第一章 一九九九年 地
就職活動をしていると人に聞かれたならば、「まず髪を切ったら?」とアドバイスされ
ることだろう。
正確には就職活動をしていた…… のはずだ。
たぶん、昨日。
四条竜之助は昨日、首を吊った。その原因を他者が安易に推測するのならば、「大学を
卒業したのに未だに就職が決まらないことに悲観して」ということになるかもしれない。
「就職氷河期なのだから仕方がない」なんてことは四条竜之助の頭にはチラとも浮かば
なかったろう。浮かんだのならば首をくくりはしない。
診察室で四条竜之助は医者の方を見ようとはせず、患者をリラックスさせるためなのか
BGMのように点灯されているテレビ画面を見ていた。
四条竜之助の髪は長く、肩まで届こうかという塩梅だ。相撲道に入門した力士がまだ髷
は結えないといったような長さか。
もっとも、多少肉付きはあるけれど、度を越して太っているというわけではない。就職活動のことばかり考えてしまうノイローゼ気味で食は細くなっていたはずなのだが、食べ
るから太っている、食べないから瘦せている、という単純な話ではないのだ。
もちろん眼鏡はかけている。黒縁の眼鏡を。勉強のしすぎではない。スーパーファミコ
ンのやりすぎだろう。
彼の家は母子家庭でお金もなかったから、中古ショップで買ってきたスーファミをやっ
て時間を潰すしかなかった。もちろん、NINTENDO64を買うお金はない。
顔にはニキビがまだ残っていてあどけなさがある。「まだ身長が伸びています」と言わ
れても信じてしまいそうなくらいだ。実際に百七十センチメートル台後半の背丈はある。
大学在学中にも背は伸びた。おそらく、二十歳を過ぎても多くの人は背が伸びる可能性を
秘めているのだろうが、酒を飲むせいで成長がストップしてしまうのではないか。
診察室の中で椅子に座っている今、座高はそれほどないけれど。
喋るたびにデプッと膨らむ頬が特徴的だ。彼にとっては特に意識せずに赤みを帯びる頬
っぺたがコンプレックスだった。
白いシャツとジーンズの姿。
テレビ画面では、横浜高校時代に甲子園の怪物といわれ、現在は西武ライオンズに入団
した大型ルーキーの■■■■(※注 編集の都合上、伏せ字になっています)投手が日本ハムの打者から三振を奪っていた。
四条竜之助はその大物新人の存在を疎ましく思う。高校生当時の■■が甲子園で躍動す
るのを見て、大学生だった四条は「自分より年下の人間がこんなにも才能を発揮するなん
て神様は不平等だ…… 」と辟易していた。
『一九九九年四月七日は、この■■■■が東京ドームでプロ初登板を飾った日として、
永遠に記憶されることでしょう』という実況アナウンサーの声が聞こえる。
うん?と四条竜之助は思う。
自分が自殺をした日。就職活動の時の習慣でその日も何事でもないように新聞の朝刊を
見た。まるでこれから自殺をする予定なんて無いような素振りで。本来お金はないけれど
も、就職活動のためにと母に頼んで購読し始めた新聞だ。
その日の新聞は四月二日ではなかったか?
いや。自殺を図った次の日に、診察を受けていると自分が自覚できるのはおかしな話だ
と四条竜之助は思った。
自殺未遂の影響で数日間、昏倒していたのだろう。間違いない。
四条竜之助は、自分が目覚めた場面というものを正確に記憶していなかった。人間誰一人として「たった今、物心が芽生えた」という瞬間を記憶していないのと同様に。
正確には、記憶に問題がある。自殺の次の記憶が診察室だという話だ。目覚める前は、
火葬場の棺桶の中で生きたまま燃やされるという薄っすらとした夢の記憶。
「四条竜之助さん。医師の小石川正義(こいしかわ・まさよし)と言います」
四条竜之助は改めてその部屋を観察した。
自分が座っている椅子。その対面に小石川と名乗る白衣を着て白髪交じりの還暦くらい
の男。金縁の丸眼鏡。小学校の校長先生といわれれば信じるだろう。白衣の下には薄茶色
いジャケットとズボンを着ている。
四条の向かって右斜め後ろに母と思しき中年の女性がいる。
四条竜之助と小石川の椅子は四条から向かって左側の壁に近く、左側の壁には診察デス
クが備わっている。向かって右側の方が右側の壁との空間が広くできており、向かって右
側の壁の方にある台の上にテレビが置かれている。本来は、水槽なんかがあるかもしれな
いが、この場所ではテレビだ。
それにしても…… 、日本ハム対西武の試合が放送されている。しかも、プレイボールし
たばかり。衛星放送だろうか。それとも、特別な一戦だから全国中継されているのか?
「ご自分のお名前が分かりますか?」
四条竜之助は、癇に障ったようで頬を上下させる。
「バカにしてるんですか?四条竜之助さん、と今、僕に言ったでしょう」
「…… 」
四条竜之助は、小石川の視線がまるで自分の長髪を咎めているようだと感じた。そのま
ま言葉にして言ってみせる。
「なんですか?就職活動をしてるのに何だこの髪は、とか思ってますか?就職活動をする
なら清潔感のある髪がいいって?でも、就職浪人というくらいだから浪人ならば昔の侍み
たいに髪を伸ばそうと思ったのかも。それとも、就職が決まるまで髪を切らないというゲ
ン担ぎ。もしくは、長髪のせいで就職できないと自分に言い聞かせるための免罪符かも?」
四条竜之助はデプッとした頬を赤くして、まくし立てた。頬が上下する。
四条は言い放ってしまうと、途端に熱が冷めた。冷蔵庫で冷やしたコーラのようにキン
キンに冷える。
小石川医師は「…… 」と応答に困る。
就活のために色々と本を読んでいて、その中で精神病の一つ「精神分裂病」という病名
を目にしたことが四条にはあった。
「すみません。これが被害妄想ってやつですか」
被害妄想は「精神分裂病」の症状の一つだ。
「四条さん。あなたには記憶の欠落があるようです。ここ最近のことで覚えていらっしゃ
ることがあったら教えてください」
「そんな…… 。首くくった前のことは覚えてないですよ」
「精神病」と題された書籍の中に飛び込んでしまったような気持ちの四条。
「こっちは就職浪人なんだ。むしろ、死にたくならないとしたら、その方が正気じゃない
んじゃないですかねえ」
小石川は静かに頷いた。あまり自殺のことを思い出させるのは得策ではないのだろう。
四条竜之助は思った。小石川正義は精神科医だ。自殺未遂をした自分は母に連れられて
心療内科というべきか精神科というべきかに来ているのだ、と。
「まあ。記憶の方は無理をして思い出すこともありません。何か日常で気付いたこと感じ
たことをメモ帳に書き留めておいて時々読み返してみると良いという可能性もあるから、
これを渡しておくね。現在の自分を文章で把握することで、過去のものを掘り起こせるか
もしれないしね」
小石川医師は四条に一冊のメモ帳を渡した。中身はルーズリーフ形式で一枚一枚取り外
しできるようになっているタイプ。官製ハガキ大のルーズリーフ、その紙束二百枚くらい
だろうか、がバインダーに収まってメモ帳と成している。
メモ帳といえば…… 、と四条竜之助は『インディ・ジョーンズ』シリーズでインディ・
ジョーンズが手にした、インディの父親が記した聖杯についてのメモ帳のことを思い出し、
これから冒険が始まるような気がしてワクワクしたのだった。
その時はまだ、不協和音を奏でたバイオリンの隣で耳を塞いで背筋を凍らせるような不
気味な旋律の調べは、四条竜之助の鼓膜に届いていなかったということになる。
【つづく】