうど150万円減ってて、腰が抜けそうになったわよ。でも、何か理由があるんだと思って、ね?」


 バレていた。すべて、母には筒抜けだったのだ。


 この一か月間、俺が150万円を勝手に下ろしたことを勘付いていたのだ。


 それなのに俺は、何も知らん顔で母と過ごしていた。間抜けそのものじゃないか。ただのバカじゃないか。


 俺は山本への怒りから一転、顔が真っ青になって背筋が冷えているのを感じた。


 立っているものの、床の感触や今このキッチンの空気、すべての温度を失っている。極寒の空間で、俺はただ母の話を聞いているしかできなかった。


「和馬、あなたがやったこと、内緒でやったこと、それは許されることじゃないと思ってます。でも、あなたは自分の夢を叶えるためにやったことで、母さんはそれを責めることはできない。もし私も同じ立場だったら、同じことをしていたかもしれない」


 俺はそのとき、食卓の醤油の蓋が半開きになっているのに気づいて、「ああ、醤油が倒れたら大変だなぁ」なんてどうでもいいことを考えていた。


 なんだか自分はまったく関係のない傍観者でいようとした。


 俺は母の話から、本能的に逃げようとしていたのかもしれない。


「それで山本君は和馬のこと、心配してたの。もしかしたら和馬がこれをきっかけに夢を諦めてしまうかもしれないって。もう小説を書かなくなってしまうかもしれないって。そうならないように、和馬を許してやってくれって、山本君は私に頭を下げたのよ」


 何を勝手なことを言ってるんだ、あのバカ。友達ヅラして、なんだよ、あいつ。


 あいつに、頭を、下げられるほど、俺の夢は……、俺の夢は……。


 俺の涙は止まらなくなっていた。


 俺はまだ、夢に未練があるのか? あっけなく騙されて、崩れ去った夢が、諦められないというのか?


 現にまだ、ネットの「異世界ハーレム戦記」は消さずに残している。なんて未練たらしい男だろうか。もうすべてを終わらせるって決めたのに、俺はなんて厚かましい男なんだ。


「あなたの夢は小説家になること。もしその夢を諦めようとしているんだったら、それは間違いよ。だって、あなたの夢はあなただけのものじゃないの。もう母さんの夢でもあるし、友達の山本君の夢でもある。それに、和馬の小説を待ってる読者の夢でもあるのよ」


「……夢」


 俺は絞り出すように、そう呟いた。


「母さんは和馬が小説家になるのを見たいもの。だから、和馬が小説家になれるように応援したいの。もうあなたは自分の夢を叶えること以上に、私たちの夢を叶える義務があるのよ? もう母さんは読んじゃったんだから。あなたの小説。異世界ハー……」


「ああ!! 母さん、いいから!」


 俺は思わず母にそのタイトルを口に出さないように、必死で遮った。


「だからあなたは変なことを考えずに、高校に通って、小説を書いて、行く気になったら大学に行って、また小説を書いて、夢を叶えればいいの。あなたはまだ高校二年生よ? 夢が一度破れたくらいで諦めるほど老けちゃいないの。躓けば、いくらでも立ち上がれる。あなたは死ぬまでこのまま倒れたまま? そんなわけないでしょ。歩きなさい。まだあなたの夢は、まだまだ先。こんなところで叶うものでもなく、まだまだ先にあるのよ。だから、和馬と母さんの夢を、叶えて」


 最後に付け加えるように、母は「そのときまであのお金は貸しておくからね」と、さっきよりも小さな声で囁いた。


 そして再び箸を持って、俺が作った塩辛い朝食を何度も「おいしいわね」と言いながら食べ始めた。


 これが、最後だったはずの、俺の親孝行。


 俺は、どうすればいい?


 全部バレてた。小説のこと、150万円のこと、騙されたこと。


 俺は今日、母にすべてを告げて、明日には死のうと思っていた。


 それが俺の夢の成れの果て。エンドロールになるはずだった。


 でも、これじゃ、死ねないよ。諦められないよ。


 俺は立ったまま、あふれる涙を止めることができなかった。バカな母さん。バカな山本。そしてバカな俺。俺の周りはバカだらけ。


「俺……、俺、どうしたら……」


「生きなさい。夢に向かって」


 母の声は力強く、そしてしっかりと俺の背中を押してくれた。


「いつか笑える日が来るまで、ね?」


 これからも俺の夢が紡がれる、そんな温かい気持ちになった。



 8月31日。

 夏休み最終日。すべて終わらそうと思っていた日。


 俺はサイトを開き、久しぶりに自分のマイページを確認した。案の定、「異世界ハーレム戦記」のPV数はほとんど伸びておらず、閑古鳥が鳴いていた。


 自分の中ではもう終わった気でいたが、実際こうやって確認してみて、誰もこの駄作を望んでいなかったらしい。この現実は虚しさよりも、どこか清々しくもある。


 続けて「KAZMA」のユーザー情報編集ページに進む。


「退会手続きはこちら」をクリック。


「あなたは1人からお気に入りユーザ登録されています」という、お節介でしかないメッセージが現れる。たった一人。今さらそんなもんで心が揺れるか。


 俺は退会理由に「次の夢に進むため」と、意味不明なコメントを残し、『小説家になろうぜ』を退会した。


 これで完全にKAZMAの「異世界ハーレム戦記」も消え去った。


 こうして、なろう作家KAZMAは、静かに死んだ。



 9月1日。

 俺は、高校の二学期の始業式に出ていた。


 朝、廊下で山本とすれ違ったとき、あいつはあろうことか俺に気づかず通り過ぎやがった。


 お前、あのときの約束はなんだったんだ。それに、友達のふりして俺の母にまで会って余計なこと喋りやがって。お前は本当にイヤな奴だ。俺に一言くらい、なんかあるだろうが。俺がこうやって学校に来てるのは、半分はお前のせいなんだぞ。


「おい、橋」


 キレそうになりながら、自分の教室に入ろうとしたとき、背中に大きな声がぶつけられた。


「お前の小説、消えてたぞ」


 唯一、KAZMAをお気に入りユーザに登録していた山本雄太が、また余計なことを言ってくる。


「新作に取り組むなら早い方がいいぞ。日々書いていないと、腕が鈍るからな。ていうか、お前には鈍るほどの腕はなかったか。ブハハ!」


 俺はその山本の笑い声を無視して、教室に入った。


 クラスは一学期と何も変わらないようで、ひとりぼっちの俺を機械的に受け入れた。


 俺は、昨日死んだ。そして、今日生まれ変わろうとしている。


「おはよう」


 教室に入って、俺がそう小さく呟くと、みんなの視線が集まった。


 俺みたいな陰キャがまさか挨拶するなんて誰も思っていなかっただろう。それでも俺は必死で笑って、さっきより大きな声でもう一度「おはよう」と声に出した。


 最低を経験して生まれ変わった俺にはもう笑うことしかできない。笑う門には福来る、だっけ?


 そんな俺を見て、吉岡と佐々木が目を丸くして、何事かと驚いている。


 人は何度でも生まれ変われる。俺だって、生まれ変わることができるはずだ。


 エンドロールの向こう側には、まだ夢が残っているから。


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