朝日がまだ寝ぼけたようなぼんやりとした光を放つころ、ライチは目を覚ました。木造の天井に目をやりながら、しばらくじっと横になっていた。
(……ここで起きるのも、一旦これで最後か)
バルゴの家の寝具の匂いにも、床板のきしむ音にも、すっかり慣れていた自分に気づいて、胸に小さな寂しさが広がる。
起き上がって荷物を確認する。ふと視界の端に、あの日のスーツと革靴があった。転移のときに着ていて、水浴びで着替えたもの。畳んで枕元に置かれている。
「これも……持っていかないとな」
今日は森の探索のあと、店小屋で寝る予定だ。いよいよ、生活の拠点を変えるときが来たのだ。
(今日もいい天気になりそうだな)
そう思って伸びをしたライチは、ふと何かを思い出したように目を見開いた。
「ああ!ユキダマソウ!昨日の夕方には回収するつもりが……!」
慌てて声に出すと、近くで水桶の整理をしていたバルゴがちらりとこちらを見る。
「夕方のうちに回収して、袋に入れてそこの壁にかけてあるぞ」
バルゴは顎で壁を示しながら、いつも通りの穏やかな口調で言った。
ライチはほっと息をつくと、壁にかかった麻袋を確認して「助かります……!」と頭を下げた。
あれも店小屋に運ぶべきか、とチラリと考えて、木槌も何も無いため、それは諦めた。申し訳ないがここに置かせてもらうことにする。
朝食はパンと焼いた根菜と、昨夜の残りのスープを温め直したもの。いつも通り心に染みる味だった。
子どもたちはさっさと食べ終わると、三人で板間でじゃれ合っている。マーヤは食後にライチとバルゴの昼食を丁寧に包んでくれた。
「ちゃんと冷めても美味しいように、少し干し肉多めで味を濃いめにしてあるから」
「ありがとうございます。助かります」
バルゴが家の外に向かいつつ、ライチを呼んだ。
家の裏手にある便壺小屋。そこから少し離れた納屋に入る。バルゴが取り出したのは、柄の長い木製のクワだった。
「今日は森の奥に入る。野生動物も出るし、小型モンスターもな。これ、持ってけ」
どっしりとした重さが、ライチの手に伝わる。
「クワか……丸腰だとどうしようもないですもんね。頼りにします」
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朝の霧がまだ地面を這うように残る頃、村の広場の南側に、採集隊の面々が集まりはじめていた。二十ほどの家庭が暮らすこの村にしては、ずいぶん賑やかな光景だ。男性だけでなく、小学校高学年くらいの男子もいるせいだろう。
オノやクワ、ナイフやナタ、袋、大きな水瓶、昼食、そして、紐で縛った水筒。各々が森に入る準備を確認しあっている。
ちゃぷちゃぷっ
ライチはマーヤに持たせてもらった腰の水筒を軽く揺らした。
鹿の胃袋製だそうだ。試しに中の水を飲んでみたが、脂で処理されていて、けっこうな獣臭がある。
しかし、今は初夏に近づく季節。それに加え、昼食ありの長丁場での森の探索。獣臭かろうが、水がいつでも飲めるのは非常にありがたい。
「お前さん」
そんなことを考えながら、ライチも列に並んでいたが、ふと背後からかけられた声に振り返った。
「……まさか、その草履で行くのか?」
声をかけてきたのは小屋を建ててくれた男性の一人だ。小柄めの人だが、目の奥には鋭さが宿っている。
ライチは自分の足元を見た。足には、いつも村の中で履いている草履のようなサンダルのようなものが装着されている。草履の靴底と足の甲と足首を、紐でくくりつけただけの、軽くて風通しのいい履き物だ。
(別に……おかしくないよな?)
赤ちゃんは裸足で這い回り、子どもたちも村の地面を裸足で駆けている。大人も、村の中ではライチと同じような草履か、あるいは素足だ。
首を傾げてしまいそうなライチを見て、
「旅の人よ。普段の森への採集のときは、子どもたちは草履を履く。それはお前さんと一緒だ。
だが、今日は森の奥への探索だ。畑仕事のときや、森の奥の、ぬかるんだり、危険な虫が這っていたり、鋭い石や枝が転がるような場所に入るときは、木の靴を履くのが一般的だぞ」
近くにいた年配の村人が補足してくれる。
ライチは、危険、という言葉を噛み締め、ごくりと唾を飲んだ。足元を見たまま、黙り込む。
すると、近くで聞いていた小学校高学年ごろの男子が、村長に声を掛けると、すごい速さで駆け出し、木靴を持って帰ってきた。
「ほら。村に残る男手の中で、ライチに合いそうな大きさの木靴を借りてきたよ。履いてみて」
手渡されたそれは、明らかに使い込まれており、所々にひびも見えるが、木目が美しく、手作業の丁寧さがにじみ出ていた。……しかし、木。素足で、木の靴、だ。
恐る恐る足を入れる。
――ゴツッ。
履いた瞬間、重さと硬さ、そしてつま先から踵までが全く全体がフィットしない違和感が、どっと押し寄せた。
試しに数歩、広場を歩いてみる。
「ッ!」
足全体が悲鳴を上げる。かかと、指の付け根、甲、すべてがゴリゴリと削られ、今にも擦れて血が出そうだ。
(無理!こんなの履いたら、数分で血だらけになる!)
顔を引きつらせながら、丁重に頭を下げた。
「ありがとう……でもごめん、これを履いたら、俺は森に入る前に靴擦れで脱落する……!」
そうは言ってもなぁ……と周りの人たちも思案し始めた。
「草履で森の奥に入ったら、大変なことになるぞ」
別の男性が真剣な顔で言う。
「枝や石が草履を貫通して足に突き刺さる。草の中に潜む虫やヒルにやられる。毒をもったヤツに噛まれることだってある」
「ど、どうにかなりませんか……?」
情けない声が漏れる。たじろぐライチに、村長が腕を組んで唸ったあと、ふと指を鳴らした。
「じゃあ、こうしよう。木の靴底だけを草履の下にくくりつけるんだ。足の甲は……まぁ丸出しだが、草履よりは靴底が厚くなるし、地面の突起も多少は防げるだろう」
それを聞いて、別の男子がすぐに走っていく。しばらくして戻ると、古い木靴の底部分だけを手渡してくれた。
それを草履の下に当てて、みんなであーだこーだ言いながら何本かの紐で足の甲にしっかり結びつけてくれる。
「二度目だが、足の甲は丸出しになるからな。尖った植物や、虫やらが這うのに気をつけろよ」
「は、はい……」
正直、すでに心が折れそうだったが、それでも自分も行ってお役に立ちたい。ライチはぐっと奥歯を噛みしめ、森への出発を待った。
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「よし、待たせたな!」
村長の力強い声が響く。
「今日はベトノキとネバリダケを探しに、普段は行かない奥まで行くぞ!」
「おう!」と返事をしたあと、列が動き出す。ざわつく空気に、緊張と期待が混じっている。
(パパサーチさん、前よりもっとたくさん採れる、ベトノキの群生地を教えてくれ……!)
森へと進む列の中で、ライチは深く息を吸い、《パパサーチ》を発動しようと念じてみた。
《スキル:パパサーチが発動しました》
《探索対象:クラフト素材(ベトノキ 群生地)》
光の道が足元から森の奥まで伸びていく。
(こっちだな。行くぞ)
「あの……村長!前もお伝えしたとおり、ベトノキの群生地の方角、こちらな気がするんです。危険察知の自信は全くないんですが……先頭を進んでもいいですか?」
ライチが大きな声で先頭の村長に声を掛けると、探検隊全体がざわざわと騒がしくなった。
(木靴も履いたことがないのに……?みたいな声が聞こえる気がする……)
村長がニヤリと笑う。
「さっぱり原理は分からねぇが、やみくもに探すよりはマシな気もするな。いいぞ、やってみな」
森の入り口に近い場所は、歩いたこともある。子どもが草履で来ても問題のないような、整えられた土地だ。
ライチはずんずんずんずんと進んでいく。
(この辺りは来たことがないな)
そう思ってからさらにしばらく歩くと、急に地面が凸凹として、草がうっそうと茂り、まさに道なき道といった様子の道になってきた。
(こんな道、歩いたことがないから、すごく歩きにくい……!)
どうにかこうにかクワを振り、藪をかき分け進む。
そのときだった。
「っ、来るぞ!」
草むらから、耳の長い影が飛び出した。一見小さなウサギ……だが、その目はギラギラと光り、口元には鋭い牙。
「こいつは……初日にも……!」
構える暇もなく、ウサギモンスターが飛びかかってくる。ひぃっと、思わずクワを前に構えたまま目を瞑ってしまった。
だが、横から飛び出たバルゴの動きは速かった。あの日と同じようにクワを構え、ぐっと踏み込んで振り下ろす。ゴン、と鈍い音。
「よし、仕留めた」
ピクリとも動かないモンスターを見下ろしながら、バルゴが息を整える。
「ライチ、またか」
ライチも、同じように笑っていた。
初めてこの世界に来た日を思い出しながら。
ウサギのモンスターからは、素材や魔石が取れるらしい。
(魔石……!魔石!)
異世界ファンタジーっぽい響きに、思わずライチが反応してしまう。
ザクッ ぶちっ
その瞬間、ウサギモンスターの額から黄色の小さな石を削ぎ落とすグロテスクシーンを、ライチはバッチリ見てしまう。
「顔の皮が……」
思わず声に出すと、バルゴが説明してくれた。
「魔石を取るのを見るのは初めてか?
普通の生き物とモンスターとを見分けるのは、この額の魔石だ。こいつは黄色だから、風の魔力が込められてる。
こんな小さな石ころでも、行商人がクズ魔石として買い取ってくれんだ。大した価値はないがな」
そう言いながら、魔石を袋にポイと入れる。
「ほっとくと全身が魔石に吸収されて消えちまう。ほんの少しだけ良い魔石になるらしいから、それでもいいけど、ウサギモンスターの毛皮は、普通のウサギより硬くて丈夫なんだよ。だから、魔石に吸収されないように、切り取っておくんだ」
ウサギモンスターの耳を紐でくくりつけて腰に下げる。
「ちなみに、肉は苦くて食えたもんじゃねぇから、期待すんなよ」
ちょっと残念に思うくらいには、ライチもこの村に慣れてきているらしかった。
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光の帯は、森の中をまっすぐ進んでいる。ライチの、ゆっくりながらも迷いのない進みように、探検隊の面々も声をかけながらついてきてくれる。
だが、その道のりは決して甘くなかった。
一つ目の難所は、森の低い斜面に広がるぬかるんだ道だった。
沢があるのか、地面はぐっしょりと水を含んでいる。足を踏み入れた瞬間、ズボリと泥に沈み込んだ。
「うわっ、うわあっ!」
光の道ばかり追っていたライチは、足を取られて泥の中に転倒。手まで泥に沈んでしまう。
泥の中でもがくその様子に、他の仲間が駆け寄ろうとするが、近くの男性がさっと手を伸ばして制止する。
「待て!慌てて引っ張ると靴を持っていかれるぞ」
男性はしゃがみ込み、転んだライチの足元に手を伸ばす。
「もがくなよ。体の重さを一点にかけないように、分散させてな」
泥に埋まった足をそっと持ち上げ、ゆっくりと角度を変えながら、慎重に引き出す。
「はは、えらく男前になったな。大丈夫か?」
バルゴが泥だらけになったライチを笑う。ライチは泥だらけの手や足をそこらの葉で拭いながら、苦笑した。
二つ目。ぬかるみを越えると、次に現れたのは少し開けた草むらだった。ライチは光の道を辿りながら、藪を抜けたことにほっと一息つく。泥も、かなり乾いて落ちてきた。
小さな花が咲いている何の変哲もない浅い草むら。――だがその中に、ヤツは混じっていた。
「ライチ、避けろ、それは“痛い草”だ!」
一人が鋭く声を張り上げる。
え?と思ったときには、海水浴でクラゲに刺されたときのような鋭い痛みがライチの足先の側面あたりを襲った。
「いっっ!!?」
大慌てでみんなのいる方に飛び上がって立ち退く。目を凝らして見ると、細かい毛のような棘が葉にびっしりと生えた、背の低い青っぽい草が生えている。
「あいつに触れると皮膚がヒリヒリと焼けるように痛んで腫れるんだ。背が低いから、木靴を履いてりゃ大して怖くはないんで、言うのが遅くなっちまったな」
「いた……いたい……」
「大人でも泣くほど痛ぇよな。そんなに後は引かねぇから、気張れや」
足の甲が丸出しのライチは、草むらを大きく避けて通る。青い草を絶対に見逃さないように、目は皿である。
「子どもを連れてきてるみてぇだなぁ」
村長が笑うのが聞こえてきた。
三つ目の難所は、不意に訪れた。
――ねばっ。べとっ、ずるぅ。
「ん?……うわっ!?なんか!全身に絡みついて!!くっ、臭っ!」
先ほどの痛みにより、かなりおっかなびっくり足元を見て歩いていたライチが、叫びながら手を振り回す。
ねばねばを顔からずらし、視界を確保して襲ってきたものを見る。
高い枝から垂れ下がっていた粘りのある触手のような極太の蔓が、顔に直撃していた。透明な粘液で、痛みもなく柔らかな蔓だが、とにかく臭いがきつく、もがけばもがくほど全身にべったりと絡みついている。
「じっとして!切るよ!」
中学生くらいの子が俊敏に駆け寄ってきてくれた。クラフトナイフを手にしている。
さっと近くの木を登ると、もがくライチに刃が触れないように、空中の蔓にナイフを伸ばし、スッと刃を入れた。ぬるりとした音と共に、ぼとぼとと蔓が落ち、急に拘束が緩む。
「害はねぇんだけど、臭ぇんだよなぁ、その蔓。しばらく臭うから、触ると家族に怒られるんだわ。頑張って一人で抜け出してこい」
絶叫していたライチをほのぼのと遠巻きに見守っていた男性陣が笑った。
四つ目。泥だらけで足が痛くて臭くてぬるぬるになった満身創痍のライチに……ではなく、そいつは探検隊に襲いかかった。
「いってぇ!」
列の後ろから男性が悲鳴を上げる。
「このっ」「クソッ」「背中まで来た!いてぇ!」
一気にたくさんの声が上がる。後ろを振り返って見ると、皆一様に足元や腕、身体をはたいている。
「アリだ!!しかも、数が半端ねぇ!」
「走れ!!」
誰かが叫んだ。ライチは慌てて光の道の上を駆け出す。
「ライチ、止まれ!」
村長に言われて、足を止める。そこで探検隊は一度アリ落としタイムになった。
バタバタともがく男性五人から、みんなでアリをはたき落とす。鋭い牙を持つ大きなアリで、噛まれるとめちゃくちゃ痛そうである。
「うっかり巣を踏んだやつがいたようだな。毒は持ってねぇアリだが、そんだけ全身噛まれりゃ……できれば冷やした方がいいな」
村長は水音を頼りにすぐに川を見つけると、泥とぬめぬめだらけのライチと、アリに襲われた男性に、川で洗うように指示をした。
「いてぇ!まだ服の中にいやがる」
と、大慌てで素っ裸になった五人は、水中に身体を沈め、お互いの身体にアリが残っていないか確認しあっている。
ライチはこの森がとても恐ろしく感じ始めていて、防御力ほぼゼロの装備だとしても、とても服を脱ぐ気にはなれず、露出した部分だけを洗わせてもらうことにした。