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306 錬金術士の休息

 いつも、タマはガルヴやゲルベルガさまと違って、台所に入ろうとしない。

 台所の入り口で、行儀良くお座りしてこちらをみつめるのである。

 きっと、フィリーの実家マスタフォン侯爵家でそうしつけられたのだろう。


 だが、今日のタマは台所の中に入ってきた。


「わふ」

「タマ。おはよう。台所に入ってくるとは珍しいな」

「わぅ」

「フィリーとミルカの朝ご飯なら、もうすぐできるぞ。少し待ってくれ」


 本当はフィリーとミルカのご飯は完成している。

 だが、完成していると言えば、タマはすぐに運んでしまう。

 自分のご飯を後回しにしてもだ。


 マスタフォン侯爵邸が昏き者の手に落ちたとき、タマはほとんど飲まず食わずでフィリーのために頑張っていた。

 タマは、とても賢くて、忠誠心に篤い、まさに忠犬というべき立派な犬なのだ。

 だから、先に、そして確実にタマにご飯を食べさせるために、俺はそう言った。

 タマは少しずつ回復し太りつつあるが、もう少し太った方が健康的だ。


「わふわふ」

 タマは静かに鳴きながら、俺の右手の袖を口でくわえた。


「待っている間に、タマもご飯を食べておこうね」

「タマ、こっちおいで」


 ニアとルッチラは、タマの頭を撫でつつ、ご飯皿のある食堂へと連れて行こうとした。


「わふぅわふ」

 だが、タマはニアとルッチラの手をするりとかわすと、俺の左側に回り込む。

 俺の足に前足を掛けて、今度は俺の左手の袖を咥えた。


「む?」

「わふ」


 最初、右手の袖を咥え、今度は左手の袖を咥えた。

 普通の雰囲気ではない。


「ついてきて欲しいのか?」

「わぅ」

「わかったよ」


 俺がそう答えると、タマは袖から口を離す。

 そして、小走り移動し始める。

 俺はその後ろを付いていく。


「どうしたんでしょうか?」

「フィリー先生に何かあったのかも」


 ニアとルッチラも心配そうに付いていくる。

 ガルヴとその背に乗るゲルベルガさまも、ニアたちの更に後ろから付いてきた。


「タマは、俺を研究室に連れて行きたいのか?」

「わふ」


 タマは、ときどき俺の方を振り返りながら、まっすぐにフィリーの研究室へと向かう。

 俺が付いてくるのを確認して、小走りから全力走りに移行する。


 研究室に到着すると、タマは前足を使って器用に扉を開けると、中に入った。


「わふ」

「おじゃまするよ。フィリー?」

「…………」

「ミルカ?」

「…………」

「眠ってるのか」


 フィリーとミルカは机に突っ伏して眠っていた。

 フィリーはともかく、ミルカまで寝落ちしてしまうとは。

 これからはもっと気をつけて見てやらなければなるまい。

 二人ともまだ子供なのだから。


 机の上には解析の途中らしい素材の類いがあった。


「……ぴぃ〜」

 タマは机の上に前足を乗せて、フィリーの髪の匂いを嗅いでいる。

 心配そうに鼻を鳴らしていた。


「……体力の限界まで研究して、そのまま寝落ちしたのか」

「これは魔道具ですか? いや、錬金素材?」


 俺に続いて研究室に入ってきたルッチラが、机の上を見て、そんなことを言う。

 それは手のひらより大きなコインのような物体だ。

 意匠のようなものが彫られてはいるが、均一な素材にみえる。

 恐らく、インゴットのような物だろう。


「どちらかというと、魔術に使う素材というより、錬金術の素材かな……。断言は難しいが」

「ロックさんは、解析済みでしたよね?」

「解析済みというか、まあトラップの類いがないかのチェックはしたな」


 フィリーが解析・研究していたのは昏き者どもの残置物。

 そして、昏き者どもは魔道具に爆弾を仕込む戦術をよく使う。

 調査もしていない物を屋敷の中に入れるわけにはいかないのだ。


「危険な魔法陣も毒物の類いも爆発する機構もなかったよ」


 魔術的に危険な物ではない。魔力の流れもない。

 魔術的な仕掛けはない。

 魔導士としてはあまり面白そうなものではなかった。


 だが錬金術士のフィリーにとっては別だ。

 素材の精錬方法やその水準を調べれば昏き者どもの錬金技術の水準がわかる。

 それに、昏き者どもの技術の中には、フィリーが知らない技術もあったのかもしれない。


「これほど熱中するってことは、恐らくフィリーも知らない技術があったんだろうなぁ」

「ふむう」


 ルッチラは机の上の素材に手を伸ばそうとした。


「ルッチラ。机の上はそのままにしておいてやってくれ」

「あっ、はい」

「多分、フィリーとミルカは途中まで解析したんだろうし」


 だからこそ、きりの良いところまでと頑張った結果、身体の方が限界に達し寝落ちしたのだろう。


「ちょっと動かして、台無しにしたらフィリーががっかりするだろう」

「そうですね。気をつけます」


 フィリーが解析途中で寝落ちするほどの物だ。

 錬金術士でもない俺やルッチラが適当にいじった程度では何もわかるまい。

 それに適当に素人がいじくり回したら、最初からやり直しと言うことにもなりかねない。


「それにしても、凄まじい研究意欲ですね。ぼくも見習わないと」

「これは見習わない方が、いや真似しない方がいいぞ」

「でも、ここまで真剣に研究するのは立派だと思います」

「眠らないと研究効率も落ちる。身体にも悪い」

「なるほど……気をつけます」

「コココ!」


 眠っているフィリーとミルカを見て、ゲルベルガさまは心配そうに鳴いた。


「寝ているだけだから大丈夫だよ」

 俺がそう言っても、

「コココココゥ!」

 ゲルベルガさまは不安らしい。


「コケッコッコオオオオオオオオ!」

 鳴きながら、ゲルベルガさまは羽をバサバサさせる。


「ゲ、ゲルベルガさま、静かに。フィリーたちが起きちゃうからな」

「ココ!」


 ゲルベルガさまは少し興奮気味だ。


「ゲルベルガさま、大丈夫ですよー」


 ルッチラはそう言うと、ガルヴの背からゲルベルガさまを抱き上げた。

 そして、落ち着かせるように優しく撫でる。


「ゲルベルガさまの心配もわかるぞ。子供が徹夜なんてするべきじゃない。身体に悪い。成長にも悪い」

「それは確かに」

「ルッチラもゲルベルガさまを心配させないように、しっかり寝るんだぞ」

「はい」


 そんなことを話していると、

「わふ」

「わかっているよ、タマ。フィリーとミルカの部屋まで運ぼう」

「私はミルカを運びますね!」


 そういって、ニアが寝ているミルカを背負う。


「ああ、頼む」

「ミルカ、隈ができてる。やっぱり無理してたのかも」

「何度でも言うが、徹夜は本当に良くない。子供には特にそうだ。ニアも徹夜して無理したりするなよ」

「はい」


 そして、フィリーもミルカもまだ子供なのだ。


「ぁぅ」

「わかってるよ、タマ。フィリーもちゃんとベッドまで運ぶからな」


 タマが早く運んでやってくれと催促してくる。

 タマとしても、主人が急に寝落ちして、心配なのだろう。


 俺はフィリーを横抱きに抱いて、フィリーの部屋へと連れて行く。

 タマもしっかりとついてきた。


 そして、俺たちはフィリーとミルカをそれぞれの部屋に寝かせたのだった。

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