僕は、行かない。
家に戻り自室で一人、唱え続けた。
ロミオの望むことは何かと聞かれれば、嫌に決まっている。阻止したくなる衝動に駆られるのを、必死に飲み込んだ。
明日は、パリス伯爵との式を執り行われる。一日耐えれば、こんな苦痛からも解放されるはずだ。
「……解放……されるのか?」
そもそもどうやって、この『2回目』から抜け出せるんだ? ジュリエットが誰かと結婚したとしても、終わる保証なんてどこにある。終わらなければ、僕はジュリエットが誰かの妻になっているのを、ずっとただ見続けて……。
それは、いつまで……?
そんな嫌な事を考えていると、窓からひんやりとした風に乗って、柔らかい声がした。
「こんばんは」
正義正しく、深夜だから気を遣ってか、小さめの声なのに耳に直接届く。
「だれ……?」
振り向けば、二十歳ごろの人だった。どこにでもいそうな、品のある貴族の女性だ。髪の毛は整えられて、顔立ちは良い。きっと、『美しい』に分類される人だろう。
ドアは開く音はしていない。来るとすれば、開いている窓だけど。ここは二階だ。
「私のこと分からないかしら? まぁそうよね。ロミオがジュリエットより前に好きだった人。ってことになってるけど、貴方には興味ないものね」
「……ロミオの片思いがどうのって?」
「そうよ。ロザラインって言えばわかるかしら? 役目はその限りじゃないけどね」
「そのロザラインが僕になんの用ですか?」
ついさっき教会で、ひまりがどこかに向かって呟いた名前だ。教会には僕と、ひまりと神父しかいなかったのに、近くに誰か居たとでも?
それに現れ方が、毒売りの男と似ている。死にかけていた僕のところにも突然、姿を見せたし。この女性も、不思議な雰囲気を出している。
ロザラインと名乗ったこの人は、にこやかに微笑み、頷いた。
「そう。私はジュリエット
口に出してなかったはずの、僕の心を完全に読み取って答えてみせる。
「毒売りの男は、ロミオ側の担当ってことか?」
「そうね」
「それで、ジュリエット側の貴女が、僕に何用です?」
ロザラインは、表情を変えない。
「あの子、人使い荒いのよね。こんなジュリエット初めてだわ」
困ったように肩をすくめているものの、穏やかさを保ち微笑む。ひまりのことを大目にみている素振りだ。
「ジュリエットが死んだの。それを伝えに来たわ」
その言葉に、悲しみも憂いもない。淡々と言ってのけた。
「な…………。死……?」
血の気が引いて、目が眩んだ。仮死の薬を飲んだの間違えじゃないないのか? それとも短剣か何かで、自分を刺して? 本当に……?
ジュリエットとの死という言葉が、毒のように身体に巡っていく。
違う。
死んだなんて、そんなんのは、信じない。
「なんで、……それを僕に、
どうにか冷静になろうと、咄嗟に呟いた。
口に出して、改めてやっぱりなにか変だと、思った。
ジュリエットが死んだことを伝えに来なくたって、朝になれば乳母が発見して、その後は葬式をし、町中に嫌でも伝わるはずだ。当然、僕も知ることになる。だけど、それよりも前に。朝を待たずに、誰にも知られていない夜のうちに、僕だけに伝える意図は……。
「あら。賢い子」
その言葉で、確信が強まった。
「死んだなんて、嘘だろ」
「どっちかしらね。確かめたらどう?」
「ひまりに会いに行けって言うのか?」
誘いに乗せられてるとわかってて、行きたくはないけれど……。
「でも、いいの? そばに居てあげないと。あの子、なにするか分からないわよ」
否定できなかった。むしろ絶対に、ひまり何かする。
「それに、結婚を本当は止めたいんでしょ」
「……その話題は好きじゃない」
見透かされたその目から、逸らした。またゆらゆらと心が動いてしまう。勝手にしろと、ひまりに言ったけど、すっかり説得させられてしまった。
「分かった。わかった、いくよ」
「良かったわ」
ロザラインは、僕が途中でジュリエットの部屋に行くのをやめないようにするためか、横に着いて歩く。
バルコニーに登る時には、部屋まで届け終わったからか、僕を残し彼女は姿をすっと消した。
部屋を覗くとベッド上で、だらっと腕を投げ出し、力無く倒れているジュリエットの姿が見えた。
「……っ!」
息をこらえ、唇を噛んだ。
確かめるまでは、なにも考えるな。
「ひま……っ?」
……り。駆け寄ればひまりの腹部あたりがわずかに上下に動いていた。息をする音が聞こえる。
「ふふ」
と、堪えきれなくなったのか、ひまりの口から声が漏れる。静かに目が開かれ、その瞳は乱れた前髪の隙間から僕を見た。
「……悪趣味な真似するなよ」
「こーき。そんな顔、してくれるんだぁ。嬉しい」
項垂れた僕を引き寄せ、唇を重ねて、離す。
本当に迷惑な子だ。やって良い事と悪いことがわかっていないんだ。ひまりは、幸せそうに笑い上体を起こした。
「来てくれないんだもん。呼んじゃった」
「……」
「あたしの勝ちだね」
あー、そうだね。って力抜けて負けを認める。
「終わらす方法を思いついたの。こーきにはできないでしょ?」
「どうやって……」
「ロザラインに、パリス様と結婚したら終わるのか聞いたけど答えてくれなかった。でも一回目のときに、こーきがそうなったようにすれば、この物語が終わって、また新しい物語が、ゼロから始まるでしょ?」
その方法だと、僕もひまりも死ぬやり方だ。
なにを言ってるのかわからない。頭が、理解する事を拒んでる気がする。
「聞いて? シナリオは、こう――」
そう言って、枕をめくると隠してあった護身用の短い刀を手に持った。続けてひまりは言う。
「ロミオはね、ジュリエットがパリス様と結婚するのを止めたくて。考えた末に、ジュリエットを誰にも手の届かない遠くに連れて自分だけのものにした――。きっと、一緒に死んだら、みんながそう噂してくれるよ」
「……なんで、そんなことを」
キラっと光る剣先に、身がすくむ。本当に、なにを考えているんだ。
「だって。こーきだって、心の中ではジュリエットがパリス様と結婚するのは見たくないでしょ。それなのに、あたしを町の外に連れ去ってくれないし」
「だからって、死ぬなんて。他に方法が」
「なにも思いつかないくせに。早くゆかに会いたくないの?」
「僕は、ひまりを死なせてまで結夏に会おうなんて、思ってない」
「仮死でも見るのも怖いこーきだもんね。確かに、一度もあたしに消えてとは、言わなかったね。良いよ、一緒に握ってあげる。こーきはあたしに任せるだけで大丈夫だから」
ひまりは、「これも返してあげる」と、いつまでたっても戻って来なかった指輪を、最後の最期に僕の手のひらを開かせて乗せた。それから短剣の柄を持たせると、その上からひまりも手を重ねる。
そして、短剣を自らの胸へと突き立てる。
「ほら。あたしの、勝ちでしょ」
「こんなのは……、間違ってる」
「もしあの暗闇で、こーきの好きな人を見つけたら、次のジュリエットとして連れて来てあげる」
「……結夏を…………?」
「だから、言って? さいごに『誰にも渡しくない』って」
最期……。
絶対に狂ってる。ロミオに、剣を突き立てられていると言うのに。
息が詰まるほどに。逃げ出したいくらい、怖いはずなのに。命が切れる緊迫した空気に、結夏と同じジュリエットの声が薬のように身体に染み込んでいく。
「あいつの、……ところには、行くなっ」
ジュリエットがそう望むなら、乾いた喉から声を振り絞り、言った。
「ねぇ、見て。最っ高のシュチュエーションだね」
いやって言うほど見てるよ。僕は、この光景を。
目を閉じたくなるけれど、逃げられずに。
ひまりが満足して、短剣を一気に自分の体へと、突き立てる。僕の手の上に重ねたひまりの手が、さらに奥に入る。短剣ごしに、貫いたのが伝わってきた。
ぞわっとした頃には、ひまりは、苦悶の声を漏らして、僕の手から離れ、倒れた。咄嗟に腕に抱いたけど、目は閉じたまま。
「ぼ、……ぼく、がぁ……ジュリエット……を? 僕が、ジュリエットを…………っ!! ぅぁあぁぁああああツツ!!!!」
カランと血に染った短剣は床に落ちる。ベッドには絶えたジュリエットの姿。ひまりの服は赤く染まり、自分の手にはべっとりと同じ赤いものがまとわりつく。
じわじわと、シーツも赤いものが沁みこみ広がっていった。
「ひ、まり……っ!」
手にはまだジュリエットを貫いた感触が残っている。
「はぁ……っ、…………はぁ」
だめだ。こんなの耐えられやしない。ジュリエットを自分の手で。
僕も。
ジュリエットの元に……。
落とした短剣を、拾い上げると――
「止まれ」
と、何者かに腕を背中の方へ捻り上げられた。
反動で、短剣はまた僕の手のひらから抜け落ちてしまった。
「楽にしてやるが、少し待て」
背後から聞こえたその声は、いつも最期に現れる毒売りの男だった。