風見の丘を越えてさらに西へ進んだ先、広がるのは荒れ果てた湿地帯だった。
草木は腐り、地面はぬかるみ、空は灰色に沈んでいる。風すら、瘴気の重みに押し潰されていた。
そして、その中心に塔があった。
黒く、ねじれた石で築かれた異様な構造物。
自然の産物ではない。人工的でありながら、この世界のどの文明とも異なる“意図”を感じさせる、禍々しい存在だった。
「……あれが、瘴気の発生源か」
悟が低く呟いた。
(うん……あそこ、すごくこわい。空も……苦しんでる)
ティアが眉をひそめる。
「魔力の流れが歪んでる。あそこは……この世界に、無理やり突き立てられた“杭”みたい」
ライガが剣を抜いた。
「行こう。中に何があるかは分からねぇが、ここを放っておけば、空も、地も腐る」
塔の扉は、触れる前に自動で軋みを上げて開いた。
瘴気が音もなく溢れ出す。だが、不思議なことに、内部は静かだった。
黒い石造りの回廊、浮遊するような光の粒。
ただひたすらに、冷たく、そして無機質。
「敵の気配……薄いな」
「罠、かもしれないわね。でも、引く理由もない」
塔の最上層に至ったとき、彼らを待っていたのは、“人の形をした影”だった。
「ようこそ、勇敢なる侵入者たちよ」
その声は、確かに“言葉”だった。だが、アカネが訳そうとするより先に、悟の頭に直接響いた。
精神感応。それは老竜やアカネと同様の、意志の干渉。
影は、黒衣をまとった痩身の姿をしていた。顔はフードの奥に隠れている。
「貴様は……何者だ」
「名など必要あるまい。だが、あえて言うなら“黒翼の使徒”。この世界の空に、正しき終焉をもたらす者だ」
「……正しき終焉、だと?」
「そう。空とは、本来“巡るもの”。命もまた、巡るべきもの。だがこの世界は、空に執着しすぎた。かつての竜たちすら、それに囚われて堕ちていった」
悟は、一歩前に出る。
「お前が……この空を汚している元凶か」
「我はただ、元に戻しているのだよ。過剰な生を正し、澱んだ空を浄化する。“死”によって、ね」
その言葉に、悟の胸の奥がざわついた。
「死が浄化……か。……お前は、“死ぬことが正しい”と、本気で思ってるのか?」
「当然。死は終わりではない。始まりでもある。“滅びの美学”こそ、真の秩序だ」
その一言に、悟の全身が凍りついた。
それはかつて、自分が信じ、特攻へと向かわせた思想と、まるで重なっていた。
「……その言葉、俺が最も憎むものだ」
(サトル……)
「俺は、もうその考えから逃げたと思ってた。でも違った。今、こうして聞いて、はっきりわかった。
“死に意味なんてねぇ”。意味を与えるのは、残された者だ」
悟は剣を抜く。
「お前を倒す。生きる者の空を、汚すな!」
黒き影は静かに微笑む。
「面白い。ならば……お前の生を、我が“終焉”に捧げてみせよ」
闇が渦を巻き、塔の最上層に魔力の暴風が吹き荒れる。
悟は、風鋼の刃を強く握りしめた。
もう迷いはない。
塔の頂に吹き荒れる風は、もはや自然のものではなかった。
闇の使徒が放つ瘴気は空気そのものを腐食させ、視界を黒く染めてゆく。
石床が軋み、光が飲まれる。
悟は風鋼の剣を構え、敵を正面から見据えた。
「アカネ、支援を頼む。俺が前に出る」
(うん、サトル……気をつけて……あいつ、すごく“空の敵”だ)
黒き使徒は、腕を広げると同時に、自身の周囲に黒い羽根のような瘴気を解き放った。
それらは刃となり、毒となり、空を断ち切る意志そのものだった。
「空が生きている限り、貴様の理屈は通らない!」
悟が踏み込む。
低く構えた刃を、風と共に突き出す。
使徒の瘴気の翼が襲いかかるが、悟の体は“風”のように滑る。
まるで、特攻機の編隊を縫うような動き。
機体ではなく、肉体で。
空ではなく、地の上で……それでも彼の動きには、空戦感覚の残響があった。
「はッ!」
一閃。
だが、刃は影の本体に届く寸前で弾かれる。
「無駄だ。我が身はこの世界の瘴気そのもの。生の理では斬れぬ」
「なら、これはどうだ!」
アカネの咆哮が塔を揺らす。
その口から放たれた赤い炎は、ただの火ではない。“空”に選ばれた命の証。老竜から受け継いだ、純粋な生命の火だ。
闇と火がぶつかり合い、塔の天井を割る轟音が響いた。
そこから、光が射した。
曇っていた空に、一筋の光明が……。
「……空が……まだ、生きてる!」
悟は叫び、跳ねるように踏み込んだ。
光を背に、風鋼の刃を振り上げる。
その一太刀は、まるで“空そのもの”の意志が宿ったかのように、黒き使徒の胸を貫いた。
「な……バカな……この程度の……光が……!」
「これは、希望の光だ。死じゃねぇ、“生きよう”とする者たちの力だ!」
使徒の体に亀裂が走る。闇が崩れ、瘴気が空へと散っていく。
(サトル! 外、見て!)
悟が振り返ると、塔の天井が崩れ落ちた先に、瘴気に覆われていた空が、晴れていた。
まだすべてが浄化されたわけではない。
だが、確かに一筋の青が戻っていた。
使徒の体が消えゆく中、かすかな声が残った。
「空は……いずれ……また……」
「何度だって守るさ。生きてる限りな!」
静寂が訪れた。
戦いは、終わった。
仲間たちが駆け寄る。
セナは弓を下ろしながら、「見直したわ」とつぶやき、
ライガは「今の剣筋、悪くなかったぜ」と笑った。
ティアは、塔の柱に寄りかかりながら、ぽつりと呟く。
「やっぱり、あなた……死の匂いじゃなく、生の風を纏ってるわ」
悟は空を仰ぐ。
その青は、かつて自分が“死ぬため”に見上げた空とは違う。
誰かと共に、“生きるため”に守る空だった。
(サトル、ぼく、飛べる日が、ちょっと近づいた気がするよ)
「そうか……なら、俺も少しだけ、“空を信じて”みてもいいかもしれないな」