その瞬間、俺は麻美を抱きしめてしまった。言っておくが、これは……恋愛云々ではない、大事な、そう、ダチへの想いの現れなんだ。
「て、おい、章生!」
麻美が慌てて振りほどいた。
「いきなり何する、てめー」
怒ると麻美は男言葉になる。ま、男言葉、女言葉というのも今時あってなきが如しだが、麻美は無意識におのれのアイデンティティを示したいのか、ふだんは女言葉にしているのだ。だから少しややこしい。
「俺、麻美、大好きだ」
「は? 殺すぞ」
そこで麻美は笑ってさっぱりと切り替えた。
「私は有希を信じる。裏切られるまで信じるのが私の信条だから」
「麻美!」
俺はまた麻美に抱きつこうとして軽くいなされた。
「とりあえず、当てはないけど調査に行こう」
「調査?」
「有希と会っていた男の素性を調べる」
「そうだな」
あの「警告」を発したばあさんのこともそうだが、何か正体がつかめないのがいちばんよくない。俺は攻勢に出るぜ、ジェンイー。場合によってはジェンイーみたいにトラップをしかけてやる。
その時だった。
「おーい、章生くん」と呼ぶ大庭さんの声が聞こえた。
「夏目さんが歩いてるけど」
弾かれるように俺と麻美は階下へ駆け下りた。大庭さんが自動ドアの外にいた。大庭さんの指す方向に、間違いない、あの買い物かごを提げた夏目さんが歩いているのが見えた。小さな四つ辻を挟んだ斜向かいだ。
「大庭さん、サンキュー」
そう言っておれは麻美と一緒に飛び出していった。
「夏目さーん」
ぴたりと夏目さんの脚がとまった。
「何?」
表情を変えずに夏目さんが言う。
「聞きたいことがあるんだ」
俺は夏目さんの前に出て正面から言った。
「俺が警戒しなきゃならないってのはどういうことなんだ? 教えてくれ」
「言ったじゃないか。ガキどもにあまり関わるとろくなことにはならないよって」
「うん、だからその背後。やっぱりその……新興ホストの連中のことなのか」
「さあね」
「さあねって」
「あたしだって、道を歩いていて耳にしたくらいのことさね」
「は?」
「太宗寺の境内で一休みしていたときに、不審な男がスマホで大声で話しているのを聞いちゃったのさ」
太宗寺というのは、新宿二丁目の外れの方にある(新宿御苑寄りの方)由緒正しいお寺だ。ちゃんとした境内がある。
「『大庭のじじいお抱えの坊やがいるだろう、そうそう、昭和の坊やぽい野郎』……」
夏目さんが言い終わらないうちに俺は口を挟んだ。
「なんだそりゃ。それが俺のことだとでも──」
「そうに決まってるじゃない」
横から口を入れたのは麻美だ。それから少しにやにやして、
「章生っていったら『ザ・昭和』って皆裏では思ってるよ」
とケタケタと笑い声をあげる。
「な……!」
「そういうことやな。大庭のじいさんの坊やっていったら、この界隈ではあんたしかいないわ」
「……」
「つまり、そういうこと」
麻美の一言で頭が弾けて意味が分かった。
「俺が大庭さんのイロだってことか!?」
「それもこの界隈の常識」
麻美が澄ましていうので、俺は食ってかかった。
「あ、麻美、お前までそう思ってるのか」
「思ってないです。私は界隈の常識を言っただけ」
俺は本当にめでたい奴だ。言われるまで気づかなかったとは。でも、そう言えば思い当たる節はあった。客がやけににやにや大庭さんの近況を聞いてくるとか、最近どうなの? などとよく言われるとか。麻美まで知っていて黙っていたのか。
「いや、あんたが自分で知らなかった方が意外よ」
またしても澄ましかえって麻美は言った。
俺は言葉を失った。
「ねえ、夏目さん」
絶句している俺の横で麻美が夏目さんに向き合う。
「そのスマホの人の言ってたこと、くまなく教えてちょうだい。私たち、私と章生のやってることが気に食わないって内容だったんでしょ」
「そうそう」
夏目さんは麻美には丁寧に応じる。しっかり人間を見られているようで俺は恥かしかった。
「あたしもね、あの歌舞伎町の新興ホストどもは気に食わんのさ。あんたみたいな人間は信用できるけど、あいつらは違う」
そう言って麻美を見上げる。(夏目さんは小柄、麻美は背が高いので、どうしても夏目さんは見上げるようになる。)
「やっぱりあの連中なのね」
「暇だったから後をつけたのさ。そしたら、歌舞伎町の奥の新興ホスト街に入って行った。ある店に入ってね、客としてじゃない。まあ、あんなむさくるしい客はホストの店にはあまりいないだろうが。従業員専用口から入ったのさ。この目で見たから間違いない」
「すごいわ、夏目さん、あとをつけたのね」
麻美が優しく感嘆してみせる。夏目さんは露骨に誇らしそうになる。俺からすると、こんなばあさんだから尾行に成功したんだと思わざるを得ない。
「店の名はねぇ、えっと、横文字だったから忘れたわ」
「ええ?」
「でも見れば思い出す。今から行くかい」
思いがけない事態の進展だった。
俺は麻美と目を合わせ、それから夏目さんに頷いて見せた。