僕は今、世界一幸せ者だろう。
“私も愛しているわ”
その言葉が頭の中で何度も流れては、噛み締めながら歩いていると、荒っぽい声が響いてきた。
町が騒がしい。喧嘩なんていつものことのはずなのに、今日は胸騒ぎがする。人盛りをかき分けて、最前列に立つと、ちょうどマキューシオとがティボルトに押されて、噴水に落とされたのが見えた。
背中からは「やっちまえー!」と両者を煽るたくさんの声が奏音のように重なり、闘技場さながらで身がすくんだ。他人事のように見ている者。互いの親戚たちが煽って好き勝手に野次る。
その場にいたベンヴォーリオも僕と一緒に急いで、噴水に落ちたマキューシオの元に走った。
「何があった?」
手を貸しながら、二人に聞いた。
「ティボルトの奴が、喧嘩ふっかけてきたんだ! モンタギューの犬だとか言って、マキューシオを怒らしやがった!」
「だって、昨日……」
決闘をしないで済んだと思ったのに、一日遅れで二人が争っている。
ティボルトは僕に気づき、嘲笑う。
「やっと来たか。いつも逃げやがって」
「誰とも争いたくないだけだ」
「そんなこと言って、剣が弱いのバレたくないだけだろ。ハッキリさせようぜ」
「僕に勝ったからと言って、両家の争いが終わるわけでもないのに。剣を交えるなんて無意味だよ」
「意味なんてどうでもいい。今日は、憂さ晴らしに付き合えよ」
いつもはモンタギューが嫌いで誰かと衝突してるのに、今日は心情が少し違う? まぁどちらにしろティボルトがイライラしてるのには変わりない。
「誰か、心ある人! エスカラス大公を呼んでくれ! 公は両家の争いを禁じてるはずだ!!」
僕の叫んだ声が、誰か一人でも聞いてくれ掛け合ってくれることを願った。自分でどうにかできたらいいけど、ティボルトから背を向ければすぐにでもやられそうな勢いだから。
「みんなに助けを求めて情けない奴だな」
「そっちがイライラしてるからって、決闘に付き合う義理はない。僕にも都合があるんだよ」
「お前はいつも傍観者だな。お前も同じ跡取りだろ? そんなんでいいのか」
「僕には守りたいものがあるだけだ」
「守りたいだと? お前にそんなやつ居たら、見せて欲しいもんだな」
「いいかげん、この争いに意味があるのか考え――」
「ロミオ、俺はやるぞ。ティボルトにこれ以上コケにされてたまるか! やる気ないから、代わりに俺がお手合わせしてやっても」
言いかけた時、隣にいたマキューシオが重ねるように言った。髪からは水滴が滴り落ち、煩わしそうに眉間に皺を寄せている。
「そっちは俺相手に二人掛かりか? いいぜ。今日は虫の居所が悪い。死なない程度に遊んでくれよ」
言うやいな鞘から剣を取り出すと、ティボルトは殺気出す。僕はこんな展開は望んでないって言ってるのに。ほっといてここから去ったらマキューシオは絶対にティボルトに殺されてしまう。
「構うなよ、マキューシオ」
手を伸ばし、アイツが前に出てこないように構えた。ティボルトはモンタギュー側を侮辱してるだけで、我を忘れて襲いかかってくるほどではなかった。問題は、僕の背中にいるマキューシオだ。興奮しっぱなしで、抑えていないと今にも飛び出してしまう。
「言われっぱなしで良いのか。周りだって、ロミオが腰抜けだって言ってるんだぞ」
「それでも良いから。この場から逃げるぞ。今日はダメなんだよ。死人が出る」
「はぁ! 俺が負けるとでも? 馬鹿なことを言うな」
「頼むから、僕の言うことを聞いてくれ。二人とも剣を収めて。早く! じゃないと……っ!」
ジュリエットとの約束が。
友達の背中をせっついて僕はティボルトと距離を取る。
「ジュリエットだと?」
「あっ」
口に出てた? みんな好き勝手だし焦りで、口が緩んだ。……らしい。慌てて口を塞いでも遅かった。相手を煽って反応を楽しむ程度には冷静だったティボルトが、一瞬にして空気を凍らした。
「なんでお前の口からジュリエットの名前が出る? そうだ、お前、舞踏会に来てたのは分かってる。……まさかお前じゃないよな?」
「……っ」
額から汗がながれる。
ジュリエットに会ってないというのは、無理があるか。
「物陰でジュリエットと誰が親しげにしていたのを見たと、報告してくれた者がいたが。その蝿がまさかモンタギューの野郎とは思いもしなかったぜ」
「……」
「急に
あの時、どこまで見られていた? 舞踏会でキスをしたのを見られていたら……。それどころか、結婚もしたし、いまさっきまでジュリエットの部屋にいたし、もしジュリエットの香油が僕の身体にも匂いが移っていたら……。気づかれたら今度こそティボルトは激昂する。距離を詰められたら死ぬ。
「仲良くしよう。なぁ? ティボルト」
「気持ち悪いことを言うな!」
一、二歩下がりながら愛想笑いを浮かべてみるも、一蹴りされた。
「……おい、変な気起こすなよ。アイツはパリス伯爵との結婚が正式に決まったんだ。明日には式を行うんだからな」
明日って、ジュリエットがもしかしたらと言ってた通りだ。僕らも昨日の今日会ったばかりで、もたもたしてたわけでもないのに。もう少し余裕があるかと思ったけど、実際にロミオとジュリエットの世界に入ったら時間の流れ早すぎて上手く立ち回れない。ジュリエットを好きになってから、何もかもがあっという間すぎる。だってまだ、出会って四日だろ?!
「ジュリエットはなんて?」
「お前のことは、ジュリエットの口から一切出てないぜ」
「だったら、ジュリエットと親しげにしていた相手が僕とは限らないだろ」
「ロミオ、おまえこそ、なんでそんなに焦っている?」
……まだ。まだか? エスカラス大公がまだ来ない。できるだけ時間稼ぎをするために、ティボルトが食いつきそうな話をしたい。
「剣を取れ。明日の結婚式を台無しされちゃ困る。ジュリエットにもよく言って聞かせるよ、諦めろとね」
「だったら僕を構うよりも、早くジュリエットを見といた方がいいんじゃないかな」
「でまかせ言うな。アイツは結婚を前に心入れ替えるために教会へ行ったんだ。お前もジュリエットの結婚生活を見るのは嫌だろ? 可哀想だから、この町から追放してやるよ。さっさと消えろ!」
心入れ替えるね? ジュリエットの気が変わるわけが無い。物語通りに進むなら、ジュリエットはきっと隠れてロレンス神父から仮死の薬を作ってもらってるはずだ。
「ロミオ、何を考えてる? 勝ったような顔をするな!」
「さぁ。明日は大人しくしてるよ」
「お前になにかさせてたまるか!! 覚悟しろッ!」
ティボルトは殺気立ち、剣を振りかぶり一歩詰め寄った。そして息が詰まるその時――
馬が複数頭、駆けてくる音がした。その音がすぐ近くで止まった。
「そこまでだ!」
と、やっと声がした。その声はまさしくエスカラス大公。救いの声だ!
「剣を鞘に納めろ」
エスカラス大公とその部下たちは、周りを睨みを聞かせながら一瞥した。ティボルトは舌打ちをして渋々従っている。僕はそもそも抜いていなかったため、状況は分かってくれたと思う。
「先に喧嘩を売ってきたのは向こうです」
「元はと言えばそっちからじゃないのか。もう忘れたか、鶏頭め」
マキューシオとティボルトは吠え合う。正直どっちが突っかかってきたかは知らない。だけど今は剣を抜いているものは一人もいないし、大騒ぎに煽り合っていた人々は、しれっと黙り込む。町が風の音だけのこし、静まり返る。
これで今度こそ、決闘は避けられたはず。心の中で息を吐いた。
とりあえず、友人が死ぬこともティボルトを僕が殺してしまうことも無かったことを喜ぼう。おかげで追放は免れた。
大公に咎めを受けたマキューシオを残し、ベンヴォーリオとその場を離れた。歩きながら、友が困惑しながら口を開いた。
「なぁ、さっきの話、ほんとか? いつの間に? しかも寄りにもよってキャピュレット家の一人娘になんて。本当なのか? いつから?」
「……三日前」
「三日? あの舞踏会でか? そうだろ? あの日からお前はおかしくなってるもんな。それだけで愛する人って、それ、お前……。正気か、相手はあのキャピレットかよ」
だよな。それが普通の反応だろう。なんか新鮮で安心する。とにかくジュリエットは多分、今不安でいるだろうから早くコンタクト取りたい。今の今まで会ったのに。
「これからどうするつもりだ」
「どうするもなにも、さっきは言い出せなかったけど、結婚はもうしたんだ……。ベンヴォーリオに入っておく」
「はぁ? け、結婚!?! 嘘だろ? 三日、いや今はまだ午前だ。昨日、結婚したとでも言うのかよ」
「だから僕は死ぬわけには行かないんだ」
初めて誰かに打ち明けだと思う。もちろん手放しに祝福なんてしてくれないのは、残念だ。ベンヴォーリオは心配そうに顔を覗きこんだ。
「眠そうだな」
そう言われると、朝までジュリエットのところにいたから、ほとんど寝ないままだった。その前の日だってろくに寝てない。睡眠不足も思考の妨げとは言うけど、バカなミスする前に、ジュリエットを連れてこの町から早く離れたい。
「ロミオ。帰ったら話があります」
この足でロレンス神父のところへとむかおうと思っていたら、母様が呼び止める。この騒ぎにモンタギューの息子も居た、と聞きつけてきたのだろう。
「無事ならば、家に帰りますよ」
「……はい」
「ベンヴォーリオ、あなたも来なさい」
「は、はい。叔母上」
ベンヴォーリオは喧嘩にはあまり関与していないけど、連帯責任ってやつか。母に聞こえない声で、隣にいる従兄弟に「ごめん」と謝った。