翌日、私はクライアントである「アースクリエイト」のオフィスを訪れた。
表向きは「ご挨拶と追加資料のお届け」という名目。
だが、これは単なる儀礼ではない。
“ハートブロック作戦”――あの噂の黒い霧を、確かな信頼の言葉で打ち払う、私なりの反撃だ。
オフィスの自動ドアが開いた瞬間、ルナで聞いたナツミの言葉がふわりと心を包み込む。
「悪い風は、いつか止むさ。自分の真実を信じていれば、ちゃんと光は見えるから。」
その優しい声が、私の背を押す。
重くなりかけた心を、リョウの冷静な言葉と、ナツミの笑顔が確かに支えてくれていた。
“感情ではなく事実を語れ。それを恐れるな。”
その言葉が、今日の“ハートブロック作戦”という名に込められた意思だった。
そして、彼の言葉が私を強くしてくれるたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。これは、仕事の達成感とは違う、もっと個人的で、心地よい熱だった。
応接室で迎えてくれた田中さんは、相変わらず柔らかな笑顔を浮かべていた。
「ハルカさん、ありがとうございます。
追加資料、助かりますよ。」
その言葉に、私は胸の奥で小さな安堵の息をつく。
少なくとも、冷たい視線や拒絶の気配はない。
噂が全く届いていないとは限らない。
私は平静を装いながらも、田中さんの表情のわずかな変化も見逃さないよう、細心の注意を払っていた。
「とんでもございません。
実は社内でもう少し企画内容を詰めるべき部分が出てきまして、改めてご説明できればと思いまして」
私は、資料を手渡しながら、さりげなく本題へと進む隙を探っていた。
田中さんの眉がごくわずかに動いたように見えた。気のせいだろうか?
資料を一瞥すると、ふと顔を上げて微笑む。
「今回の企画、社内でもすごく評判がいいんですよ。
特にあの新しいアプローチ、役員会でも『面白い』って。
まさに、私たちが求めていた“新しい風”だと。
ハルカさんの熱意、すごく伝わっていますよ」
まさか、クライアントのほうから、そんな言葉をもらえるなんて。
あの噂が流れてもなお、私の仕事が正当に評価されているという確信が、胸の奥にじんわりと光を灯した。
「ありがとうございます。
本当に嬉しいです。
……一つだけ、確認させてください」
私は静かに問いかける。
「私の言動で、不快に思われたことなどは……ございませんでしたか?」
田中さんは少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか。
むしろ、あれほど我々のニーズを深く理解し、情熱的に取り組んでくださるクリエイターさん、私たちとしては本当にありがたいです。
安心してください。
ちゃんと“プロフェッショナルな熱意”として伝わっていますよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中の黒い霧が、確かに晴れていった。
田中さんのまっすぐな瞳は、私の不安を完全に打ち消し、揺るぎない信頼で満たしてくれた。
翌朝。
私は早めに出社し、鏡に映る自分の目を見つめる。
そこにはもう、不安も迷いもない。
カラフルなシャツの襟を正し、オレンジのヘアピンをしっかり留める。
今日は、“ハートブロック作戦”の本番――噂という曖昧な影に、正面から光を当てる日だ。
ミーティングルームに入ると、張り詰めた空気が場を支配していた。
白髪混じりの部長、タカハシが口を開く。
「本日の議題は、プロジェクトの進捗と、一部で聞かれる懸念事項についてです。
……若者には、自身の言葉で語ってもらおう」
部長の視線が、一瞬だけミサキのほうへ向かったように見えた。
私はゆっくりと立ち上がり、視線を集める。
会議室にいる誰もが、私を見ている。
その中には、心配そうに眉をひそめる者、冷ややかな視線を送る者、ミサキの流した噂を信じ込んでいる者もいた。
「皆さん、ご心配をおかけしました。
先週、一部で私のクライアントに対する言動について、懸念の声が上がっていると伺いました。
これは事実ではありません。
先日のクライアント打ち合わせについて、私から失礼な言動は一切ありませんでした。
むしろ、クライアント様からは、企画に対する極めて前向きな評価をいただいています。
具体的には、弊社の提案した『インタラクティブ体験型企画』に対し、『まさに我々が求めていた新しい風だ』というお言葉を頂戴いたしました。」
ミサキの顔が、音もなく蒼ざめる。
完璧に整えていたはずの笑顔が、まるでヒビの入ったガラスのように崩れ始める。
視線が泳ぎ、唇がわずかに震えているのが見て取れた。
その奥に、抑えきれない怒りと、何よりも深い屈辱が渦巻いているのが分かった。
“これが、私のハートブロック作戦”
――感情や憶測ではなく、事実と信頼で相手の“嘘”を跳ね返す、静かな反撃。
私の言葉は、空気中に漂っていた黒い霧を一掃していった。
オフィスの空気が入れ替わったように、会議室の空気が澄んでいくのを感じる。
同僚たちの視線が、変わった。
疑念のトゲは消え、そこには少しの驚きと、静かな共感が浮かんでいた。
中には、申し訳なさそうに視線を逸らす者や、小さく頷いてくれる者もいた。
もう、噂に怯える必要はない。
その時、会議室のドアが静かに開いた。リョウが、片手にコーヒーを持って入ってきた。彼は私の姿をみつけると、小さく力強く頷いた。その無言のジェスチャーが、私の勝利を誰よりも雄弁に祝福してくれているようだった。彼はいつもそうだった。私が頑張っているのを、遠くから静かに見守り、一番必要な時に、そっと背中を押してくれる。
彼がコーヒーカップを持つ手をテーブルに置いたその時、黒縁メガネの奥の目が、かすかに細められたように見えた。それは、口に出さずとも「やるじゃん」と語りかけているように、私にははっきりと分かった。
彼の存在が、私にとっての“確かな光”なのだと、私はこの時、はっきりと悟った。
ミサキがこれで終わるとは思えない。
私の直感センサーは、次なる波紋をすでに感知していた。
オフィス全体に、新たな嵐の予感が漂い始めていた。
会議が終わった瞬間、私はふと背後の冷たい視線に気づいた。
ミサキ――その瞳は、もはや単なる敵意を超え、何か別の、もっと危険なものを宿していた。
ピピッ……私の直感センサーが激しく鳴り響く。
「次は、もっと手強い“何か”が動き出す……」
胸に灯った光を握りしめながらも、私は深く息を吸い込んだ。
覚悟を決めて、次なる戦いの幕が静かに開かれた。
(つづく)