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第3話:見えない悪意のさざ波

スターライト企画のオープンオフィスに、見えない悪意のさざ波が立ち始めたのは、あの企画会議から数日後のことだった。


キラキラと反射するLEDライトの下、いつもは活気のあるデスク間の通路も、どこか重苦しい空気をまとっている。


最初は耳を疑うような小さな囁きだったが、それは瞬く間に広がり、私を黒い霧のように包み込んでいった。まるで、陽の当たらない場所に発生するカビのように、じわりと、しかし確実に私の居場所を侵食していく。


「ハルカさん、クライアントに失礼なこと言ったらしいよ?

あの、有名なゲーム会社さんとの企画、頓挫しかけたって話だよね?」


「え、そうなんだ。だから最近、ちょっと元気ないのかな?

ミサキさんがすごく心配してたよ」


それは瞬く間に広がり、私を黒い霧のように包み込んだ。

まるで、陽の当たらない場所に発生するカビのように、じわりと確実に私の居場所を侵食していく。


背後から聞こえるひそひそ話、すれ違いざまの不自然な視線。

私のデスクの周りだけ、冷たい空気が張り付いているような気がした。


ランチタイムの賑やかなカフェテリアでも、まるで私が透明人間になったかのように、隣のテーブルから聞こえる会話が途切れる。


その中心にはいつもミサキの名前があった。

ミサキは「ハルカがクライアントに失礼だった」と、根も葉もない話を広めているのだ。


それはまるで、私の周りを見えない壁で囲み、孤立させようとする、陰湿な噂だった。


朝、会社に着くたびに、私に向けられる視線がまるで小さな針のように突き刺さる。


私の直感センサーが警報を鳴らす。

不快なノイズが、頭の中に直接響くようだった。


(あの時の企画の件を、こんな風に利用してくるなんて……!)


ミサキの完璧な笑顔の裏で、その企みが着々と、そして陰湿に進んでいるのが分かった。

まるで舞台の裏で糸を引く操り人形師のように、周囲の人々の感情を巧みに操っているのだ。



ある日、私はエレベーターに乗ろうとした時、偶然ミサキと一緒になった。

閉鎖された空間で二人きりになった瞬間、ミサキの顔から貼り付けたような笑顔が消え、代わりに冷たい眼差しが私に向けられた。


「ハルカさん、最近、元気がないみたいだけど、何かあったの?

まさか、自分の失敗を会社のせいにしてるわけじゃないわよね?」


一見、心配しているように聞こえる言葉だが、その声には微かな嘲りさえ感じられた。

私の失敗を「会社のせい」と誘導するような言葉に、ぞくりと背筋が凍りついた。

私は反射的に身体をこわばらせたが、すぐに持ち直した。


「いえ、特に何も。おかげさまで、いつも通りですよ。」


私は精一杯の笑顔で返したが、ミサキはフッと鼻で笑い、何も言わずにエレベーターを降りていった。


その後の数日間、ミサキの嫌がらせはさらにエスカレートした。


デスクに置いてある私の書類が、ごく稀に、前の日と位置が変わっているような気がした。

共同で使うプリンターの紙も、私が使おうとすると、なぜか決まって切れている。

最初は「気のせいかな?」「たまたまかな」と気にしないようにしていた。

それが三度、四度と続いた時、ある朝、私は偶然、コピー機から用紙を抜き取るミサキの後ろ姿を目にした。

まるで何事もなかったかのように、完璧な笑顔で通り過ぎていった。


それだけじゃない。


ある日、数日かけて仕上げた企画書のデータが、なぜか保存されていなかった。

必死で復旧させると、以前にはなかった不自然な修正が加えられていた。


私が淹れたコーヒーだけ、やけにぬるい日も続いた。


さらには、私自身の個人的な事情にまで、ミサキの口出しは及んだ。


ミサキは、ペットの体調不良や親の病院、成人した子供の送迎といった理由で頻繁に午前中や午後から出社したり、時には丸一日休んだりしていた。


もちろん誰も休むことにたいして文句は言わない。

当然のことだから。


私が本当に子供が高熱を出して病院に連れて行きたいと申し出ると、ミサキはあからさまに顔をしかめた。

「大学生でしょう?一人で病院に行けるのに親が連れて行くの?」

と冷たく言い放つ。


子供が1週間後に手術することになり入院するため、その日は付き添いで休みたいと伝えた際には、「自分が手術されるわけでもないのに、親が休む必要ある?」と、まるで私の心をえぐるように言われたこともあった。


一つ一つは些細なことだ。

誰もが「偶然」や「ハルカの不注意」で片付けてしまうだろう。

その積み重ねが私の心をじわじわと蝕んでいった。

まるで、透明な毒が血管を巡るように、会社にいる間中、全身の細胞がざわつく。

心の中で「もう、やめて!」と叫びたくなる。



耐えきれず、私はその日の仕事終わりにいつもの喫茶店、ルナへ駆け込んだ。


オフィスの冷たい空気から、シナモンの甘く温かい香りに包まれた瞬間の安堵感は、何物にも代えがたい。


カウンターの奥から顔を出したナツミは、私の顔を見るなり、

「あら、ハルカちゃん、お疲れ様。なんだか今日はずいぶんお疲れみたいね?

いつもより顔色が悪いよ?」

と、心配そうな瞳を向けた。


温かい声が、まるで凍っていた心の表面にじんわりと染み入るようだ。


「姉貴……私、最近、変な噂立てられてて……仕事にも集中できなくて、もうどうしたらいいか分からなくて……」


私は声が震えるのを抑えきれずに、そうこぼした。


「あらあら、それは大変だったわね。一体何があったの?」


ナツミは、私の顔を覗き込むようにして優しく尋ねた。

シナモンラテの温かさが染みる中、私は溜まっていた愚痴を全て吐き出した。

喉の奥で詰まっていたものが、熱い息と共に少しずつ解放されていく。


「ミサキさんが、私がクライアントに失礼なことを言ったって、社内で言いふらしてるみたいで。

みんなの目がもう、痛くて……

挙げ句の果てに、デスクのものが勝手に動いてたり、コーヒーがぬるかったりするの。

本当に参っちゃって……」


私の言葉の一つ一つを丁寧に拾うように聞いてくれた後、ナツミはふわりと笑って言った。

その笑顔は、まるで春の陽だまりのように優しい。


「まぁ、噂なんて風みたいなものだよ。悪い風は、いつか止むさ。ハルカちゃんがその風に吹き飛ばされちゃダメだよ。自分の真実を信じていれば、ちゃんと光は見えるから。」


「でも、本当に、このままだと会社に行くのも辛くて……」

私は弱々しくつぶやいた。

全身から力が抜けていくような感覚だった。


「わかるわ。

でもね、噂っていうのは、放っておけば消えるものと、そうじゃないものがあるの。

ハルカちゃんの真実を、どこかで示す必要があるのかもしれないわね。」


その言葉が、私の凝り固まった心を少しだけ解きほぐした。

体の中にひっそりと隠れていた「よし、次!」という心の声が、微かに力を取り戻すのを感じる。



すると、いつの間にか隣の席に座っていたリョウが、静かにコーヒーカップを置き、私に視線を向けた。

リョウは普段、あまり多くを語らない人だ。

だからこそ、彼の言葉にはいつも重みと、不思議な説得力がある。


「噂なんて、誰かの作り話だ。曖昧な言葉に、自分の心を惑わされるな。お前が信じるべきは、自分の真実だけだ。そして、それを口にすること。」


リョウの声は、いつもと変わらない低く落ち着いたトーンだったが、その言葉には揺るぎない確信が込められていた。

彼の瞳の奥に、過去の傷を乗り越えた者だけが持つ、静かな強さが宿っているように見えた。


私は、リョウのまっすぐな眼差しに、一瞬言葉を失った。まるで、彼の静かな存在が、ミサキの仕掛けた嫌がらせの嵐から、私を護ってくれているかのように感じた。私の直感センサーが、彼から放たれる、仕事とは違う、個人的な「温かさ」の波動を捉える。その波動が、心のざわつきをゆっくりと静めてくれた。


「でも、どうやって……何を言えばいいのか、わからなくて。」


私は、困惑した表情でリョウを見上げた。喉の奥で言葉が詰まる。


「何を言えばいいか、ではなく、何を言いたいかだ。お前の言葉には、お前の真実が宿る。それを恐れるな。」


リョウの言葉は、まるで固く閉ざしていた私の心の扉を、静かにノックして開いてくれるようだった。リョウの静かな眼差しが、私の中の不安を少しずつ吸い取っていく。


ナツミの励ましと、リョウの背中を押す言葉が、具体的な行動へと向かう勇気をくれた。


彼らの存在は、まるで嵐の中で揺れる私を支える、確かな錨のようだった。


その日の帰り道、ふと立ち止まった私の胸に、再びあの「直感センサー」が鳴り響いた。


ピピッ……ピピッ……


まるで見えない何かが、確実にこちらを見つめているような気配。


私は深呼吸をし、目の前の闇を見据えた。


「よし。これからは、私が声をあげる番だ。」


そして、小さな光を胸に、次の戦いへと歩み出した。



(つづく)

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