数分後、汗をかいたまま戻ってきたマルタが、小さな布包みを両手で差し出す。
「持ってきたよ。なんて書いてあるかは分からないけど、大きい方が良いやつってユイ婆が言ってた。
昔、行商人がユイ婆から布を買うとき、物で交換しきれなかった分を、お金で押し付けていったんだってさ」
布の中には、劣化した金属の硬貨がいくつか入っていた。表面はくすんでいるが、数字はかろうじて読み取れる。
五十の数字が刻まれた硬貨が一枚。
十が二枚。
五が一枚。
そして、かすかに「一」の数字が浮き出た小さな硬貨が三枚。
金属はくすんで酸化していたが、重さはずっしりとあった。
ライチは手に取って目を凝らし、自分の考えが間違っていないかATMさんに確認しながら、静かに息を吐く。
(……五十Gが一枚、十Gが二枚、五Gが一枚、一Gが三枚。合計、七十八G!)
違っていたら訂正してくれと頼んだATMさんが無反応なので、きっとこの結果に間違いはない、ということだろう。
マルタが欲しいと示したのは、粉ユキミルク一袋の五十G。布オムツが五枚で二十五G。
合計、七十五G。ほぼピタリだ。
「大丈夫。これで、ちゃんと交換できるよ。……この三枚は“おつり”だな」
ライチはそっと、マルタの手に、余った三Gを返した。
七十五G。
ライチがこの世界で初めて手にした現金だ。
手のひらの上にあるそれは、村の人々には“噂話”や、“遊び道具”でしかないかもしれない。
けれど、ライチにとっては——
(これで……ようやく仕送りができるかもしれない)
スキルは、たった一つの家族との繋がりなのだ。
胸が熱くなるのを感じながら、ライチは商品を差し出した。
マルタは粉ユキミルクの包みと布オムツを大事そうに抱える。
「ユイ婆、喜ぶよ。ありがとう!」
その背を見送りながら、マーヤが半ば呆れたように肩をすくめる。
「……そんなオモチャ、使い道ないのに。腹も膨れないし。変なやつだね、アンタも」
ライチは笑った。
「はい。変でも……いいんです。コレは、俺にとって、何よりも大事なものですから」
もちろん『家族との繋がり』という意味で伝えたが、正しく伝わったかどうかは……マーヤ次第である。
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陽がだいぶ昇り、広場にいた人々もそれぞれの方向へと散っていった。畑に向かう人、水汲みを終えて煮炊き場へと向かう人、工房の仕事へ向かう人。
どの家も、今日やるべきことへと向かっていく。
人の気配が静かになったのを確認し、ライチは台の上に並んだ残りの商品を布に包んだ。
「……よし。店じまいですね」
「よっしゃ、運ぶか」
マーヤが地面から立ち上がり、シーラを背負う。二人で作業台を持ち上げ、運んできた道を逆にたどって歩く。
戻った店小屋の一角に台を収めると、ライチは今日の交換で手に入れた品々を、棚に入れていった。
パン、小麦、ハーブ、木の実、干し肉、野菜、薪、使い込まれた道具。少量のお酒にハチミツ、薬草まで、思いのほか種類は多い。
「たくさん交換してもらえて、よかったじゃないか」
マーヤが背中のシーラを揺すりながら、嬉しそうに言った。
「はい。……皆さんが受け入れてくれたおかげです」
うんうん、と頷くマーヤと、それを喜ぶシーラに向かって、ライチは自分の考えを伝えた。
「初めての稼ぎは、お世話になった人たちに分けようと思ってまして。村の人から集めて、村の人に配る形にはなるんですけど。
この小屋を作ってくれた人たち、村長、布団をくれた人、ランプをくれた人、布をくれた人、そしてお世話になりまくってるマーヤさん達。」
「うちはもういいって言ってるのに……律儀すぎるのも考えものだよ、ライチ」
マーヤは肩をすくめて、でもどこか嬉しそうに笑った。
「それはこちらこそ、のセリフです。
いつも、寝床や貴重な道具や食べ物や油を分けてくださって、ありがとうございます。」
「ふふ。……ま、気が済むようにしな」
そう言い残して、マーヤはシーラを背負ったまま、家へと戻っていった。
振り返ることなく、日常に戻るその姿を、ライチは感謝の気持ちを込めて、しばらく見送っていた。
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(さて)
ライチは棚の前で腕を組み、今日の“売り上げ”を一つひとつ手に取って数えてみた。
「残り枚数から分かる、初日の売り上げは……と」
粉ユキミルク:19袋 × 50G = 950G
布オムツ:33枚 × 5G = 165G
フィルム袋:8枚 × 10G = 80G
グミバッグ:1枚 × 30G = 30G
→ 計:1225G
「で、何が交換してもらえたかというと……」
黒パン:8個(40G)
干し肉:18切れ(108G)
小麦粉:6袋(180G)
卵:1個(35G)
ハーブ:15束(60G)
日用品:3こ(50G)
木の実:13束(130G)
野菜:11日分(220G)
薪:18束(180G)
ハチミツ:1瓶40ml(20G)
酒:1瓶100ml(30G)
干しきのこ:14袋(140G)
かなりの量になった。しばらくは食いっぱぐれなさそうな稼ぎである。
ライチは、うんうん。と何度も頷いて自分を褒めると、作業台に一緒に並べられている、あのくすんだ硬貨の袋を見つめた。
他の村人にとってはほぼ無価値な。けれど、自分にとっては、家族へつながる大切な、鍵。
そっと包みを広げる。
五十Gが一枚。十G二枚。五G一枚。
合計 四枚。
(七十五Gだよな。……いよいよ、やってみるか)
胸の奥に、わずかな緊張と期待が走る。
誰もいない作業小屋。ライチは静かに目を閉じた。
ドクン、ドクン、と耳元で心臓が脈打つ音が聞こえる。
ライチは、ふーー……と、小さく深呼吸をした。
「スキル:ATM——送金を、させてくれ」
《スキル:ATM 起動します》
声は即座に脳内に響いた。
次の瞬間、目の前に白い光の板が浮かび上がる。まるでホログラムのように、半透明に光を帯びている。
表示されたのは、見覚えのある日本語の文字列だった。
『いらっしゃいませ』
『ご希望の 取り引きは 「ご送金」 ですね』
『送金先は 「家族」 ですね』
表示と同時に、どこか乾いた機械的な音声が淡々と読み上げていく。
俺の脳内のATMのイメージを借りているからこうなっているのか、神様の趣味なのか、モロにATMの機械操作気分だ。
画面には、選択肢が並ぶはずの場所がある。だが、他の選択肢は表示されていない。
タッチもしていないのに、勝手に選択されて次の画面へと切り替わっていく。
(……まぁ、“家族専用”で付けてもらった、異世界送金スキルだからな)
内心で苦笑しつつ、表示を見つめる。
『お金を 投入してください』
『入れ終わりましたら 完了 を押してください』
白い画面の下部に、ぽっかりと縦長の穴が開き、投入口ができあがった。
ライチは意を決して、五グラルの硬貨を指先でつまみ、そっと中へ滑り込ませた。
硬貨が穴に消えると同時に、小さく「カチャン」と金属の落ちる音がして、画面に「完了」の選択肢が浮かび上がる。
光る画面に触れられるのか、ドキドキとしながら、ライチは指先でそっと【完了】をタッチした。
投入口がすっと閉じ、画面が再び切り替わる。
『ご送金先は リノ ですね』
(……口座を持ってるのが、リノだけ……なのかな)
画面が確定し、読み上げが続く。
『ご指定内容を ご確認ください』
『送金先 リノ』
『送金額 五グラル』
『よろしければ 送金 を押してください』
ライチは無言で手を伸ばし、指先を光の文字に重ねる。
「……送金!」
タッチした瞬間、画面がひときわ強く輝き、読み上げが響く。
『送金が 完了しました』
『またのお取引を お待ちしております』
光の板が消え、小屋の中に静けさが戻った。
ほんのひととき前まで、目の前には眩しいほどの光があったのに。今は、ただ穏やかで静かな空気が漂っている。
ドクン…ドクン……
耳元では、いまだに心臓の鼓動が響いて聞こえている。
(……リノ…………)
画面が消えると同時に、糸のように繋がった家族との繋がりが、また断たれた気がして。
ライチはしばらく、何もできずにぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
「………っ」
だが、本当にふいに。胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
(……本当に……届いたんだ……)
たった五G。
この村では、干し肉一切れにも満たない価値かもしれない。五十円では、三人の好きなおやつ一つ、買ってやれないかもしれない。
それでも、確かに自分の手から、家族へ、つながった。
(……リノ……ルノ……レント……ロク…………)
異世界に来てからは数えるほどしか呼んでこなかった名前。
一人ひとりに心の中で呼びかける度に、これまで胸の奥に押し込めてきたものが溢れ出してきた。
「……会いたい……」
ぽつりと漏れたその声は、酷く掠れていて。
ライチはこれまでずっと必死に押し留めてきた感情が、濁流のように全身に渦巻くのを感じた。
もう、何日目だろう。
声も顔も聞いていない。触れられない。抱きしめられない。
そして、それらはもう二度と、叶わない。
「……元気に……してるか?
ルノは……ちゃんと幼稚園、行ってるか……レントは、また転んでないか……ロクは……ご飯食べれてるか……」
(会いたい、会いたい、会いたい、抱きしめたい、撫でたい、触れたい、愛してるって言いたい、自慢の子だって言いたい、何にも替えられない宝物だって言いたい)
内側から溢れてやまない感情の嵐に、思わず顔を覆った。
手のひらに、涙が止めどなく流れ込んでくる。
「みんな……心配、してるよな……俺がいなくなった日から、きっと……ごめん……。
リノ……小さな子供を三人も、一人で育てさせちゃって……ごめん……こんな夫で……ごめん……。
みんな、寂しい思いをさせるパパで……ごめんな……ごめん……」
ずっと平気なふりをして、やるべきことに集中してきた。思い出しても、今は駄目だと微笑みで上書きして。
でも、本当はずっと——泣き出したかった。
「……こっちは大丈夫だよって、言いたい……なんでもないよって……気にせず笑っててくれって……」
声が震え、床に膝をつく。
こぼれる涙が、手をすり抜け、ぽたぽた……と床に落ちていく。
この世界で、ようやく得た価値。ようやく送れた小さな手紙のような、硬貨。
たったそれだけのことなのに、自分の中で張りつめていた何かが、ふっと緩んだ。
「……ありがとう……届けてくれて、ありがとう……」
それは祈りにも似た、感謝の言葉だった。
しばらくの間、小屋の中には、嗚咽だけが静かに響いていた。
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---
「おっしゃ!」
バシッ
散々泣きまくったライチは、両頬を強く打つと、気持ちを切り替えて立ち上がった。目の腫れはまだ引かないが、胸の中は澄みきっていた。
作業台を見る。
ここにあるのは、今回の頑張り。そして何より、村のみんなから受け取った信頼と優しさの証だ。
立ち止まっていては、家族にいい生活なんていつまでもさせてやれない。
(……さて。まずはお礼参りといきますか)
ライチは、作業台から一つひとつを手に取り、物々交換時にいくつかオマケで頂戴した麻袋に、分配先を思い浮かべて入れていく。
小麦粉は袋に小分けにして。黒パン、干し肉、野菜、ハーブ、干しきのこも入れていく。
「まずは……村長」
店小屋を建てる指示をしてくれた。機織り機も貸してくれたし、ライチの発明を買ってくれていて、村に温かく迎え入れて、何かと気にかけてくれている。
「次に、木工工房の皆さん」
リーダーのリグナスを中心に、あっという間にみんなで素敵な店小屋を建ててくれた。
「トントさんには……」
ランプを譲ってくれた。とても便利に使っている。
「ユイ婆さんには……」
冬布団をもらった。質が良く、暖かく眠れている。硬貨もいただいたし、ちょっと私情で色をつけてしまおう……。
「カヤさんは……」
布や服を惜しまず提供してくれた。 でも……
(カヤさんには、糸をあげたほうがいいな)
ライチはカヤ用の袋をそっと撤去した。どんな長さの糸がどれくらい欲しいか聞いて、カヤが持っている素材を、いい長さの糸にクラフトポンしてあげるのもいいかもしれない。今なら森じゅうの素材をポンできそうなくらい、父性が滾っているし。
ラッピングもどきは終わった。中身は生の食材も多い。気温も上がってきたし、保留にしないですぐに渡した方がお役に立てるだろう。
そう思ったライチは、泣き腫らした目を水で軽く冷やすと、さっそく全ての袋を両手に持って外へ出た。
訪ねた先では、みんな口を揃えて、
「ポリエ糸を教えてくれた礼だから、さらに礼なんていらないんだよ」
と話した。
ユイ婆さんには、特に硬貨のお礼もあって感情を込めてお礼をしてしまったが、ご本人は「あんな玩具がお役に立ててよかったよ」とライチの熱に圧倒されている様子だった。
それでも、渡した包みを受け取る時の表情は、みんな少し誇らしそうで、どこか嬉しそうだった。
こうして一軒ずつお礼を終え、残ったすべては、バルゴの家へ持っていくことにした。
その後、赤く腫れているのが気になるのか、目元をチラチラマーヤに見られつつも、美味しい昼食をとり、午後はひたすら機織りに精を出した。
こちらも早くレベルアップして、村の子供たちの笑顔と、家族への送金に繋げたいものだ。
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夕食前。ライチがバルゴ家の戸をノックすると、中から元気な子どもたちの声が飛んでくる。
チラリと見ると、干し場にあるはずのクリザ葛の葉がない。またみんなで室内に回収しておいてくれたようだ。
「ライチー!」「おかえり〜!」
「みなさん!今日は、今まで食べるだけだった、このライチ。ようやくみなさんに食べ物を持って帰ってまいりました!」
「おお〜!やるじゃんライチ〜!」「これが昨日言ってた『いいもの』ー?」
「いや、あれはまだ途中。でも……じゃーん!」
ハチミツの瓶を掲げて、蓋を取り中の匂いを嗅がせると、子どもたちが、わっ!!と飛び上がって大声をあげる。
「ハチミツ!ハチミツだ!」「それ、なめていいの?!」
「二人はいいけど、シーラはまだやめとこうな」
花の蜜には一歳未満の赤ちゃんには毒になるボツリヌス菌が含まれている。まぁ、土壌にも含まれている菌だから、この世界の衛生環境では止めても無駄かもしれないが……念の為、ライチはすかさず声をかけた。
「そしてぇ……これっ!たまご〜!」
パンパカパンパンパーンとポケット的な位置から卵を取り出すライチに、背後からマーヤの驚愕の声がする。
「あんた、たった一個もらえた卵を、うちに渡しちまうのかい?!一人で食べたっていいんだよ?」
ライチは恭しく首を振った。
「いえいえ。売った商品は、全てみんなで作り上げたものなんで、みんなで食べましょう!」
マーヤが渋々同意しながら、こっそりと目をキラキラさせて、「さて……何にしようかねぇ……」と思案し始めた。
「バルゴさんには……これでーす!」
ライチが酒の小瓶を差し出すと、バルゴは目を丸くして、口元をほころばせた。
「……こりゃ、たまんねぇな」
今日のお祝いにと、一家はさっそくお宝を全て使ってしまうようだ。
小麦粉と卵とハチミツを使い、マーヤが手際よく作ったのは、甘く香るクッキーもどきだ。
お祭りでしか食べられない、なんとも贅沢な一皿。
口の中でホロッと砕けて、卵が香って、ハチミツの甘みが舌先をメロメロにする。なんとも魅惑の食べ物だ。
食後には、ほんの一口のお酒が注がれ、大人三人を陽気にさせる。
(やっぱり、初任給は家族にバーンと遣ってなんぼだな)
勝利の美酒を味わいながら、ライチは夢見心地になったのだった。
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ランプの火を手のひらでかばいながら、ライチは夜道を歩く。
バルゴ家からの夜道。草の匂いが涼やかな風にのって香り、夜空には薄く雲がかかっている。少し長く楽しみすぎたようだ。村はもう眠っている時間だった。
耳を澄ませば、遠くで誰かの家の窓が閉まる音。小さな生き物が草むらを走り抜ける音。
それだけの世界に、自分の足音がざり、ざり、と重なる。
(……今日は、よく動いたな)
初めてお店を開いて、たくさんの人と話して。初めて送金して、お礼を渡して回って、最後はパーティー。
涙も流したし、笑いもした。
村の誰かに、家族の誰かに、ちゃんと自分が“つながってる”と感じられた日だった。
ほんのり灯るランプの灯りの中で、ライチの顔がふとほころぶ。
(……五G。ほんの小さな一歩だ。でも、本当に尊くて、大切な一歩だった。俺は、今日という日を忘れないぞ)
店小屋にたどり着くと、軋む扉をそっと閉め、藁山の布団に座り込む。棚をじっと見た。
昼間はぎっしり詰まっていたはずの棚には、いまはもう、わずかな品しか残っていない。
それを見つめながら、ライチはそっと頷いた。
「……よし」
ランプで布団の中を確認し、火を消すと、布団に身を埋める。
この布団に入って、ランプの煙の匂いを嗅ぎ、木の匂いがまだ残るこの小さな小屋を見ていると、自分は一人じゃない。もっともっとやれる。と、その全てが背中を押してくれてるように感じる。
(明日からも、頑張るぞ)
そして、眠りに入るその瞬間、ふと疑問が頭をよぎった。
「そういえば……ATMに吸われたお金って……この世界から消えちゃうのか……?リノたちにはどんな風に届くんだ……?」
自分だけでは答えを出せない問いに、むむっと考えかけて……すでに睡魔に飲まれかけていたライチは、深く、静かに眠りへと落ちていった。