スターライト企画のオープンオフィスに、見えない悪意のさざ波が立ち始めたのは、あの企画会議から数日後のことだった。
キラキラと反射するLEDライトの下、いつもは活気のあるデスク間の通路も、どこか重苦しい空気をまとっている。最初は耳を疑うような小さな囁きだったが、それは瞬く間に広がり、ハルカの周りに黒い霧のように立ち込めていった。まるで、陽の当たらない場所に発生するカビのように、じわりと、しかし確実にハルカの居場所を侵食していく。
「ハルカさん、クライアントに失礼なこと言ったらしいよ?」
「え、そうなんだ。だから最近、ちょっと元気ないのかな?」
背後から聞こえるひそひそ話、すれ違いざまの不自然な視線。
ランチタイムの賑やかなカフェテリアでも、まるでハルカが透明人間になったかのように、隣のテーブルから聞こえる会話が途切れる。
その中心にはいつもミサキさんの名前があった。
ミサキさんは「ハルカがクライアントに失礼だった」と、根も葉もない話を広めているのだ。それはまるで、ハルカの周りを見えない壁で囲み、孤立させようとする「あるある」な噂のドロドロだった。
朝、会社に着くたびに、ハルカに向けられる視線がまるで小さな針のように突き刺さる。直感センサーが「うわ! 黒いノイズがひどい!」とけたたましく警報を鳴らす。ミサキさんの完璧な笑顔の裏で、その企みが着々と、そして陰湿に進んでいるのが分かった。ミサキさんは、まるで舞台の裏で糸を引く操り人形師のように、周囲の人々の感情を巧みに操っているのだ。
ある日、ハルカはエレベーターに乗ろうとした時、偶然ミサキさんと一緒になった。閉鎖された空間で二人きりになった瞬間、ミサキさんの顔から貼り付けたような笑顔が消え、代わりに冷たい眼差しがハルカに向けられた。
「ハルカさん、最近、元気がないみたいだけど、何かあったの?」
一見、心配しているように聞こえる言葉だが、その声には微かな嘲りさえ感じられた。ハルカは反射的に身体をこわばらせたが、すぐに持ち直した。
「いえ、特に何も。おかげさまで、いつも通りですよ。」
ハルカは精一杯の笑顔で返したが、ミサキさんはフッと鼻で笑い、何も言わずにエレベーターを降りていった。その後の数日間、ミサキさんの嫌がらせはさらにエスカレートした。デスクに置いてあるハルカの書類が入れ替わっていたり、共同で使うプリンターの紙がハルカが使う番になると決まって切れていたり。どれも些細なことだが、その積み重ねがハルカの心をじわじわと蝕んでいった。
耐えきれず、ハルカはその日の仕事終わりにいつもの喫茶店、ルナへ駆け込んだ。
オフィスの冷たい空気から、シナモンの甘く温かい香りに包まれた瞬間の安堵感は、何物にも代えがたい。カウンターの奥から顔を出したナツミは、ハルカの顔を見るなり、「あら、ハルカちゃん、お疲れ様。なんだか今日はずいぶんお疲れみたいね? いつもより顔色が悪いよ?」と、心配そうな瞳を向けた。温かい声が、まるで凍っていた心の表面にじんわりと染み入るようだ。
「姉貴……私、最近、変な噂立てられてて……仕事にも集中できなくて、もうどうしたらいいか分からなくて……」
ハルカは声が震えるのを抑えきれずに、そうこぼした。
「あらあら、それは大変だったわね。一体何があったの?」
ナツミは、ハルカの顔を覗き込むようにして優しく尋ねた。
シナモンラテの温かさが染みる中、ハルカは溜まっていた愚痴を全て吐き出した。喉の奥で詰まっていたものが、熱い息と共に少しずつ解放されていく。
「ミサキさんが、私がクライアントに失礼なことを言ったって、社内で言いふらしてるみたいで。みんなの目がもう、痛くて……」
ハルカの言葉の一つ一つを丁寧に拾うように聞いてくれた後、ナツミはふわりと笑って言った。その笑顔は、まるで春の陽だまりのように優しい。
「まぁ、噂なんて風みたいなものだよ。悪い風は、いつか止むさ。ハルカちゃんがその風に吹き飛ばされちゃダメだよ。自分の真実を信じていれば、ちゃんと光は見えるから。」
「でも、本当に、このままだと会社に行くのも辛くて……」
ハルカは弱々しくつぶやいた。
「わかるわ。でもね、噂っていうのは、放っておけば消えるものと、そうじゃないものがあるの。ハルカちゃんの真実を、どこかで示す必要があるのかもしれないわね。」
その言葉が、ハルカの凝り固まった心を少しだけ解きほぐした。体の中にひっそりと隠れていた「よし、次!」という心の声が、微かに力を取り戻すのを感じる。
すると、いつの間にか隣の席に座っていたリョウさんが、静かにコーヒーカップを置き、ハルカに視線を向けた。リョウさんは普段、あまり多くを語らない人だ。だからこそ、リョウさんの言葉にはいつも重みと、不思議な説得力がある。
「噂なんて、誰かの作り話だ。曖昧な言葉に、自分の心を惑わされるな。お前が信じるべきは、自分の真実だけだ。そして、それを口にすること。」
リョウさんの声は、いつもと変わらない低く落ち着いたトーンだったが、その言葉には揺るぎない確信が込められていた。
「でも、どうやって……何を言えばいいのか、わからなくて。」
ハルカは、困惑した表情でリョウさんを見上げた。
「何を言えばいいか、ではなく、何を言いたいかだ。お前の言葉には、お前の真実が宿る。それを恐れるな。」
リョウさんの言葉は、まるで固く閉ざしていたハルカの心の扉を、静かにノックして開いてくれるようだった。リョウさんの静かな眼差しが、ハルカの中の不安を少しずつ吸い取っていく。
ナツミの励ましと、リョウさんの背中を押す言葉が、「心のバリア」を張る勇気をくれた。
彼らの存在は、まるで嵐の中で揺れるハルカを支える、確かな錨のようだった。
(つづく)