目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

■ 四条竜之助、初めて「地」を訪れる ■

 一九九九年四月十一日。事が展開するのは診察から四日後という速さだ。カップヌード

ルならまだ麵が食べられるようになっていないのではないかというくらい、お湯を注いで

から時間が経過していないような体感速度。

 そのそびえ立つ壁の高さは、刑務所のそれと同じようだと四条竜之助は感じた。

 『ショーシャンクの空に』……

 診察から四日後、白衣を着ておらず薄茶のジャケットとズボンに身を包んだ小石川正義

に肩をポンと叩かれた。

 診察を終わったあとの記憶は曖昧だ。まあ、気楽に。思い出せることだけ思い出せれば

いい。四条竜之助はそう自分に言い聞かせ、肩の荷を下ろそうとした。

 四条竜之助は相も変わらず白シャツとジーンズ。

「竜之助くん。君にはしばらくここで過ごしてもらおうと思う。もちろん、お母さんの了

承もとった」

「精神病院?」

 四条竜之助は反射的にそう口にした。夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』に出てくる狂

人のための施設を思い浮かべてしまう。

 もっとも、今時の精神病院はそんなに古風な代物ではあるまい。でも、目の前にしてい

る壁は、精神病院だとすればあまりに高すぎると四条竜之助は直感した。

 壁の下方に備わっている鉄扉はまるで、人間が住む家の扉の下の方に小さくオマケのよ

うに付いている、ペットのためのドアのようだと思った。

 四条から壁に向かって左側では川が後方へと流れていく。

 壁に向かって鉄扉の左隣には二、三十メートルほどの開きがあって、格子になっており、そこから川の水だけが流れ出ている。格子は人間の腕は通るかもしれないが、川を泳いで

この壁をすり抜けることは出来なさそうだ。間違いなく、川底まで格子は突き刺さってい

るだろうから。

 鉄扉が開くと、作務衣を着て頭にタオルを巻いている男が出てきた。大学生というより

は少年といった方がしっくりくる可愛らしい男だ。背は低く、猫背。肌は小麦色に焼けて

いる。首をキョロキョロと左右に振るあたり、ハムスターのようだ。手は腹の前で所在な

さげにコネコネしている。

「初めまして。城崎翼(じょうざき・つばさ)といいます」

 その小動物のような男は城崎翼。

「十九歳です。竜之助さんは二十三歳と聞きました。僕の方が年下ですけど、ここでの生

活に関しては僕の方が長いので、色々とお世話をさせてもらえたらと思っています」

 城崎翼は四条竜之助に手を差し出してきた。

四条は城崎の手を握る。

「ど、どうも。よ、よろしく」

 こういう初体面の時は四条は口がうまく回らない。

 小石川正義は何も言わない。

「浮世のことは忘れて、ここで羽を伸ばしましょうよ、竜之助さん」

 城崎の能天気さは、四条竜之助の心をいくらか晴れさせた。

 能天気だけに、心の天気は晴れ、ときたか…… 。

 城崎に背中を押され、四条竜之助は開いた鉄扉を通っていく。壁の向こうには詰所とで

もいうべき管理室があり、東南アジアの警察官が着ているような緑色の制服を着た者たち

が複数いた。

「あの人たちはね、自警団。一応、普通の世界の駐在さんもいるっちゃあいるんだけど、

実質、『地(ち)』での警察機構は彼らさ」

「『地』?」

 城崎翼は目一杯に両手を広げた。鉄扉の先に広がる塀に囲まれた場所を抱きしめるよう

にして。

「この塀に囲まれた場所が僕たちの楽園、『地』さ」

 四条竜之助の目の前はたしかに塀に囲まれていた。先ほど眼前にした壁と同じ高さの塀

が、東西南北と繋がってこの場所を外界から隔離している。

「これでは病院というより刑務所…… 」

 城崎翼は四条竜之助の顔の前に人差し指を立て、チッチッチッと横に数回振った。

「竜之助さん。刑務所は、中の人を外から隔離するためのもの。ここは、中に入ることで

外の人を締め出している。真逆さ」

「はあ…… 」

 まず、目の前から奥の塀の中央へと真っ直ぐ一本の道が通っている。

 城崎翼は後ろの壁を指し「こっちの南塀から」と言い、それから奥の壁を指し、「あっ

ちの北塀まで、七百五十メートル」と言った。そして今度は向かって右の壁を指し、「そ

の東塀から」と言い、それから向かって左の壁を指し、「こっちの西塀まで、五百メートル」と言った。

「この『地』が世界から切り取っている面積は、東京ドーム8個ぶん。ディズニーランド

でいえば3分の2個ぶんだね」

 城崎翼の口から「ディズニーランド」という言葉が出て、四条竜之助は、そういえば東

京ディズニーランドの隣に「東京ディズニーシー」という新しい遊園地が鋭意建設中なの

だったな、と思った。どんな遊園地になるのだろう。

 城崎翼は四条竜之助の手を引き、向かって左側の土手を駆け上がる。四条は久しぶりの

運動に息を切らした。城崎は平気な顔で口笛をふいている。

 塀の外で見た川は、向かって左斜め前へと曲がっていく。(川の流れは北塀に向かって

後方へと流れていく)

「この川は居合川(いあいがわ)。川幅三十メートル」

 上空から見ると、ちょうど川によって「地」の塀に囲まれた土地の左斜め下が切り取ら

れているように見えるのだろうか。

 城崎翼は地団駄を踏み、「川のこちら側は『此岸』で、あっち側は『彼岸』と言うんだ。

『此岸』ってわかる?この世。『彼岸』はあの世でしょ?なーんでだと思う?」と言って

みせた。

「さあ?」と四条竜之助は首をひねる。

 城崎翼は唇の端に右手を立て、四条の耳元に囁いた。

「あっちには土葬墓地があるんだ。日本で珍しいでしょう?『地』の人間も他と変わらず、

いつかは死ぬからねえ。この『地』で死んだ人間は、死後五年間、彼岸にある墓地で土葬

される。でも、ずーっと眠らせておくんじゃないんだ。五年経ったら腐敗した遺体を、ほ

ら」と言って「彼岸」の南塀側にある施設を指さした。

「あれは窯なんだよね。登り窯。ここで『娘さん』たちが作ってる陶芸品はちょっとした

評判で。道の駅なんかでも売られてるらしいよ。まあ、普段は陶器を焼くために使ってる

んだけど。土葬して五年経った遺体はあそこで今度は火葬する。そして、骨は砕いてこの

川に散骨する」

「娘さん?」

 四条竜之助の頭には疑問が浮かんだが、城崎翼が物言いたげな四条の唇の前に人差し指

を立てた。

「日本の法令は遵守してないかもしれない。まあ、そんなことはあまり気にしないように

しようよ。外での物差しで物事を測っていたら、ここでは頭がもたないよ」と城崎翼は笑

う。

 土手に来たあたりからだろうか、小石川の姿はなく、城崎翼と二人きりになった四条竜

之助だ。

「この居合川には橋はかかってない。此岸から彼岸に行きたければ、渡し船を使うしかな

いね」

 城崎翼はパンッと手を叩いた。そして、先ほどくぐり抜けた南塀の方を指さす。

「この『地』で、出入口は二箇所。さっきのは、川が隣を流れてるから『川口(かわぐ

ち)』っていう。で、」

 城崎翼は今度は北塀を指さし、

「あっちは谷に通じてるから『谷口(たにぐち)』っていう。分かりやすいでしょう?」

 四条竜之助は北塀の向こうに、山が二つ隣同士に並んでいるのを確認した。南から北に

向かって右側の方の山には、「地」から塀を超えて建物が飛び出しているのが見える。

「おっ」と城崎翼は言い、「いま、竜之助さんが見てるのが『天ヶ山(てんがやま)』さ。

 もう片方の山は特に名前はない。『天ヶ山』の意味はあとで説明するね」

 また城崎翼は手を叩き、「さて、問題です」と言った。

「七百五十+ 五百+ 七百五十+ 五百は?」

「えっ?」

 突然の計算問題に四条竜之助はうろたえた。見事に。

「ほら、塀の長さが何メートルかっていう問題さ。はい。計算して」

 城崎翼はまるで数学の教師になったかのような大きな振る舞いで手をパンパンッと叩い

た。

 四条竜之助は何度か瞬きしたのち、答えた。実はそんなに難しい問題ではない。

「二千五百?」

「ピンポンピンポン。塀の長さを全部足すと、一周二千五百メートルになりまぁす。これ

は、府中刑務所よりも規模の大きな塀なんだから、凄いよねぇ。塀の高さは府中刑務所と

同じで五.五メートル」

 土手から「川口」の方を見て、「地」の南東区域にあたる場所には低層のマンションの

ような建物が二棟並んでいた。

「南塀の隣の建物は男性寮。その北側にあるのは物流所。ここでは、男女は別々に暮らす

決まりなんだ。なぜなら、ここでは男女の営みは禁止。『お父さま』相手のこと以外はね」

 城崎翼はそう言って笑ってみせた。

「ここは『御家属(ごかぞく)』っていう信仰の人間が集まってるんだ」

「ご、か、ぞく?」

「そうそう、マ『カ』ロニみたく二文字目の『カ』にアクセントを置く。『ご家族』じゃ

ないからね。よろしく」

「信仰って、つまりは宗教?」

「どうなんだろうなぁ。信仰っていうのは、神様とか何様とか、自分の外にある大いなる

力への尊敬でしょう?御家属がやってるのは自分たちの肉体の存在こそが信仰そのものな

んだっていうこと。まあ、ペーペーの僕にはまだ芯を食ったことは言えないよ。『お兄さ

ま』のお話でも聞いてくれ」

「あの。『お父さま』とか『お兄さま』とか…… 」

 城崎翼は顔の中央から花開いたように笑った。何かというと笑う小男だ。

「『お父さま』っていうのは僕の父親。五家一本(ごけ・かずみち)さんってお方なんだ。

もうさっきから何度も目に入ったでしょう?」

 そう言って、城崎翼は土手の下の土地に向けて両手を開いた。

 さきほど城崎が説明した男性寮や物流所のほか、「地」の内部に見える建物は、ちょうど「地」の中央に塔のような高い建物があり、あとは彼岸から川を挟んだ北側に、何やら

二つの庭付きの建物(あとで聞いたところ、西塀側が診療所でその東隣が集会所だという)

と、「地」の北東に位置する壮麗な建物(あとで聞いたところ『舞踏館(ぶとうかん)』

というのだという)以外の場所には、トタン屋根の掘っ立て小屋が数百と建っているのだ

った。

 そして、掘っ立て小屋の合間合間には、看板の数々がある。その看板には一人の男性の

肖像画が描かれていた。それが、また掘っ立て小屋同様に数百と「地」の大地を陣地取り

ゲームでもしているみたいにあちらこちらに立てられている。

 その扱われ方は、宗教画というよりは、どこぞの独裁国家の将軍様のようであり、異様

であった。

「いつもお父さまが見守っていてくださる。ありがたいね」

 そう言って城崎翼は自身の首に手を当てた。

「こうやって、自分の頸動脈の鼓動を感じることが、自分を思うことであり、御家属みん

なを思うこと。お父さまを思うことなんです」

彼岸の窯から煙が上がるところを見てみたいな、と四条竜之助は思った。


【つづく】

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?