コンビニの勤務時間が終わると、俺は麻美の働くゲイバーに走った。最近の円安で、二丁目のゲイバーにはまた外国人観光客たちが戻り、けっこう繁盛していた。麻美は紅の鮮やかなブラウスで客に酒を注いでいる。厳密にいうと、麻美はゲイではない。でも中性的でありながら、妙に色気がある。俺とつるんでいるときの素のさばさばした女とも違う自分を演出している。俺はテラス席の端に腰かけた。もう馴染中の馴染だから、麻美はじめ他の店員も店長も軽く俺を無視して仕事をつづけ、手が空いたらビールでも運んでくるつもりだ。
俺はスマホを眺めているふりをしつつ、辺りを窺った。何と言っても「警告」を受けた身だ。俺、いや俺たちをつけ狙い監視している輩がいるかもしれない。逆にこっちから摘発してやる。
俺たちは何も歌舞伎町の「浄化」とか善意の「ボランティア」とかを気取っているんじゃない。でも、どうしても目についてしまうだけだ。そう、有希みたいな子たちが。何だかんだ言って、どこの世界もお互い助け合って生きている。放っておけないだけだ。
あれ? 『不夜城』のダークな世界観とはかなり大きく外れているぞ。大丈夫か、俺。
つい自分の考えに耽る俺の視界の端に、妙なオーラを放った男の影が横切った。明らかに、ただのチンピラではない、威圧感。今までこんな奴、この界隈で見たことがないぞ。
そいつと一瞬目が合った。鋭利な視線。ただものじゃない。
ゲイバーの前をそのまま通過して通りのほうに向かっていく。先にすうっと黒塗りの車が滑り込んでくるではないか。明らかにタイミングを合わせていた。俺はたまらず腰を浮かしそいつの行方を見届けようとした。
いきなり肩をつかまれた。情けないことに心臓が跳ねた。ふわりとした気配。
「お待たせ。章生」
ビールジョッキを片手に持った麻美がもう一方の手で俺の肩をつかんでいた。
「ちょっと待て。すぐ戻る」
俺は慌てて麻美の手を振り払って通りに走ったが、黒塗りの車は発車したあとだった。いくらネオンや照明が多くても、暗がりの通りで車を見つけることはできなかった。
内心ほっとしたような気持ちを無理に圧し潰して、俺はわざと難しい表情をつくって店に戻った。俺のいた席に水滴を流したビールジョッキが置かれている。麻美は別の客に呼ばれてそちらの相手をしていた。
俺はジョッキをぐい、と傾けて喉をごくごく鳴らしながらビールを流し込んだ。動悸は少し収まった。あいつの顔は覚えておかねば。
俺が考え込んでいると、手の空いた麻美がまた戻ってきた。自分の手にもジョッキを持っている。
「あらためて乾杯しようよ、章生」
俺たちはジョッキをかつんと合わせた。そして、俺は周囲に注意を払って、麻美に例の件を伝えはじめた。麻美は眉根を寄せて聞いている。
俺が夏目さんの話から、さっきの黒塗りの車で去った怪しい男のことまで話し終えると、麻美は表情を変えずに言った。
「あのさぁ、一度言っていい?」
何ごとかと目を見開くと、放り投げるように麻美は言った。
「ばか」
「え」
「単純すぎるっつうの」
「たまたま目が合ったカタギじゃなさそうな人が黒幕? 妙な目付で見たら向こうも視線感じて目を向けるに決まってるでしょ。ばかね」
それはそうだ。
「でも」
麻美は考え込む。
「その、夏目さんははっきりと『警告』っていったのよね」
麻美は少し間をおいて言った。
「手当たり次第に怪しそうな人間を探す必要なんてないわよ。夏目さんを張ればいいだけじゃないの」
まったくその通りだった。
「夏目さんの住まいは知ってる?」
「近くのマンションとしか」
「じゃあ、私章生んちの近場で待機してるから、コンビニにその夏目さんが来たら連絡して。私が跡をつける」
「いや、それは!」
俺は慌てて止めさせようと考えた。
「危険だろ。夏目さんと、夏目さんの情報源は君のことも知ってるんだよ」
「うーん、そうねぇ」
「ほんとに、女のくせに度胸が良すぎ」
「うふふ。そう言われると悪い気はしないな」
麻美はにっこりするが、メイクのためか艶やかすぎる。
「そうそう」
俺は少し話を逸らす。
「有希はしばらく会ってないけど、元気か」
「うん、まあ。私も時間が入れ違いであんまり顔は見てないけど。寝顔はあどけないよ」
麻美が優しい目になる。
しばらく顔を合わせていない有希のうつむきがちな姿が浮かんだ。
「メイクくらいはするように言ってるけどね。怪しまれるから」
そこで麻美はふっとひそやかに微笑む。俺はピンときた。麻美は自分で有希にメイクしてやっているに違いない。自分が長い間したくても出来なかったことを、そっと有希に施しているのかもしれない。俺の胸はなぜかあったかくなった。二人の姿を想像すると、何か俺までうれしくなってくる。
「あの子、いっさい無駄遣いをしなくて、最近は家賃も少しだけ入れてるの。けなげよね」
そう、けなげという言葉がぴったりな気がした。
「あの、さ」
つい前から思っていたことを口に出す。
「そのうち……今の気がかりもなくなったら、有希をどこか遊びに連れてってやろうぜ。まだ子どもなのに、働きづめじゃかわいそうだろ。たまには息抜きさせてやろうぜ」
麻美の目が輝いた。こいつが滅多に見せない表情だ。
「章生、ナイスアイデアじゃない。たまにはいいこと言うね」
「まあな」
そのときの俺らは、まだ迫りくるやばい黒影に気づいてはいなかったんだ。