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第6話

 翌日から、夏目さんがコンビニに来次第麻美を呼ぶことに決めた。

 夏目さんはよく来るお客だが、昨日も今日もなぜか姿を現さない。

 俺は不本意な思いで暇なレジ打ちや品出しを続けていた。何か不穏な気配があるのに何もできないもどかしさ。

「昼にしていいぞー」

 大庭さんがあくびを噛み殺しながら店に戻ってきた。またどこかで油を売っていたのだろう(「油を売る」というのはいい言葉ではないが、大庭さんに限ってはこの表現がなぜかしっくりするのだ。鷹揚で動じず、好奇心旺盛で何にでも首を突っ込むという感じ)。

「あのさ、大庭さん、もし夏目さんが来たら電話くれないかな。俺近くで食ってるからさ」

「ああん? 夏目さんに何か用か」

 心なしか大庭さんの目が光ったような。いや、これも麻美の言うように気にし過ぎなだけかもしれない。

「ちょっと、聞きたいことがあってさ。ほんと、野暮用なんだけど」

「うん、まあいいけど」

 キャッシャーの鍵を開けながら彼は答えた。そのまま俺は店の外へ出た。

 じっとしていられない。

 ひとっ走り歌舞伎町の方まで走って来よう。まじ、自己満足なんだけどさ。

 平日昼間の二丁目はあまり人がいない。俺は全速力で靖国通りまで駆け抜けた。

 ただ、全速力で走っても当てがあるわけでもない。

 大庭さんから電話が来たら、すぐに麻美に連絡を入れる。だからスマホだけは大事に握りしめていた。

 別段変わったこともない通り。車も普通に流れている。

 靖国神社境内を通り抜けた。ここから横道を通って歌舞伎町の奥の方に行こうと思っていた。

 驚いた。靖国神社の境内を通って裏口の階段を降りたところ。

 少し離れた曲がり角のところに、有希がいた。ここから見えるのは有希の横向きの姿だけだ。日差しと木の陰で見えづらいが、間違いはない。明らかに誰かと話している。その誰かは塀と樹木の影で見えない。有希は見上げるような視線なので、相手は背の高い奴なのか。

 すぐに声をかける気にはなれなかった。もしかしたら、他愛のないことなのかもしれない。有希に、俺たち以外の知り合いがいても当然だ。

 けれど、有希は郊外の工場に働きに出ているはずなのだ。麻美に確かめたわけではないが、確かフルタイムで残業もよくある仕事だ。昼の時間に、この歌舞伎町の外れにいることは、ありえない。

 それに、仕事で疲れて麻美の家に帰宅して、シャワーを浴びるとすぐ寝てしまうという生活からすると、俺たち以外に東京の知り合いがいるとも考えにくい。

 不安が激しくせり上がった。

 もしかしたら、有希は何か裏があるのか、俺たちに隠し事をしているのか。

 そんなことは信じたくない。

 そこでまた『不夜城』のイメージが湧いてきた。

 裏切りに告ぐ裏切り、化かし合いの世界。何も信じることなど出来ない世界。

 おかしなことに、そう思うと不安が興奮に変わった。

 有希はその誰かの後について角の左方向へ歩きはじめた。俺はそっと近づいてその後ろ姿を見送った。男だ。後ろ姿ではっきりしないが、若い男。服装が、この辺のホストクラブの店員にいそうな黒のツーピース。髪は短いが軽くパーマがかかっている。

 有希の後姿は儚げに見えた。もともとまだ子どもで、小柄だ。最近は肉体労働の成果か、ずいぶん筋肉がついたように見えたが、隣の男がガタイがいいので、霞んでいる。

 『あの野郎、わりと強そうだ』

 俺は拳を握りしめた。十年以上この街で生きているのに、誰かが分からない。俺の中の人名リストに載っていない奴かもしれない。電柱があったので、その陰に隠れて、スマホで二人の姿を写真に収めた。麻美なら、分かるだろうか。

 それから、二人は右に折れ、細い路地に入り込む。俺は時間をおいて距離を溜めてからその角を曲がったが、もう二人の姿はなかった。あの歩調ではまだ通りを抜けられてはいないスピード。ということは、細道の両側にごちゃごちゃと看板を並べるどこかの店に入ったとしか考えられない。

 このまま店を一つ一つ探しているには時間がない。いやそれよりなにより、有希にこのことを知られない方がいい、

 昼休憩の終わる時間までもう数分だ。

 俺は踵を返して靖国通りを走って渡り、コンビニに急いだ。

 コンビニの仕事に戻って、客がいないときを見計らって麻美に電話を入れた。

「ふぁい」

 眠そうな麻美の声がした。何だ、麻美のやつ、俺との約束があったのに、まだ寝ていたのか。

「さっき歌舞伎町で有希を見たよ」

 俺が言うと、麻美は一瞬で目が覚めたらしく、俺の報告に聞き入った。

「有希、そんなこと全然話してないよ。いつも通り、仕事に行ってるとばかり思ってた。何それ、大丈夫かな」

 麻美らしくもなく動揺している。麻美は本当に有希をかわいがっていた。だからショックを隠し切れないんだ、と俺は気づいた。

「まだ、見かけただけだから、何とも言えないよ。それに有希はまだ子どもだし、俺たちとの付き合いだけじゃちょっと息がつまって、はねを伸ばしたくなったのかも」

 慰めるように言ったが、麻美は返事をしない。しばらくして、

「だと、いいけど」

 とつぶやくように言った。

「とにかく、今日俺、お前の店に行くから。焦って有希を問い詰めたら、居心地が悪くなって出てってしまう可能性もあるし」

「分かってる」

 当然了解済みだというように麻美はきっぱりと言った。

「私、今日は店、休むわ。君のコンビニの仕事が終わったら、まずは会おう」

「了解」

 麻美が最後はいつものきびきびした口調になったので、俺はほっとしていた。今日は長丁場になるかもしれない。

 俺はもう一度有希のあどけなさの残る顔を思い出した。昼に見た有希の表情もそれは変わっていない。何があったのかは分からないが、きっと大丈夫だ、と自分に言い聞かす。そして、麻美のためにも何事もないといいが、と願う。麻美が傷つくところをみたくない。麻美は強い女だが、ナイーブな心も持っている。俺は麻美の哀しい顔は見たくない。

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