翌朝、村はかすかに不穏な空気に包まれていた。
何かが近づいている……
悟もアカネも、それを肌で感じていた。
その気配は、風に紛れ、音なく、村の外周をなぞるように広がっていた。
「アカネ。今日は、村の外には出ない方がいい」
(……うん。なにか、いやな風がふいてる)
悟は昨夜の“仮面の者”のことを、まだ誰にも話していなかった。
ライガにも、ティアにも。
それは恐怖ではなく、“確信が持てなかった”からだった。
あの存在は現実だったのか? 幻だったのか?
だがその答えは……間もなく示されることになる。
***
昼を過ぎたころ。
悟はアカネと共に、村の裏手にある高台で風を感じていた。
その時だった。
ズズッ……
風が止み、空気がよどむ。
目の前の光景が、ぐにゃりと歪む。
「……アカネ?」
(ぼ、ぼく、ねむく……なっ……)
アカネが地に伏し、意識を失う。
悟も、そのまま崩れ落ちるように膝をついた。
視界が暗転する……
気づけば、そこは、南の空の真上だった。
頭上に青い空。
眼下には、太平洋に広がる敵艦隊。
「……ここは……あの時……!」
目の前にあるのは、銀色に光る操縦桿。
そして、速度計、高度計、機銃のトリガー。
聞き慣れたエンジン音。
右腕には、あの「一式戦 飛燕」……いや、「疾風」のパッチが縫い付けられている。
「俺は……戻ったのか? これは夢なのか?」
無線は鳴らない。編隊の声も、護衛もない。
独りきりの空。
「いや、違う……これは、“記憶”だ……!」
まるで幻のような、その空間。
悟は理解した。
これは「試練」だ。
あの仮面の者が言っていた、“生の側に立てるか”を測るための。
そして……その時だった。
コクピットの中に、もう一つの声が響いた。
(……サトル、だいじょうぶ……?)
「アカネ!? お前、ここに……」
(うん、ぼくもいるよ。サトルのなかに……つながってる)
「これって……俺の記憶の中だ。特攻に出る直前の……」
(じゃあ……ここで、なにを思い出すかが……たいせつなんだね)
悟は、操縦桿を握りしめる。
前方には、米艦隊のシルエット。
それは敵。だが、今は違う。
「……俺は、行かない」
(え……?)
「このまま突っ込めば、たぶん“正解”なんだ。俺の記憶としてはな。でも、それを選んだら……また同じだ」
(……サトル?)
「俺はもう、あの空には戻らない。戻りたくない」
「俺は……“生きて帰る”って、あの時も思ってたんだ。本当は。母さんに会いたいって、叫びたかった。怖かったんだよ!」
叫ぶと同時に、視界が白く弾けた。
音も風も消える。
次の瞬間、悟は、現実の村の高台に倒れていた。
アカネが、彼の顔を覗き込んでいた。
(……サトル! いき、してる! よかった……!)
悟は、大きく息を吸い込んだ。
胸の奥に溜まっていた何かが、ようやく解き放たれたように思えた。
「……ああ。大丈夫だ、アカネ。俺は、もう大丈夫だ」
彼の声は、どこか少しだけ……軽くなっていた。
***
夕暮れが迫る中、悟は焚き火の前でじっと炎を見つめていた。
赤く揺れる炎の中に、あの“試練”の空がちらつく。
「怖かったんだよ、本当に……」
誰にでもなく呟くその声に、アカネがそっと寄り添った。
まだ幼い竜のくせに、なぜかその瞳は、全てを知っているかのように穏やかだった。
(サトルが、戻ってきてくれて……ぼく、うれしい)
「俺も……お前がいたから戻れた。ありがとうな」
(ねえ、サトル。これから、どうするの?)
悟は、赤く焼けた空を見上げた。
さっきまで重かった胸の内に、風が通り抜けるような感覚があった。
「旅を続けよう。お前と一緒に。この世界が何でできてて、何が迫ってて、何を護らなきゃならないのか……確かめたい」
(……うん!)
アカネが短く、元気よく鳴いた。
悟は立ち上がり、風鋼の刃を背に担ぎなおした。
剣は未だ鞘を持たず、布で巻かれたままだが、不思議と手に馴染む。
その姿を見て、ちょうど通りかかったティアが微笑んだ。
「決まったのね、サトル」
「……ああ。逃げない。ここに来てから初めて、“進む”って思えた気がする」
「きっとあなたなら、大丈夫よ。あなたは“死に戻ってきた”人間なんだから」
その言葉に、悟はわずかに目を伏せ、そしてうなずいた。
「……そうかもしれないな。でも今度は、“生きるために進む”。そのための一歩だ」
焚き火の炎がぱち、と弾けた。
夜が帷が降りる頃。
焚き火を囲む小さな宴が終わり、ライガが悟の隣に腰を下ろした。
「……サトル、お前、旅に出るんだな」
「ああ。ここに長くはいられないと思った。空のこと、この世界のこと、確かめたい」
「そっか……。正直言うと、俺も一緒に行きたいくらいだがな。だが、この村には俺が残らなきゃならん」
「わかってる。ここは、お前の“戦場”だ」
ライガは拳を差し出し、悟もそれに応じて拳を合わせる。
「道が交わったら、また一緒に戦おうぜ、“隊長”」
「その時は、俺のことを“伍長”ぐらいに格下げしてくれていいぜ」
ティアもやって来て、悟に包みを差し出した。
「これ、鞘。昨日ようやく仕上がったの。旅立ちに間に合ってよかった」
悟は驚いたように包みを開け、見慣れた剣の鞘がそこにあるのを確認する。
「ありがとう……これで、ようやく“戦える”気がする」
夜が更けていく中、悟とアカネは、明日へと続く新たな一歩を踏み出した。