緊張のせいか、夜明けと同時に目が覚めた。
薄暗い中、商品の最終チェックを進める。フィルム袋もグミバッグも、荷物の中に追加済みである。
バルゴ家に着くと、子どもたちを起こさないように、そ…っと、軋む戸をできるだけ静かに開けた。
土間ではマーヤが火を扱いながら朝食の支度をしていた。ライチが小さく会釈すると、彼女も無言で応える。
物音を立てないように注意を払いつつ、梁から干し布を下ろし、それを抱えて外へ出る。
まだ涼しい空気の中、干し場に着くと、クリザ葛の葉を布の上に広げていった。
(よし。今日の終わりに回収して、明日半日かけて抽出、だな)
しばらくすると、戸口からマーヤが顔を出し、手招きしているのに気づいた。
家の中に戻ると、もう朝ごはんが並んでいる。
マーヤがライチに小声で話しかける。
「(早めに食べて行きたいんだろ?あたしもみんなの朝食だけ置いて、そっちを手伝いに行くことにしてるから、食べよっか)」
「(え……マーヤさんも来てくれるんですか?心強すぎます。ありがとうございます)」
「(いいよ。シーラも、連れて行くけどね)」
二人で向かい合って静かに朝食をとる。
焼きパンと野菜のスープに沈むほんの少しの干し肉。質素だけど、あたたかい。美味しい。
こんな早くなのに温かいご飯を食べさせてもらえて、本当にありがたい。
食事を終えて、音がしないように片付けはあとの人に任せて、立ち上がる。
マーヤは手早く、背負子を背負うと、まだ寝ているシーラを腕に抱いた。背負子は後で使う用のようだ。
二人と腕の中の一人で、静かな早朝の村を歩く。鳥のさえずりが心地よい。
店小屋につくと、戸を開けながら説明した。
「まずは、この作業台を広場まで運びたくて。一人でもギリギリいけそうなんですが、よかったら軽く持ってもらえるとありがたいです」
ライチは棚から商品の袋を取って背負うと、作業台の端を握った。二人で声をかけて持ち上げる。
「う〜 だ〜」
シーラがゆさゆさと揺られ、目を覚ます。寝起きのはずだが、いきなりご機嫌さんである。
早朝の村に、作業台を運ぶ、木のきしむ音が控えめに響いた。
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作業台を、広場の中央から少しズレたところ、井戸が見える場所に据えた。
まだ誰の姿もない朝の広場。けれど、これから水を求めて大賑わいになることを、ライチはよく知っている。
「ふぅ……ここでいいのかい?」
「はい。ちょうど日陰になりますし、シーラにも負担はないかなと。井戸や水場からも見やすいですし」
台に力を加え、石などでぐらつきがないことを確かめてから、ライチは荷物袋を開いた。
中には、昨日のうちに準備した布オムツと粉ユキミルク、葦ストロー、そしてフィルム袋とグミバッグ。
マーヤはシーラの授乳を始めるようだ。
ライチは一つひとつを丁寧に取り出し、台の上に並べていく。お店とは言うが、値札も看板もないので、本当に並べるだけだ。
この村では、字が読める者はいないらしい。取引はすべて口頭のやりとりで決まるそうだ。だから、ここでは文字化する必要がないのだ。
(本当は売り物にするからには説明書もつけたいんだけど……紙もないし、インクもないし、字も読めないし……道は険しいな)
「……へえ。これがライチのやりたかった『店』?行商に似てるね」
台の後ろ側の地面に、あぐらをかいて授乳しているマーヤが言った。
「すごいもんだな。同じものをそんなにたくさん。人もたくさん、来てくれると良いね」
しばらく、商品を並べる音と、シーラがごくごくと飲んでは鼻息を鳴らす音だけが聞こえる。
「……で、これ、何と交換する気なんだい?」
ふと、マーヤが問いかけた。
「本来なら“G(グラル)”というお金でやり取りしたかったんですが……ここにはないので、交換に必要な物の例を出す感じでいこうと思います」
ライチはマーヤが授乳を終えると、物での交換レートを図に描きながら懇切丁寧に伝えた。
計算という文化がない以上、一つ一つ覚えてもらうしかない。
黒パン四個……ニ十G
野菜一日分……ニ十G
干肉一日分……三十G
薪など雑費…… 十G
だとライチの脳内で前提を持っておくとして、
・葦ストロー付き粉ユキミルク五日分の包装は、五十G
つまり、黒パンは十個。野菜なら家族で食べる二日半分。干し肉は五食分。
・布オムツは一枚、五G。
黒パンは一個。野菜は一食分弱。干し肉は一食の半分。
・フィルム袋は一枚、十G。
黒パンはニ個、野菜は半日分、干し肉は一食分。
・グミバッグは一枚、三十G。
黒パンは六個、野菜は一日半分、干し肉は一日分。
ライチは同じような内容を繰り返して説明した。
「うーーん……そんな細かく分けなくても、適当にもらってもいい気もするけどね」
半ば呆れ顔のマーヤに、ライチは
「お金でやりとりするときには、正しい価値同士が数字で繋がって交換されるんですよ。ゆくゆくはそうなっていって欲しくて。そうすれば、正しい価値が分からないせいで、割を食ったり、損をする人も減るかなって」
と、熱弁で返す。
マーヤは「そんなもんかいね」と流すことにしたようだった。
(これで、開店準備は整った)
村の何人かの人は、ここを見に来る……はずである。
布オムツと粉ミルクのことはすでに伝えてある。来る……はずだ。来るって言ってた。うん。
誰も来なかったらどうしよう……ちょっとショックだな……なんて弱気な心が首をもたげるが、無理やりポジティブで押さえつける。
村で初めての“店”。
静かな期待と小さな不安が胸を満たしていった。
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村に立ち込める朝食のいい匂いが落ち着いた頃、広場はざわめき始めていた。
店に誰よりも早くやって来たのは、昨日宣伝した時に、粉ユキミルクが欲しいと話していた母親だった。
いつか、「母乳と粥をやってるがよく熱が出る。肉も野菜は口から出すし心配だ」と話していた女性だ。ぐずったままの赤子をなんとかあやしながら抱えている。
広場に立つライチを見つけ、安堵したように微笑む。
「よかった。このユキミルクを待ってたんだよ。このミルクを入れたパン粥はすごい勢いで食べてくれてさ。気のせいか、この子、肌ツヤもいいし、元気で機嫌もよくなってたんだよ。今はもう空になっちまって、ご機嫌斜めでさ。オムツも洗い替えが欲しかったんだ。さっそくいただいていこうかな」
「ありがとうございます!ミルクは、この袋に入れておけば、虫も来ないし湿気ないし、長持ちします。ストローをお付けするので、コップ飲みができなくても、ごくごくとミルクを飲ませることもできます。粉ユキミルク小さな匙一杯をお湯で溶かして、冷ましてから口に入れる……のは前にお渡ししたお試しの物と同じです」
母親は説明に頷いてから商品を眺め、粉ユキミルクの袋に手を伸ばしかける。だが、すぐに手を止め、少し困ったように言った。
「で……えっと、どうやって手に入れればいいの?」
「物と交換、という形です。たとえばパン、野菜、干し肉、保存食、ハーブ、糸、布、小麦粉など……。
粉ユキミルクは五日分入りですので、黒パンは十個。野菜なら家族で食べる二日半分。干し肉は五食分、が交換の目安です」
「うんうん。分かった。じゃあ……ちょっと、家を見てくるよ。小麦粉ならどんだけなんだい?」
小麦粉やハーブの価値はライチには分からない。ATMさんに聞こうにも、質も分からないし、一キログラム、などの明確な量が分からないと、答えてもらいようもない。
「小麦粉……質と量を見てから決めてもいいですか?」
「いいよ!ちょっと待ってな!……お〜、よしよし、もうちょっとしたら良いもん食べさせてあげるからね」
女性は赤子をあやしながら家へ早足に向かって行った。
その間にも次々と村人が様子を見に来る。
最初の客と同様の説明を、後から来た人にもしていると――
「待たせたね!これが家で挽いてる小麦粉だよ。水車のもいいけど、うちの石臼も悪くないよ!一袋はこんだけだ。どうだい?」
先ほどの女性が急いで戻ってきた。腕の中の赤子はジタバタともがき、荒れている。
(ATMさん、価値鑑定、お願いします……!)
《スキル:ATM が 発動しました》
《小麦粉(品質:中程度):一袋五百グラムで 三十Gの価値があります》
「いい小麦粉ですね!これと交換で大丈夫です。何がいくついりますか?」
女性は空いた片手で手速く商品を示す。
「粉ユキミルクがこんだけと、布オムツがこんだけだ。よろしく頼むよ」
五十Gの粉ユキミルクが五袋と、五Gの布オムツ五枚だ。合計、二百七十五Gである。小麦粉なら、六・八七袋分だ。
「それだと、ここからここまでの六袋と、最後の七袋目から少し引いたくらいです」
数字の代わりに手で示したライチに、女性が困ったように眉毛を寄せる。
「……結構取るね?」
確かに、これだけ渡したら生活も苦しくなるだろう。ATMさんの価格設定がなかったら、心が折れてオマケしてしまっていたかもしれない。
「すみません、少ないように見えて、これ一つで母乳や粥と合わせるなら十日分くらい……かなり長く使えるんです。ここからここまでの三袋に減らしておきますか?」
「なるほど、一つがかなり長持ちするんだね。ならその減らした分をもらうよ」
「なら、こちらも小麦粉をこの三袋と、あと半分は……黒パン二つとかで大丈夫ですよ」
「はいよ。あとでパンは持ってくるわね。まずは帰ってこの子のご飯にするわ」
女性も納得したようだ。
この、商売をしている!という感じの、相手との間の少しのヒリつきが、うまくいったときの達成感に繋がっている気がする。
ライチは女性に商品を手渡して見送ると、すぐにマーヤが話し相手になってくれていた次のお客さんの対応を始めた。
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試供品で配ったものを目当てに来てくれたお客さんの購入結果は大きく分けて三つだった。
・試供品をとても気に入って、買えるだけ買っていってくれる人
(たいていが、最初の女性に続いて、粉ユキミルク三袋に、布オムツが五枚だった)
・試供品をもらった礼くらいは……と、どちらも一つずつだけ買いに来てくれる人
・試供品ももらったし、と、顔は見せに来たが、交換する品と量を聞いて、買うのをやめる人
ドタバタして正確ではないかもしれないが、確か上から順番に、五人、三人、二人、だったと思う。試供品を配布した十家庭は、全てお店に来てくれたことになる。実にありがたい限りだ。
あれこれ物が行き交っていたが、干し肉、小麦粉、ハーブ、野菜、木の実、薪、などなどをもらうことができた。
物々交換した物の中でも、ライチとマーヤが特別興奮したものがある。
それは、以前に「夜泣きがひどくて眠れない……」と嘆いていた女性からだった。
「――なるほど。うちは小麦粉はそんなにないけど……これならどう?」
「こ……これは!!」
《スキル:ATM が 発動しました》
《鶏卵(Sサイズ):この村の状況を加味すると 一つで 三十五Gの価値があります》
例の、祭りにしか家の外に出されないと噂の、卵である!
「これは絶対交換してもらったほうがいいよ、ライチ!」
マーヤもライチの背中をバンと叩いて興奮している。
この女性はたくさん買ってくれた方の人だったので、ありがたく、その交換品の一部に、卵を入れてもらうことにした。
何にして食べようか。今からとても楽しみである。
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女性だけでなく畑や仕事に向かう男性も様子を見に来てくれた。
「ライチがまた何かやって見せてるんだって?」「なんだこれ?あぁ、あのブヨブヨ袋か。村長が水筒にしてたやつ」
「フィルム袋っていいます。もしよければ、野菜一束などと交換できますよ」
「いやぁ……俺はちょっとブヨブヨはいいかなぁ……」「水が臭くねぇんだろ?ちょっとばかし興味はあるなぁ」
「オレ、昨日たくさん掘れた根菜と交換しようかな……。ちょっと取ってくるわ」
一人が家に走ると、続いて二人ほど「じゃあ俺も……」と背を向けて走り出した。
三人が一枚ずつお試しでフィルム袋を買ってくれた。村長の宣伝効果は絶大である。男性のお客さんのお役にも立てて、嬉しい限りである。
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のんびり歩いてきたのは村長だった。
フィルム袋水筒を腰にぽよんぽよんとぶら下げ、宣伝大使を頑張ってくれている。店を見る顔には、好奇心がにじんでいた。
「早くから盛況だな。……で、この水筒になる袋はあるか?」
「これですね。フィルム袋です」
「そうこれこれ、家族用にこれ五つと……あと、その分厚い袋も試しにくれ。使い道はまだ思いつかんが……良い使い道を探させてもらおう」
「交換できそうな品はありますか?」
「持ってきたぞ。うちの秘蔵のコレでどうだ!」
村長が差し出したのは、木蓋付きの小瓶。中を覗かせてもらうと、透明で、少しだけの琥珀色のどろりとした液体――ハチミツが入っている。そして、もう一瓶は、少量のお酒だった。
「……これ……かなり貴重なものですよね?」
「そっちが面白いもんをくれるんだから、こっちが皆が渡してるのと同じじゃ、つまらねぇだろ?あと、コップとか使ってない日用品も持ってくるから足りなけりゃあとで見てくれ」
フィルム袋五枚は五十G、グミバッグ一枚は三十Gである。
ATMさんの鑑定結果によると、
・ハチミツ入り小瓶(三匙。四十ミリリットル):ニ十G
・酒の小瓶(百ミリリットル):三十G
だそうなので、不足している三十G分を日用品と交換してもらうことにした。
いろいろ見せてもらって、木のコップ、木皿などをもらうことができた。満足である。
自分の食器って、嬉しいよな。
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お客さんとの交渉がある程度済んで、周りを取り囲んでいた人垣がなくなってくると、遠巻きに見ていた人も声をかけてくれるようになった。
水桶を片手に持った年配の男が、やや距離を取りながら話しかけてきた。
「おい、ライチだったな。……なんだこれは、行商の真似事か?」
「いえ、俺自身で作ったものを、必要な方に交換していただけたらと……」
「ふうん……粉のやつ、以前うちの子育て中の孫がもらってたな。あれで赤ん坊が寝たって?本当かね」
問いかけの声には、疑いというよりも慎重さが滲んでいた。
新しい物には、若い者の分も慎重に。信頼度を確かめたいという、年季の入った考え方だ。
「そのお話は本当です。ただ、すべての子に合うとは限りません。日ごとに寝ない原因は変わりますし、お母さんの体調や、赤ちゃんの気質も関係してきますから。でも、空腹で眠れない、という一つの原因はなくせるものですよ」
「ふむ……素直に言うじゃねぇか」
年配者はそう言って、商品を一つひとつ目で追った。
布オムツに、粉ユキミルク、そして袋。
「なんにしても……お前さんが良いと思って置いてんだろうな、ってのは分かる。おれぁ、昨日村長がその袋を腰で揺らしてたときは、なんのシャレかと思ったがな」
「はは……ポヨポヨ揺れると、目立ちますよね」
「まぁ、今は寄らねぇが、うちの嫁が興味もったら、また来るかもだな。……じゃあな」
そう言い残して、年配者は井戸の方へ戻っていった。
その背を見ながら、マーヤがぽそっとつぶやく。
「年寄り動かすのって、面倒だけど……ああいうのが納得すれば、一気に広まるからね」
「わざわざ見に来て声までかけてくださって……ありがたいですよ、ほんと」
「うん。うちの村は若いもんより、年長者のほうが警戒心が強いけど、全部と敵対しようとする訳じゃないから。気長にね、ライチ」
「はい。……少しずつ、ですね」
遠くを見つめていると、背負子で揺られているシーラが、『まぁ、がんばれや』とでも言うかのように、横から手を伸ばして、ライチの腕にポンと置いてくれた。
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声をかけてくれる人はいるが、買ってくれる目的の人がいなくなってきた。マーヤは、地面に下ろしたシーラと楽しく遊んで待ってくれている。
「そろそろ店じまいにしようか」と、相談し始めたとき。
「ライチ!」
広場に走りこんできたのは、恋する中学生ごろの男子、マルタだった。額に汗をにじませ、息を弾ませながら、作業台に並んだ品々を見回す。
「ちょっと家の仕事頼まれてて遅くなった!これ、どうやったら手に入る?」
その手はまっすぐ粉ユキミルクの袋と布オムツを指している。
育児用品は必要ない年に見えるが、おつかいでも頼まれたのだろうか。ライチは少し驚きながらも、笑顔で答えた。
「みんなは、物と交換していってるよ。干し肉とか、野菜とか……」
「みんなは……ということは、それ以外は?物と交換する以外に換えることもできるってこと?」
「うーん。素材集めとかを手伝ってくれたり……とかかな。……あとは“お金”ってやつをもし持ってるなら、それでも交換できるよ」
最後の一言は、選択肢の一つとしての軽い冗談混じりだった。だが、意外なことに、マルタはぱっと顔を輝かせた。
「あるよ、“お金”!俺、ユイ婆のおつかいで来たんだ。ひ孫にミルクとオムツが欲しいんだってさ」
(なぬ?!お金?!)
ライチが目を瞬かせると、マルタは続ける。
「ユイ婆、お金を見せてくれて、いつも言ってるんだ。『これがお金だよ。こんなもの持ってても村では全く使えないけど……マルタたち孫のオモチャになるならまぁ意味もあるかね』って。
だから、お金で交換できるなら、きっと喜ぶと思う!」
ライチの心臓がドクンと跳ねた。
(お金……! 現金!まさかのこの村で手に入るかもしれない。もしそれを受け取れたら——)
「いくらあるか見てみよう。ユイ婆から借りてきて欲しい」
「わかった、すぐ戻ってくるよ」
マルタは坂の上の家へ向かって駆け出した。
その背を見送りながら、ライチは心の中で高ぶる気持ちを説得して落ち着ける。
(もし本当に現金が手に入れば——いよいよATMでリノたちに“仕送り”ができるかもしれない……!
いやいや、待て待て。“お金”とひとえに言っても、いろいろあるぞ。古くて使えないものもあるかもしれないし……)