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第4話:クライアントの信頼と、反撃の一手

翌日、私はクライアントである「アースクリエイト」のオフィスを訪れた。

表向きは「ご挨拶と追加資料のお届け」という名目。


だが、これは単なる儀礼ではない。


“ハートブロック作戦”――あの噂の黒い霧を、確かな信頼の言葉で打ち払う、私なりの反撃だ。


オフィスの自動ドアが開いた瞬間、ルナで聞いたナツミの言葉がふわりと心を包み込む。

「悪い風は、いつか止むさ。自分の真実を信じていれば、ちゃんと光は見えるから。」

その優しい声が、私の背を押す。


重くなりかけた心を、リョウの冷静な言葉と、ナツミの笑顔が確かに支えてくれていた。


“感情ではなく事実を語れ。それを恐れるな。”

その言葉が、今日の“ハートブロック作戦”という名に込められた意思だった。

そして、彼の言葉が私を強くしてくれるたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。これは、仕事の達成感とは違う、もっと個人的で、心地よい熱だった。


応接室で迎えてくれた田中さんは、相変わらず柔らかな笑顔を浮かべていた。


「ハルカさん、ありがとうございます。

追加資料、助かりますよ。」


その言葉に、私は胸の奥で小さな安堵の息をつく。

少なくとも、冷たい視線や拒絶の気配はない。

噂が全く届いていないとは限らない。

私は平静を装いながらも、田中さんの表情のわずかな変化も見逃さないよう、細心の注意を払っていた。


「とんでもございません。

実は社内でもう少し企画内容を詰めるべき部分が出てきまして、改めてご説明できればと思いまして」


私は、資料を手渡しながら、さりげなく本題へと進む隙を探っていた。

田中さんの眉がごくわずかに動いたように見えた。気のせいだろうか?

資料を一瞥すると、ふと顔を上げて微笑む。


「今回の企画、社内でもすごく評判がいいんですよ。

特にあの新しいアプローチ、役員会でも『面白い』って。

まさに、私たちが求めていた“新しい風”だと。

ハルカさんの熱意、すごく伝わっていますよ」


まさか、クライアントのほうから、そんな言葉をもらえるなんて。

あの噂が流れてもなお、私の仕事が正当に評価されているという確信が、胸の奥にじんわりと光を灯した。


「ありがとうございます。

本当に嬉しいです。

……一つだけ、確認させてください」


私は静かに問いかける。


「私の言動で、不快に思われたことなどは……ございませんでしたか?」


田中さんは少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。


「そんなこと、あるわけないじゃないですか。

むしろ、あれほど我々のニーズを深く理解し、情熱的に取り組んでくださるクリエイターさん、私たちとしては本当にありがたいです。

安心してください。

ちゃんと“プロフェッショナルな熱意”として伝わっていますよ」


その言葉を聞いた瞬間、胸の中の黒い霧が、確かに晴れていった。

田中さんのまっすぐな瞳は、私の不安を完全に打ち消し、揺るぎない信頼で満たしてくれた。



翌朝。

私は早めに出社し、鏡に映る自分の目を見つめる。

そこにはもう、不安も迷いもない。


カラフルなシャツの襟を正し、オレンジのヘアピンをしっかり留める。

今日は、“ハートブロック作戦”の本番――噂という曖昧な影に、正面から光を当てる日だ。


ミーティングルームに入ると、張り詰めた空気が場を支配していた。

白髪混じりの部長、タカハシが口を開く。


「本日の議題は、プロジェクトの進捗と、一部で聞かれる懸念事項についてです。

……若者には、自身の言葉で語ってもらおう」

部長の視線が、一瞬だけミサキのほうへ向かったように見えた。


私はゆっくりと立ち上がり、視線を集める。

会議室にいる誰もが、私を見ている。

その中には、心配そうに眉をひそめる者、冷ややかな視線を送る者、ミサキの流した噂を信じ込んでいる者もいた。


「皆さん、ご心配をおかけしました。

先週、一部で私のクライアントに対する言動について、懸念の声が上がっていると伺いました。

これは事実ではありません。

先日のクライアント打ち合わせについて、私から失礼な言動は一切ありませんでした。

むしろ、クライアント様からは、企画に対する極めて前向きな評価をいただいています。

具体的には、弊社の提案した『インタラクティブ体験型企画』に対し、『まさに我々が求めていた新しい風だ』というお言葉を頂戴いたしました。」


ミサキの顔が、音もなく蒼ざめる。

完璧に整えていたはずの笑顔が、まるでヒビの入ったガラスのように崩れ始める。

視線が泳ぎ、唇がわずかに震えているのが見て取れた。

その奥に、抑えきれない怒りと、何よりも深い屈辱が渦巻いているのが分かった。


“これが、私のハートブロック作戦”

――感情や憶測ではなく、事実と信頼で相手の“嘘”を跳ね返す、静かな反撃。


私の言葉は、空気中に漂っていた黒い霧を一掃していった。

オフィスの空気が入れ替わったように、会議室の空気が澄んでいくのを感じる。


同僚たちの視線が、変わった。

疑念のトゲは消え、そこには少しの驚きと、静かな共感が浮かんでいた。

中には、申し訳なさそうに視線を逸らす者や、小さく頷いてくれる者もいた。


もう、噂に怯える必要はない。


その時、会議室のドアが静かに開いた。リョウが、片手にコーヒーを持って入ってきた。彼は私の姿をみつけると、小さく力強く頷いた。その無言のジェスチャーが、私の勝利を誰よりも雄弁に祝福してくれているようだった。彼はいつもそうだった。私が頑張っているのを、遠くから静かに見守り、一番必要な時に、そっと背中を押してくれる。


彼がコーヒーカップを持つ手をテーブルに置いたその時、黒縁メガネの奥の目が、かすかに細められたように見えた。それは、口に出さずとも「やるじゃん」と語りかけているように、私にははっきりと分かった。


彼の存在が、私にとっての“確かな光”なのだと、私はこの時、はっきりと悟った。


ミサキがこれで終わるとは思えない。


私の直感センサーは、次なる波紋をすでに感知していた。

オフィス全体に、新たな嵐の予感が漂い始めていた。


会議が終わった瞬間、私はふと背後の冷たい視線に気づいた。


ミサキ――その瞳は、もはや単なる敵意を超え、何か別の、もっと危険なものを宿していた。


ピピッ……私の直感センサーが激しく鳴り響く。


「次は、もっと手強い“何か”が動き出す……」


胸に灯った光を握りしめながらも、私は深く息を吸い込んだ。


覚悟を決めて、次なる戦いの幕が静かに開かれた。


(つづく)

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