朝。
小鳥の声と、かすかに風が木窓を揺らす音で目を覚ました。布団の中からぼんやりと天井を見上げる。
(……そうか、夢か)
起き抜けには覚えていた内容も、手からこぼれ落ちる砂のように、あっという間に記憶から消えていく。家族の、とてもいい夢だったと思う。
(今日はシロップを作って、子供たちをメロメロにする日だな)
くくく、と含み笑いをして、はた、と昨夜のことを思い出した。
「昨日は寝落ちして答えを聞けなかったけど……ATMスキルさんに聞きたいことがあったんだった」
布団をめくり、藁山の上で正座をして、居住まいを正す。
「ATMさん。日本のリノにはグラルはどう届いてる?グラルのまま?円になる?
口座にはなんて表示されるんだ?
時間の流れは一緒なのか?向こうではどれくらい経ってるんだ?」
整理して……という初心は霧散し、矢継ぎ早に聞きたいことが次々に口からこぼれた。その全てに反応がない。
視線を空中に泳がせて思案すると、ライチはさらに口を開いた。
「じゃあ……白い画面の中に消えていった硬貨はどうなった?この世界のものが少し消えてしまったけど、その辺はいいのか?
逆に、日本では無からお金が発生するのか?」
その時。 質問に呼応するように脳内に情報が届いた。
《スキル:ATMが発動します》
《スキルについての疑念のみ 解消します》
《スキル名:ATMは Aether Transfer Mechanism すなわち 神的送金装置 の略であり ライチ が 認識している Automatic Teller Machine とは異なります》
《ライチ が 投入した 金銭は 実際には 異空間転移をする訳ではなく ライチが現在存在する 世界に吸収されています》
(なんだって?)
世界に吸収?結局硬貨は消えるということなのか?
《吸収された 金銭のうち 鉱物などの物質的価値は 採集された地点に戻され 再利用されます》
(せっかく鉱物を掘って細工して硬貨にした、その労力は消えるけど、この世界から何かの物質が無くなるわけではないんだな)
《資産的価値は この世界の デジタル資産であるギルドカードを持つもののうち ライチの父性エネルギーが及ぶ対象へと 広く分配されます
対象は 増えた資産を 認識できません》
(父性エネルギーが及ぶ対象……つまり、小さい子のいるご家庭の口座に、こっそり水増しされるのか。ギルドカード……この村には無さそうなワードだな)
《送金先の リノ の世界では 逆の現象が起きます》
《あちらの世界中に点在するデジタル資産内のうち 小数点以下のものや 無効になったポイント 期限切れ電子マネーなど 人々が気づかないうちにこぼれ落ちた富み つまり【見えない資産】を徴収することにより 無から有を生み出します》
(だんだん難しくなってきた……なに、見えない資産って……。
誰も気づきもしてない、お金にもなってない利益を、ネコババするってことか?)
《徴収された分の損失は 神的エネルギーにより ちょっとしたラッキー などで補填され バランスが取られます》
《ライチ が 送金すればするほど 送金対象の リノ は 世界から募金され 両世界が少しハッピーになる というイメージです》
「はぁ……。まぁ、あったものが消えたり、誰も不幸にならないならいいんだけど……。
じゃあ、最初にした他の質問の答えは? 日本のリノの口座にはなんて表示されるんだ?時間の流れは一緒なのか?向こうではどれくらい経ってるんだ?」
《スキルの説明を 終了します》
声は一方的に説明を終えると、ブツリという音でも鳴りそうな勢いでスキルを強制終了した。ライチの脳内に唐突に静けさが戻る。
ライチはしばらく虚空を見つめていた。
「……冷たいなぁ、ATMスキルさん」
ぼそりと呟いて、藁山の上で膝を抱える。
少しだけ期待していた。向こうと繋がってるなら、もっと向こうの様子なんかを聞けるかもしれない、と。
だが、『お前はもうこの世界の人間なのだ』と言わんばかりに、あちらの世界のことは答えてもらえなかった。
「ふぅ……」
勝手な期待を、ため息一つで追いやった後、ライチは自分の膝をぱん、と軽く叩いた。
「でも……仕組みが分かっただけでも、一歩前進だな」
自分が送ったお金が、無意味に消えているわけではない。
誰かが損をしているわけでもない。リノたちに届くのはもちろん、頑張れば頑張るほど、ほんの少し、世界がハッピーになる。
それなら、とことんやる価値はある。
「それにしても……神的エネルギーによるちょっとしたハッピー……くくく。想像すると面白いな。一円以下のハッピーって、なんだろう。暑い時にちょっと涼しい風が吹く、とかか?」
あれこれ向こうの世界の図を想像しながら、靴を履いて藁山から立ち上がる。
朝の小屋はひんやりとしていて、まだ朝日はこの村に熱を届けていない。
昨日、皆に中身を分けた棚は、がらんとしたままだったが、それもリスタート!という趣で、どこか心地よかった。
さてさて、まずは朝ごはんだ。腹が減ってはシロップは作れぬ。
一日の始まりは、バルゴ家の温かい朝食!
ライチは店小屋をそっと後にした。
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朝食の片付けの後。ライチは、みんなが回収して壁に掛けてくれている、クリザ葛の葉の袋に手を伸ばした。
パリッ クシュシュシュ……
一枚を取り出して、粉末を入れる用に用意した大鍋の上で握ってみる。乾燥しきった葉は、小気味よい音を立てて崩れていった。
こぼれ落ちる細かな破片に、ライチは頷く。
「うん、これなら……いけそうだな」
大きな独り言に、マーヤが機織りをしながらリアクションを返してくれる。
「いい感じになったんだ。甘い汁。できるといいね」
ライチが子どもたちのために頑張るのが微笑ましいのか、にこにこと笑ってくれている。
「マーヤさん、この葉、このあとすり潰したくて……すり鉢?粉を作れるような道具って、ありますか?」
マーヤは手を止めて少し思案してから、貯蔵庫の方を指さす。
「ちゃんとしたのはないけど……粉にできそうな、それっぽいのなら奥にあるよ。ちょっと待ってな」
そう言って、貯蔵庫から持ってきたのは、表面がざらついた平たく円い石と、なめらかに削られた木の棒だった。
「それ、薬草を潰すのに使ってたやつ。あたしの母さんがね。あたしもたまにハーブをすり潰すのに使ってるから、いけると思うよ」
「ざらついた石の上でゴリゴリ!なるほど、いけそうな気がします。ありがとう」
ライチはさっそくクリザ葛の葉を何枚か平たい石に乗せ、棒ですり潰し始める。
道具がいいのか葉がいいのか。乾いた葉は思ったよりもすぐに細かくなり、粉末が周囲に溜まっていく。
マーヤは手を動かしながら、チラチラとその様子を見守っていた。
「こら、シーラ、あんたは今はこっちで遊んでな」
食卓の椅子に座るライチの足の間から、いないいないばぁをして遊んでいるシーラを、マーヤが自分の近くに連れて行く。
すぐに粉になるのが楽しくて、ライチはものすごい勢いで葉を粉末にしていった。このまま口に入るものではなく、成分だけ抽出して、この葉は濾し取るので、多少バラつきがあっても問題はない。作業も気楽である。
「これでよし。あとは、粉になったら、四十度程度をキープしたぬるま湯で半日かけて成分抽出、っと」
細かく粉になった葉が、大量に大鍋に溜まった。水を注ぎ入れたら、火をつけてもらった石炉のフックに引っ掛けて、加熱する。
ちょくちょくかき混ぜては指を入れて確かめる。お風呂くらいの温度が目標だ。
マーヤがいよいよ気になってきたのか、手を止めて鍋を覗き込みに来た。
「その草、ほんとに甘くなるの?」
「たぶん……。レッツトライです」
「ふぅん?……あんた、やっぱり変わってるね。どこでそんな知識を拾ったのやら」
ライチは苦笑した。
(父性クラフトのパパサーチ、です……)
ステビア抽出物を見たのは、ルノに買ってあげた赤ちゃんのお菓子のパッケージに載っていた成分名だし。パパサーチもなしでこういう抽出方法を発明する人、本当にすごい。
「うん。人肌より、ちょっとあったかいくらい……たぶん、このくらいだな。あとはこの温度がキープできるように、火から離して……」
ライチは、火から少し離れた灰の中に鍋を下ろす。しばらく触れてはかき混ぜ、かき混ぜては触れ……と温度変化を確かめるが、石炉内の温かさがしっかりと鍋全体に伝わり、放っておいてもぬるま湯はちょうど良い温度を保っている。
「あとは、半日待つだけ、だな」
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待ち時間。
ちょうどマーヤの織っている布が出来上がったということで、是非やらせて欲しいと立候補をして、縦糸を張らせてもらうことになった。
縦糸は、横糸のような一つの作業の繰り返しではなく、いくつもの作業の複合なので、無心でできるようになる……つまりレベルアップするには、時間がかかりそうなのである。
(よしよし、経験値ゲット。いつか素材から布が織れるようになったら……ほんと俺だけチートすぎるな。逆に申し訳ない気もするけど)
そんなよこしまな気持ちで縦糸を通していると、うっかり糸の取り違いをしたり、通し間違えたりしそうになる。
(いかん……集中)
バルゴ家の布をぐちゃぐちゃにするわけにはいかない。ライチは余計なことは考えず、縦糸張りに専念することにした。
マーヤたちのような慣れた人なら、「食事と食事の間くらい」の四時間ほどで終わるらしい縦糸通しも、段取りの悪いライチにかかれば、倍の一日仕事ペースだ。
「そうそう。で、次をこうやって持っておくといいよ」
結局、見かねたマーヤが手を貸してくれて、なんとか四本の手で、昼食までにあらかたの作業を終わらせることができた。
「ブブブブブ」
結構な時間、構ってもらえていなかったシーラが、少しご機嫌ななめな顔をしながら、ツバを飛ばしてなんとか自分のご機嫌を取っている。
(ママを長々とお借りしちゃって、すまん!シーラ)
ぬるま湯のキープができてるかどうかのチェックを間に何度も挟むのも、遅延の原因だ。今回ばかりは甘いもので許してもらおう。
温度キープされている大鍋の横では、マーヤによって昼食の調理が始まっている。
「ブーブー楽しいなぁ、シーラ。……おっと、こっちは来たら メ、だよ」
マーヤは、シーラを火に近づけないように見張りつつ、ライチのもとへ来て縦糸張りの指導をし、家族とライチの五人分の食事を作っている。
(ママの並行処理スキルって、ほんと物凄いよな……。脳みそが三つはあるぞ。多分四つ目、五つ目もあって、それで外に出てる家族のことや、晩ご飯のことなんかも考えてるんだろうなぁ……)
マーヤの姿を見ていると、三人の育児に奔走するリノの姿を思い出す。
俺は一点集中しかできなくて、育児を頑張れば家事がたまりまくって「何をどうしたら家がこんなに荒れるんだ」と嘆かれ、
家事を頑張れば「子供がほったらかされて可哀想」と嘆かれ、
仕事を頑張れば「家は戦場だぞ。戦わないやつは出ていけ」と顎でしゃくられ……
(俺も欲しい、並行処理スキル)
精進あるのみである。
……なんてよそ見をしてたら、また失敗しそうになる。いかんいかん。任せてもらえた“一点”すら集中できなかったら、本末転倒である。
ライチは、「縦糸張りが布の仕上がりの要!」という言葉を思い出して、背筋を伸ばした。
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昼食後の片付けが終わると、そろそろ半日が過ぎたことになる。縦糸も無事張り終わり、マーヤからオッケーがもらえていた。
いよいよ、味見の時である。
まずは鍋を石炉から出す前に、匙でほんの少しだけすくって味をみることにする。
(甘いかな?ちゃんと手順は踏んだし、少しは甘いよな?)
砂糖の四百倍の甘さである。葉も、雑草だからいいやと調子に乗って入れまくったし。なんとか少しは甘みが出ているはずだ。
甘くあってくれ!と願いながら、口へ――
「あっっっっっっま!!!」
甘すぎてもんどり打つ。つい大きな声が出てしまった。シャバシャバしていて見た目も匂いも水そのものなのに、甘みだけが強烈に舌奥の味蕾をパンチしてくる。
煮詰めればシロップに、とパパサーチさんには説明されたが、どうも葉を入れすぎたようだ。煮詰めなくても、すでに砂糖をそのまま口いっぱいに押し込まれたくらい甘い。
「どれどれ、あたしにも分けてくれよ」
マーヤも匙を持ってきて試そうとする。
(ああっ、そんなに匙たっぷりすくったら……)
甘いですよ。と止める間もなく液体は口の中へ。
「あっっっっっっっっっっっま!!!」
(めちゃくちゃ甘いものを食べたときって、みんなこの反応になるんだ)
マーヤが膝を叩きながら甘さに耐えている。現代日本人みたいに、どこの家にも砂糖があって、ひょいとコンビニスイーツが食べれたりするわけではないこの世界育ちの舌に、この甘さはパンチがききすぎていただろう。
「水、水、」
マーヤが本能的に水を飲み、味蕾を洗っている。
(これは、森中に生えまくってる雑草から、とんでもないものができてしまった……)
はっ、と気づいて、「もういいもういい」と、慌てて石炉から大鍋を取り出す。もうほんと、これ以上甘くならなくて良い。
ぬるい大鍋を食卓に置いて、二人は顔を見合わせた。
「あんた、また、とんでもないものを作ったね……」
口元の水を拭いながら、マーヤがライチの考えと同じことを言っている。
「また……やっちゃいました……」
呆然とマーヤを見つめ返すライチ。
二人はしばらく見合って――
『ぷっ』
どちらともなく吹き出した。
「あはははは!なんだい、これ。こんな甘いもの食べたことも飲んだことも聞いたこともないよ!あ〜、ビックリした。お貴族さまだって、こんなに甘いもんは食べたことがないだろうよ!」
「ははは!いやほんとビックリしましたね!この見た目で、ものすごい破壊力……!想像してる甘いものの限界枠をドカンと超えてきたぁ」
甘さにもんどり打ったお互いの様子と、味蕾に強烈な攻撃を食らったショックの共感。人は、あまりに想像を超えたものに誰かと一緒に出会うと、笑い合ってしまうものらしい。
シーラが、あははと笑い合ってる二人の顔を交互に見比べて、自分も自分もと笑い始めた。
「シーラも食べてみたいよな。待っててくれな。もうちょっとまともな甘さに薄めたら、お兄ちゃんたちと一緒に食べてみような」
しゃがんでシーラの頭を撫でると、ライチは次の工程に取り掛かった。