泣いていたミツキさんが落ち着いたのは、帰宅を促すチャイムが鳴るような時刻だった。
「本当にごめんなさい。ちょっとだけ待ってて」
トイレに入ったミツキさんが、十五分後に出てくる。真っ赤に腫れていたはずの目元は、ほとんど元に戻っていた。
「メイクで隠したんです」
気まずそうに言う彼女だが、俺はとんでもなく驚いてしまって、まじまじと彼女の顔を見つめる。
「ちょ、ちょっと、恥ずかしいです」
「ご、ごめん……!」
慌てて謝りながら、薄暗い校舎を一緒に歩く。人気はほとんどない。玄関も誰もいなくて、俺とミツキさんが一緒に帰っていることを気にする人は、誰もいなかった。
夕空は夏の気配を感じさせる。遠く高く伸びあがる雲のてっぺんに、西日の名残がオレンジ色に輝いていた。
「知りませんでした。三郎くんと、帰り道いっしょだったんですね」
「途中でバスに乗るから、気づかなかったのかも」
「もったいなかったです……気づいていたら、フリーペーパーのデザイン、どうやって作ったのか、検討段階から詳しく聞けたのに」
唇を尖らせるミツキさんが、A4ファイルに入れたフリーペーパーを取り出した。
「このね、紙の質感と、この書体がすごく好きなんです。あと、この色使いも……」
ミツキさんはパンフレットの隅々まで目を凝らし、俺のデザインの好きなところを熱心に語りだす。完璧主義なミツキさんにそんな風に褒めてもらえると、流石に俺は嬉しさが隠せなくて、口元が緩むのを感じていた。
そんな時、背後から親しげな声が聞こえた。
「あれ? ミツキじゃん! こんなところで何してんの?」
振り返ると、そこに立っていたのは、ミツキさんと同じチア部で同学年の、飯田ケイさんだった。明るい茶髪をポニーテールにしていて、見るからに活発そうな雰囲気を放っている。
俺自身は飯田さんと会話したことはない。が、休み時間にウチのクラスに来て、ミツキさんと話している姿をよく目にする。なので、一方的に名前も顔も知っていた。
「ケイ! どうしてここに? 今日はチア部の練習、陸上競技場の方じゃ……」
ミツキさんは一瞬顔を引きつらせたが、すぐに完璧な笑顔を取り戻した。飯田さんはというと、探るような視線で、俺とミツキさんを交互に見る。
「ちょっと忘れ物。ってか、そっちの彼氏……じゃないよね? 誰?」
俺とミツキさんが急に親しくしている状況に、違和感を感じているのがありありとわかる。
蓮実先輩も、ミツキさんも、創作同好会のことは俺や活動の許可をくれた先生たち以外、誰にも話していないらしい。飯田さんが知らないのも、無理はないだろう。
すると。
「あ、あのね、ケイ。彼は大岡三郎くん……幼馴染なの! たまに一緒に帰っていて」
「幼馴染ぃ? へぇ……知らなかったなー、ミツキにそんな幼馴染がいたなんて。ま、いっか。じゃあ、一緒に帰ろっか!」
飯田さんは一応納得したようだが、それでもまだ疑いの眼差しを俺に向けている気がした。そして、当然のように一緒に歩き出す。
当然のごとく、俺と飯田さんの間に会話はない。
飯田さんに部活のことについて話しかけられながら、ミツキさんが動揺しているのが見て取れる。
高校から数百メートルは離れたところで、ミツキさんが意を決した様子で足を止めた。
「……私の家、こっちの道だから。あの、三郎くん、また、ね。ケイ、あとで連絡するから」
「おっけー! ばいばーい! また部活でね!」
ミツキさんは何度もこちらを振り返りながら、立ち去っていく。俺はどうすべきか悩みながら、実際はほとんどロクな考えが思い浮かばずにいた。
「ねぇ、あなた」
先に口を開いたのは飯田さんだった。その声は、ミツキさんと話していた時とは打って変わって、冷たい響きを帯びていた。
「ミツキのクラスの子でしょ? それで、いつもこのバス停使ってる」
「ええ、まあ……はい」
「そうだと思った。どこかで見た顔だもん。部活してないでしょ? だからたまにしか会わないのね」
到着したバス停には、俺と飯田さんの二人きり。途端に、沈黙が重くのしかかる。
「あのね。ミツキはね、チア部のエースで、みんなの憧れなの。これからだって、もっともっと上を目指せる。うちの部活、今、最高にノッてるの」
飯田さんは真っ直ぐに俺の目を見て、容赦なく言い放った。
「悪いけど、あなたみたいな、イケメンでもオタクでもない、何にも尖ってないごく普通過ぎる奴が、急にミツキのそばにいるのが気に食わないの。ぶっちゃけ、警戒してる。ミツキは部を引っ張る立場なんだから、変な奴に邪魔されても困るのよね」
……まあ、否定はしない。俺は確かに、どこにでもいるような、ごく普通の高校生だ。
でも。俺の胸に、カチンとくるものが湧き上がった。
この女は一体何様のつもりなんだろう。ミツキさんのことを思っているのはわかるが、あまりにも傲慢だ。
「俺は、別に邪魔するつもりなんてありません。それに……」
言いかけたところで、俺はふとミツキさんの詩を思い出した。ミツキさんが、俺に、何より世界に向けて見せた、心の奥底を綴った詩。
スマホを取り出し、画像だけをアップにした状態で彼女につきつける。
「……どう思いますか?」
「は?」
ケイはあからさまに嫌そうな顔をした。一瞥するや否や。
「なにこれ? あんたが書いてるの? キモ」
ああ、やっぱりこういう反応になるのか。落胆と納得が一緒に胸に来る。
他者から見たとき、どのように見えるのか理解することは大切だ。人は、まず見た目や肩書で判断する。
装丁は、本の「顔」だ。確かに、どんなに素晴らしい内容でも、装丁が魅力的でなければ、手に取ってもらえないことは多い。
さらに著者やその肩書は、本の中身を判断するための材料となる。
でも、見た目だけがすべてじゃない。中身には、計り知れない価値がある。ミツキさんの詩には、人を感動させる力がある。
―― 価値があると知らしめるために見た目を整えるべきなのか。
蓮実先輩が悩んでいたのは、きっとこのことなのだろう。ミツキさんは薄々気づいていて、だけど自分の納得のいく形が見つからなかった。
その時、バスが遠くから近づいてくるのが見えた。俺はバスには乗らない。飯田さんがさっさと乗っていく背中に向けて、はっきりと言い放った。
「俺、君が嫌いだ」
「……―― は?」
俺が踵を返して歩き出す。ちょっと遠回りだけど、電車で最寄り駅まで行こうと思った。何より、飯田さんが追いかけてくる気配はない。
夕暮れ空が、夜に近づいていく。ミツキさんは今頃どうしているのか、そんなことが気になった。
ミツキさんが隠そうとしている、不器用で、傷つきやすい「弱さ」。だけど、その弱さこそが、彼女の詩を産み出している。
(中身、かぁ……)
俺は自分がなぜ、装丁にのめりこむようになったのか、そのきっかけを思い出していた。