目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話

 その瞬間、俺は麻美を抱きしめてしまった。言っておくが、これは……恋愛云々ではない、大事な、そう、ダチへの想いの現れなんだ。

「て、おい、章生!」

 麻美が慌てて振りほどいた。

「いきなり何する、てめー」

 怒ると麻美は男言葉になる。ま、男言葉、女言葉というのも今時あってなきが如しだが、麻美は無意識におのれのアイデンティティを示したいのか、ふだんは女言葉にしているのだ。だから少しややこしい。

「俺、麻美、大好きだ」

「は? 殺すぞ」

 そこで麻美は笑ってさっぱりと切り替えた。

「私は有希を信じる。裏切られるまで信じるのが私の信条だから」

「麻美!」

 俺はまた麻美に抱きつこうとして軽くいなされた。

「とりあえず、当てはないけど調査に行こう」

「調査?」

「有希と会っていた男の素性を調べる」

「そうだな」

 あの「警告」を発したばあさんのこともそうだが、何か正体がつかめないのがいちばんよくない。俺は攻勢に出るぜ、ジェンイー。場合によってはジェンイーみたいにトラップをしかけてやる。

 その時だった。

「おーい、章生くん」と呼ぶ大庭さんの声が聞こえた。

「夏目さんが歩いてるけど」

 弾かれるように俺と麻美は階下へ駆け下りた。大庭さんが自動ドアの外にいた。大庭さんの指す方向に、間違いない、あの買い物かごを提げた夏目さんが歩いているのが見えた。小さな四つ辻を挟んだ斜向かいだ。

「大庭さん、サンキュー」

 そう言っておれは麻美と一緒に飛び出していった。

「夏目さーん」

 ぴたりと夏目さんの脚がとまった。

「何?」

 表情を変えずに夏目さんが言う。

「聞きたいことがあるんだ」

 俺は夏目さんの前に出て正面から言った。

「俺が警戒しなきゃならないってのはどういうことなんだ? 教えてくれ」

「言ったじゃないか。ガキどもにあまり関わるとろくなことにはならないよって」

「うん、だからその背後。やっぱりその……新興ホストの連中のことなのか」

「さあね」

「さあねって」

「あたしだって、道を歩いていて耳にしたくらいのことさね」

「は?」

「太宗寺の境内で一休みしていたときに、不審な男がスマホで大声で話しているのを聞いちゃったのさ」

 太宗寺というのは、新宿二丁目の外れの方にある(新宿御苑寄りの方)由緒正しいお寺だ。ちゃんとした境内がある。

「『大庭のじじいお抱えの坊やがいるだろう、そうそう、昭和の坊やぽい野郎』……」

 夏目さんが言い終わらないうちに俺は口を挟んだ。

「なんだそりゃ。それが俺のことだとでも──」

「そうに決まってるじゃない」

 横から口を入れたのは麻美だ。それから少しにやにやして、

「章生っていったら『ザ・昭和』って皆裏では思ってるよ」

 とケタケタと笑い声をあげる。

「な……!」

「そういうことやな。大庭のじいさんの坊やっていったら、この界隈ではあんたしかいないわ」

「……」

「つまり、そういうこと」

 麻美の一言で頭が弾けて意味が分かった。

「俺が大庭さんのイロだってことか!?」

「それもこの界隈の常識」

 麻美が澄ましていうので、俺は食ってかかった。

「あ、麻美、お前までそう思ってるのか」

「思ってないです。私は界隈の常識を言っただけ」

 俺は本当にめでたい奴だ。言われるまで気づかなかったとは。でも、そう言えば思い当たる節はあった。客がやけににやにや大庭さんの近況を聞いてくるとか、最近どうなの? などとよく言われるとか。麻美まで知っていて黙っていたのか。

「いや、あんたが自分で知らなかった方が意外よ」

 またしても澄ましかえって麻美は言った。

 俺は言葉を失った。

「ねえ、夏目さん」

 絶句している俺の横で麻美が夏目さんに向き合う。

「そのスマホの人の言ってたこと、くまなく教えてちょうだい。私たち、私と章生のやってることが気に食わないって内容だったんでしょ」

「そうそう」

 夏目さんは麻美には丁寧に応じる。しっかり人間を見られているようで俺は恥かしかった。

「あたしもね、あの歌舞伎町の新興ホストどもは気に食わんのさ。あんたみたいな人間は信用できるけど、あいつらは違う」

 そう言って麻美を見上げる。(夏目さんは小柄、麻美は背が高いので、どうしても夏目さんは見上げるようになる。)

「やっぱりあの連中なのね」

「暇だったから後をつけたのさ。そしたら、歌舞伎町の奥の新興ホスト街に入って行った。ある店に入ってね、客としてじゃない。まあ、あんなむさくるしい客はホストの店にはあまりいないだろうが。従業員専用口から入ったのさ。この目で見たから間違いない」

「すごいわ、夏目さん、あとをつけたのね」

 麻美が優しく感嘆してみせる。夏目さんは露骨に誇らしそうになる。俺からすると、こんなばあさんだから尾行に成功したんだと思わざるを得ない。

「店の名はねぇ、えっと、横文字だったから忘れたわ」

「ええ?」

「でも見れば思い出す。今から行くかい」

 思いがけない事態の進展だった。

 俺は麻美と目を合わせ、それから夏目さんに頷いて見せた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?