翌日、ハルカはクライアントである「アースクリエイト」のオフィスを訪れた。
表向きは「ご挨拶と追加資料のお届け」という名目だったが、これが単なる形式的な訪問ではないことを、ハルカ自身が一番よく知っている。重くなりそうな心を、リョウさんの言葉とナツミの笑顔が支えてくれた。
応接室に通され、担当者の田中さんが現れると、その顔にはいつもの穏やかな笑顔が浮かんでいた。
「ハルカさん、わざわざ来てくださってありがとうございます。追加資料、助かりますよ。」
田中さんはハルカの手から資料を受け取りながら、にこやかに言った。ハルカは胸の奥で安堵の息をつく。少なくとも、田中さんからは冷たい視線や不快な感情は感じられない。
「いえ、とんでもございません。先日来、社内で今回の企画についてもう少し詰めるべき点が出てきまして、改めてお渡しできればと思いまして。」
(社内で流れている噂について、遠回しにでも聞けないだろうか…)
ハルカは、用意してきた追加資料を提示しながら、さりげなく本題に触れるタイミングを探った。すると田中さんは、資料に目を通しながら、ふと顔を上げた。
「そういえばハルカさん、今回の企画、社内でもすごく評判がいいんですよ。特にあの新しいアプローチ、役員会でも『面白い!』って声が上がっててね。ハルカさんの、あの仕事に対する熱意、本当に素晴らしいと皆言っていましたよ。」
田中さんの言葉は、ハルカの心の奥底にじんわりと温かい光を灯した。まさかクライアントの方から、こんなにも嬉しい言葉が聞けるとは。この仕事への情熱が、ちゃんとクライアントにも伝わっていたのだ。ハルカは、この自然な流れに乗って、胸に抱えていた疑問をそっと投げかけることにした。
「田中さん、ありがとうございます。そう言っていただけて、本当に光栄です。今回の企画には私自身、並々ならぬ想いがありましたので…一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか。」
田中さんはハルカの言葉に、一瞬「え?」と小さく問いかけ、表情に疑問符を浮かべた。だが、すぐにその意図を察したかのように、優しく頷いた。
「私の言動で、何か失礼な点はございませんでしたでしょうか? 企画の熱意が、もし行き過ぎてしまっていたらと、少し心配になりまして…」
ハルカは、誠実な眼差しで田中さんを見つめた。
「ハルカさん、何を言ってるんですか。全く失礼な点なんてありませんよ。むしろ、そのくらい熱意を持って取り組んでくれるクリエイターさんの方が、私たちとしては頼もしいですよ。私たちはハルカさんの熱意を、ちゃんと『プロフェッショナルな情熱』として受け止めていますから、ご心配なく。今回の企画、本当に期待していますよ。」
田中さんの言葉は、ハルカの中にあった不安の種を、完全に消し去ってくれた。ミサキが流した噂の「黒い霧」が、クライアントの「信頼」という強い光によって、完全に払拭されていくのが分かった。
「ありがとうございます、田中さん。そのお言葉をいただけて、本当に安心しました。これからも、より一層、御社のプロジェクトに尽力させていただきます。」
ハルカは深く頭を下げた。クライアントのオフィスを後にしたハルカの足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。これで、もう何も恐れることはない。
その夜、ハルカは自分の部屋で静かに過ごした。
いつもは賑やかな日中の
明日のミーティングで、全てをクリアにする。ハルカは、深く息を吸い込んだ。その瞳には、星のような強い光が宿っていた。
翌朝、ハルカはいつもより早く目覚めた。
朝日が差し込む部屋で、いつものカラフルなシャツに袖を通す。鏡に映る自分を見つめると、昨日まであった微かな不安の影は消え、まっすぐな光が宿っている。クライアントからの言葉が、彼女の心に確かな支えを与えてくれたのだ。
今日は、決着をつける日。
ハルカは、キュッと唇を結んだ。
オレンジのヘアピンを丁寧に髪に留め、深呼吸をする。
その日のチームミーティング。空気が張り詰める会議室は、ドアの軋む音さえ響くような静けさだった。
「それでは、定刻になりましたので、本日のチームミーティングを開始します。」
白髪混じりのダンディな部長、タカハシが静かに口を開いた。部長の視線が、一瞬ハルカとミサキの間を往復する。ミサキさんの視線が、まるでハルカを射抜くように突き刺さる。その眼差しは、ハルカの次の行動を先読みしているかのように、冷たく鋭かった。
「本日の議題は、先日のクライアントとの打ち合わせにおける、プロジェクトの進捗確認と、一部で聞かれる懸念事項についてです。若者には、自身の言葉で語る機会を与えるべきだろう。」タカハシ部長の言葉に、ハルカはキュッと唇を結んだ。
ハルカは意を決して立ち上がった。ハルカは会議室の全員を見渡した。
「皆さん、ご心配をおかけしていますが、先日の一件に関して、クライアント様にはすでに直接確認済みです。私から失礼な言動は一切ございませんでした。むしろ、クライアント様からは、今回の企画案について前向きなご意見をいただいております。」
ハルカの言葉に、ミサキの顔色が、一瞬にして青ざめる。完璧な笑顔が、まるで精巧な磁器にヒビが入ったように見えた。その瞳には、予測不能な事態に直面した戸惑いがはっきりと浮かんでいる。
ハルカの直感センサーは「イエス! ノイズクリア!」と高らかに叫んだ。ハルカが仕掛けた「ハートブロック作戦」――自分の真実を正直に、そして毅然と宣言することで、ミサキの流した噂という黒い霧を、心のバリアで弾き返したのだ。――その全てが、今、完璧に機能していることを告げる。
ミサキの流した噂という黒い霧が会議室にじわりと漂っていた。
だが、ハルカの言葉が響き渡ると、それはまるでキラキラの風が吹き荒れるように、一瞬にしてオフィスから払拭されていく。淀んだ空気が一掃され、新しい酸素が満たされたかのような清々しい感覚が広がる。
同僚たちの視線は、もはや冷たい針のようなものではない。
そこには戸惑いと、そして微かな安堵が混じっていた。
この戦い、ハルカはもう、噂という見えない悪意に怯えたりしない。
自分の中に揺るぎない真実と、信じてくれる仲間がいる限り、どんな風も乗り越えられる。
(つづく)